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中国四国農政局

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    2. 近世~柳井の干拓事業

    近世に入ると、石高増加のため、柳井村では土地の拡張が行なわれました。土地の拡張は干拓(長州藩では干拓のことを開作と呼びました)によるものでした。柳井村の海岸に初めてできた開作(干拓地)は、柳井開作(のちの古開作)で、江戸時代前期のことでした。柳井湾岸を埋め立てる干拓工事は、厳しい自然と闘いながらの作業で、多くの年月と尊い人命を犠牲にした難工事でした。このあと柳井では合計7つの干拓事業が行われます。

    次の干拓は、古開作の東側の中開作でした。貞享3年(1686年)に開発され、耕地25町歩(約25ヘクタール)のうち、24町歩が水田でした。それより以前には、中開作の北側に新市という町筋ができています。

    第三は、中開作の東に続く柳井宮本開作です。岩国藩の直営開作で、元禄4年(1691年)に完成しました。面積は約13町歩(約13ヘクタール)で、すべて水田でした。

    第四は、元禄10年(1697年)に完成した竪ヶ浜開作で、柳井村ではありませんが、柳井代官の管轄であった平生町にありました。

    第五の柳井塩浜開作では、入浜式塩田が経営されました。塩田の中央部には潮の取り入れや荷船の通過のため、南北に中川が掘られ、東西の浜を結ぶ弓張り状の天津橋が架けられました。天津橋は、遺跡として現在も残っています。

    第六は、宮本沖開作で、これは柳井津町の大年寄・貞末喜左衛門が岩国藩の許可を得て、文化9年(1809年)に自力で開作したものでした。

    最後は、宮本沖塩浜開作で天保10年(1840年)のことでした。

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    南周防農地整備事業所

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