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中国四国農政局

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    那賀川農地防災事業所

    4.近代(明治~昭和時代)

    こうした災害で最もダメージを受けるのは、言うまでもなく農民です。江戸末期になると、幕藩体制によって積もりに積もった膿(うみ)が各地で顕在化されてきます。天保の飢饉(てんぽうのききん)では阿波(あわ)でもおびただしい数の死者が発生し、米価は2倍に跳ね上がるなど庶民の暮らしは窮迫(きゅうはく)の極みに達しました。吉野川沿岸では阿波史上最大の規模と言われる「上郡一揆(かみごおりいっき)」(1842年)が発生しています。

    明治維新を迎えて世の中の制度や体制は一新されますが、農村に波及するにはかなりの時間がかかりました。現在から見て近代化と呼べるような展開が始まるのは戦後も数年経ってからで、それまでは農村に溜まった膿を出し尽くす期間であったとも言えます。

    地租改正によって年貢は廃止されます。しかし、政府は「旧来の歳入を減ぜざるを目的と」したため、地代による納税はこれまで以上に厳しいものになりました。とりわけこの地方は小作率が平均60%と高く、見能林(みのばやし)村(阿南(あなん) 市見能林)では地主の土地所有率が約85%(明治45年(1912))と異常な高さを示しています。

    明治から大正にかけて全国で頻発した小作争議(こさくそうぎ) 。徳島県では大正9年(1920)から昭和11年(1936)までに1,300件以上発生しています。全国でも有名な激発地でした。大正7年(1918)に発生し全国的に広まった米騒動はこの地にも飛び火し、上記した見能林村では農民20名余りが地主などの家を襲い、14名が逮捕されています。

    この地からは多くの農家が北海道に移住しています。徳島県からは約5万人が移住したとされ、東北諸県と並ぶ有数の移住県でした。明治後半になると那賀郡からの移住者は20数%を占め、県下でもトップとなっています。

    すでにこの時代になると開発は平野の隅々にまで及んでいます。明治、大正期における農業は、耕地整理(ほ場整備)、畜力(ちくりょく)による田起こし、品種改良、脱穀(だっこく)の機械化といった生産性の拡大に重点が置かれます。この平野からは中西小十郎という人が「権八米」という品種の開発に成功し、徳島県を代表する品種となりました。

    一方、時代が変わったからといって洪水や渇水がなくなるわけではなく、特に那賀川(なかがわ)流域は仏像(ぶつぞう)構造線という大きな断層が走っており、毎回台風の通り道でもあったため、上流では山崩れなどが多く、洪水のたびごとに堰を破壊しました。また川床(かしょう)も河川によるおびただしい土砂運搬のため、常に流路を変えるなど取水は常に不安定な状態のままでした。那賀川流域は林業も重要な産業でしたから、この川では木材の筏(いかだ)流しも許されており、高瀬舟(たかせぶね)による舟運(しゅううん)も盛んでしたので、堰の構造をめぐっては様々な問題も発生しています。

    明治に入ってからも、下流南岸の柳島(やなぎじま)町、横見(よこみ)町一帯の用水不足を解消するための乙堰(おとぜき)(明治19年(1886))や阿南市吉井町の63haを 灌漑(かんがい)する大西堰(おおにしぜき)(明治23年(1890))が造られていますが、取水量が多くなった分だけ渇水時における水不足も増え、あちこちで水争いが起こるようになりました。特に北岸の 大井手堰(おおいでぜき)と南岸の竹原堰(たけわらぜき)の水争いは深刻で、明治27年(1894)には投石による負傷者が続出し警察が制止に入るという大事件となりました。

    また、那賀川に連続した頑丈な堤防を造るためにはいくつかある取水口も障害となります。こうした、取水と治水は一体のものであるとする考え方も徐々に認められるようになり、大正7年(1918)、新聞紙上で南岸統一用水路の提案が農民から出されています。

    政府でも抜本的な改修の必要を認め、四国では四万十川(しまんとがわ)、肘川(ひじがわ) と並んで直轄改修の河川として選定され、調査も始まりますが、財政的な問題もあり、本格的な改修工事が始まるのは昭和7年(1932)のことでした。こうした河川改修と平行して北岸や南岸における堰の統一も図られます。

    南岸は「一の堰」約300ヘクタール、「竹原堰」567ヘクタール、「乙堰」165ヘクタール。県営事業として昭和13年(1938)に計画が立案、翌年に工事が始まりましたが、戦時中の資材不足などから12年の歳月を要し、ようやく完成を見たのは戦後の昭和29年(1954)でした。幹線水路5,876メートル、計1,037ヘクタールを潤す用水です。

    一方、北岸は「上広瀬堰(かみひろせぜき)」「大井手堰」「下広瀬堰(しもひろせぜき)」の計2,500ヘクタールの灌漑用水として昭和23年(1948)、国営事業が着手され、昭和30年(1955)に完成しました。

    こうして、ようやく那賀川平野は近代化の道を歩み始めることになり、徳島県を代表する穀倉地帯へと発展しました。

    【写真】那賀川南岸堰

    【写真】那賀川南岸堰

    【写真】那賀川北岸堰

    【写真】那賀川北岸堰

    お問合せ先

    那賀川農地防災事業所
    〒774-0013
    徳島県阿南市日開野町西居内456
    TEL 0884-23-3833
    FAX 0884-21-0178