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中国四国農政局

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    那賀川農地防災事業所

    コラム―平島公方(ひらじまくぼう)

    応仁の乱の後、足利幕府の勢力は衰え、地方では下剋上の風潮がはびこるなど天下は乱れていきます。1521年、第十代将軍足利義稙(あしかがよしたね)は、管領(かんれい)細川高国(ほそかわたかくに)の専横(せんおう)をいきどおって淡路島に移り、その後阿波(あわ)に来て上洛(じょうらく)を企てたが果せず、1523年、鳴門(なると)市撫養(むや)で病没します。

    この義稙は子がなかったため、十一代将軍 義澄(よしずみ)の子で、阿波の細川氏に託して育てられていた義冬(よしふね)を養子としました。後に細川氏とともに上洛しますが、1532年、阿波勢が京都で戦って敗れたので、やむなく落ちのび、当時足利氏と由縁の深い天竜寺領であった阿波国(あわのくに)平島庄赤池に移り住みます。これが初代の平島公方・義冬で、その居館は平島館と呼ばれていました。

    その後、義冬の子、義栄(よしひで) が上洛し、1568年、室町幕府十四代将軍となりますが、まもなく織田信長が足利 義昭(よしあき)を奉じて上洛するに及んで、義栄は阿波に帰り、撫養で病没します。

    その弟、義助(よしすけ)は平島館で上洛の機会をうかがっていましたが、織田信長の台頭や、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の阿波国侵入にあって、上洛の野望は崩れていきました。

    平島公方としての家系は続きますが、江戸期以降は阿波藩主・蜂須賀(はちすか) 氏の客将として扱われますが、蜂須賀家は平島公方家に下級藩士並みの微禄しか許さず、後には足利氏の家名を平島氏に改めさせるなど冷遇されました。九代の 義根(よしもと) の時、あまりの冷遇に耐えかねて、蜂須賀家から 離反 (りはん) して阿波を去り、姓を足利に戻して足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつないでいたといいます。

    明治維新の時、足利将軍家の正当な末裔(まつえい)として爵位(しゃくい)を求めましたが、領地であった阿波から離脱していたなどの理由をもって却下され、平民身分とされたそうです。

    【写真】阿波(平島)公方館跡

    【写真】阿波(平島)公方館跡

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