このページの本文へ移動

中国四国農政局

    文字サイズ
    標準
    大きく
    メニュー

    那賀川農地防災事業所

    2.中世(鎌倉時代~戦国時代)

    公地公民制は百年も経たぬ間にほころびはじめ、貴族や寺社による荘園(=私有田)が増えていきます。阿南(あなん)市でも平安末期に竹原庄、大野庄、牛牧庄(うしまきのしょう)などの荘園が成立していたことが分かっています。東大寺のような大きな寺社が資金を出して、口分田以外の荒地を整備したり、水路開発を行なったりしたのでしょう。大野庄の場合、年貢は米250石とあるので、水田面積は500ヘクタールくらいが必要だったことになります。かなりの広さです。

    こうした荘園による収入を背景として藤原氏が権勢を誇り、朝廷政治も乱れていきます。例えば、田上郷(阿波国板野郡(あわのくにいたのぐん))の戸籍では、集落の人口435人に対して年貢不要の女性が376名と男はわずか59人。しかも、年貢免除の老人が35人(百歳以上が10名)。納税者はわずかに24名と、明らかに免税を意図した虚偽の記載が見られます。

    貴族や寺社の荘園が不輸不入(ふゆふにゅう)(免税、立入禁止)の特権を得るようになると地方豪族による荘園も畿内(きない)の寺社に寄進する形で税をのがれ、中央も院政による政治に移るなど国の秩序は乱れて、地方豪族は土地を守るために武力を養うようになります。こうして武士の勢力が台頭し、源平の戦いを経て鎌倉幕府が成立することになります。しかし、荘園体制はそのまま存続され、人々は従来の国司、荘官といった朝廷の支配下にありながら、幕府から派遣される守護、地頭の支配をも受けるといった二重体制となり、諍(いさか)いの火種は温存されたままでした。

    蒙古の襲来をきっかけに幕府の力は衰え始め、後醍醐天皇を中心とする武士の勢力が結集し南北朝時代を迎えます。やがて、足利氏が天下を治め、阿波は細川氏の支配するところとなります。細川氏は足利一門の出であり足利義満(あしかがよしみつ)の補佐役も勤めるなど、阿波を中心に勢力を誇った有力な守護大名でした。したがって、阿波は足利幕府と密接なつながりがあったらしく、十代将軍義稙(よしたね)は淡路へきて、後に阿波で病死しています。その養子の義冬は将軍職を望みながら果たせず、平島庄(阿南市那賀川(なかがわ)町一帯の天竜寺系荘園)に移り住み、いわゆる平島公方(ひらしまくぼう)の初代となります。義冬(よしふね)の子、義栄(よしひで) も平島に生まれ、後に十四代将軍になりますが、織田信長が擁した足利 義昭(よしあき)の勢力に押されて阿波で没したとされています。

    平島庄は旧那賀川町一帯を占める広大な荘園だったといいます。するとこの頃の平野は、三角州の先端まで開発されていたことになります。

    一般的に中世は『方丈記(ほうじょうき)』などに見られるように度重なる干ばつで飢饉(ききん)が続発しており、荘園の収益権が複雑化するばかりで、新田開発は少なかったと言われています。しかし、桑野川(くわのがわ)南岸(阿南市)から出土した古銭(こせん)2万6千枚が示すように、この時代、商品経済が著しく発展し、八桙(やほこ) 神社(阿南市 長生(ながいけ)町)の神衣市、隆禅(りゅうぜん) 寺(阿南市 宝田(たからだ)町)の法会市などの大きな市も盛んになりました。このことは畑作(換金作物)の増加を示しているとも言えます。二毛作などは中世から行なわれるようになったといわれており、また、田植えが始まったのもこの時代です。牛による田起こし、代(しろ)かき、脱穀(だっこく)など農業技術は格段の進歩を見せます。田楽(でんがく)に合わせて田植えをする早乙女の絵などが描かれるのもこの時代です。

    応仁の乱(1467~77年)以後、幕府は有名無実となり、代わって各地の土豪や国人の勢力が強まり、群雄割拠する戦国期へと突入します。

    この地は、細川家が分裂して争い、戦国の梟雄(きょうゆう)三好長慶(みよしながよし)の台頭や、富岡城(とみおかじょう)(阿南市富岡町)を拠点とした新開(しんがい)氏の勢力拡大もあって混乱し、その混乱に乗じた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の侵略にあい、長宗我部氏の軍門に下ってしまうことになります。

    【写真】阿波(平島)公方館跡

    【写真】阿波(平島)公方館跡

    お問合せ先

    那賀川農地防災事業所
    〒774-0013
    徳島県阿南市日開野町西居内456
    TEL 0884-23-3833
    FAX 0884-21-0178