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中国四国農政局

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    那賀川農地防災事業所

    4.主な文化遺産

    牛岐城跡(うしきじょうあと)

    阿南(あなん)市の中心部にある富岡(とみおか)の地は、かつては牛牧庄(うしまきのしょう)と呼ばれ、和歌山県の高野山(こうやさん)の荘園であったといわれています。詳しい年代は不明ですが、この地に城が築かれたのは、南北朝時代で、足利氏の家臣の安宅(あたぎ)氏が築城し、阿南市一帯を地頭として支配したといわれています。

    その後、戦国時代に入ると、阿波(あわ)の守護であった細川氏の武将・新開(しんがい)氏、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と、政情の混乱とともに城主も変遷することとなります。1585年、豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部軍が土佐へと撤退すると、阿波国(あわのくに)は、秀吉の家臣であった蜂須賀家政(はちすかいえまさ)の支配下におかれ、ようやく安定を見せることとなります。牛岐城には、家政の家老、細山帯刀(ほそやまたてわき)が入城し、阿南地方を押さえる阿波九城の1つとして、整備されました。地名が縁起の良い「富岡」と変えられたのも、このころのことで、城の名も富岡城となります。城は、江戸時代の一国一城令により1638年に一部を除いて取り壊されてしまいますが、細山氏は、後に姓を賀島(かしま)と変え、明治まで、富岡の地を治めました。

    牛岐城は、現在の城山を中心として築かれていましたが、市の中心地にあることから、大正時代に山の中央部が分断されて、国道が造られました。現在、本丸跡には、牛岐城趾館が建設され、発掘された石垣が保存されています。春には、山一帯にソメイヨシノが咲き誇る牛岐城跡は、市民の憩いの場となっています。

    なお、牛岐城跡公園は、平成18年10月に、NPO法人地域活性化支援センター(静岡市)が企画した「恋人の聖地」にも選ばれました。園内にある高さ5メートルの「願いの木」には、幸せを願うメッセージカードが多数かけられています。

    【写真】牛岐城跡

    【写真】牛岐城跡

    写真提供:阿南市

    立江寺(たつえじ)

    小松島市立江町にある立江寺は、四国八十八ケ所の19番に数えられる霊場です。四国の霊場中でも屈指の大寺で、境内には、本堂、大師堂、観音堂、多宝塔、書院などが建ち並んでいます。

    奈良時代の747年、聖武天皇の勅願で、高僧・行基が創建したと伝えられており、行基は聖武天皇の皇后である光明皇后の安産を祈るため、高さ約6センチの金の地蔵菩薩像を刻み、本尊として安置したといいます。後に平安時代に入り、弘法大師・空海が、四国八十八ケ所の霊場を巡行の途中、この地に立ち寄り、この地蔵菩薩像があまりにも小さいことから、失われることを心配して、自ら約1.8mの像を刻み、行基の作った地蔵菩薩像をその中に収めました。これが、現在本堂に安置されている地蔵菩薩像で、「子安の地蔵尊」と呼ばれ、安産祈願の人が多く訪れます。戦国時代、土佐の長宗我部軍の侵攻の際の戦火で、本尊以外は焼失しており、現在の立江寺は、秀吉の四国征伐後、阿波に入国した阿波藩祖・蜂須賀家政の再興によるものだといいます。

    この立江寺は、八十八ケ所の霊場のうち、4ヶ所ある関所寺の一つで、罪人や邪心を持った者は、ここで必ず弘法大師のとがめを受けると伝えられています。寺には、不義密通の末、夫を殺害し、密通相手と二人、遍路となってこの寺を訪れたお京という女性の伝説が残っています。お京が本尊を拝もうとすると、たちまち髪が鐘の緒に巻きあげられ、絡みついて離れなくなってしまいます。お京が住職に罪を懺悔すると、頭の肉とともに髪がはがれ、辛うじて命が助かったお京らは、この地で出家し、以後は仏道に精進したといいます。二人が暮らした場所にはお京塚が建てられており、大師堂横の黒髪堂には、現在も、この「肉付鉦の緒」が納められています。

    【写真】立江寺

    【写真】立江寺

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    那賀川農地防災事業所
    〒774-0013
    徳島県阿南市日開野町西居内456
    TEL 0884-23-3833
    FAX 0884-21-0178