3. 愛媛県 足立重信(あだちしげのぶ)【生没年:?~1625年(寛永2)】 松山市が道後(どうご)平野の中心地になったのは、戦国大名・加藤嘉明(かとうよしあきら)によって、松山城が築かれて以降のことです。この加藤嘉明の重臣で、藩きっての土木技術者だった足立重信は、この地で数多くの困難な仕事を成し遂げています。 重信は、松山城を築くにあたって、当時あちこちに氾濫して流路の定まらなかった伊予川(いよがわ)(重信川)を固定し、川幅を広げて強固な土手を築きました(1595~1598年)。これによりこれまで荒廃地であった約50ヘクタールの新田が拓かれたほか、周囲の約5000ヘクタールもの水田が水利の恩恵に浴しました。 さらに、当時、城を作る勝山の南麓(なんろく)を抜け、幾度となく洪水を繰り返す暴れ川であった石手川(いしてがわ)を南(現在の流路)へ付け替えさせました(1600年頃)。この付け替えによって生じた新田は約300ヘクタールであったと伝えられています。 重信は晩年、松山城の築城の総指揮もとっていますが、残念ながら、完成を目前にした1625年に過労がたたって病死し、遺言の通り城の見える城北・来迎寺(らいこうじ)の丘に葬られました。重信の名前は、現在も重信町(現東温(とおん)市)、重信川(旧伊予川)の名となって残っており、その不滅の業績を今に伝えています。 写真1 松山城 |
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