3 我が国における森林と人間とのかかわり

 我が国でも、長い歴史の中で人々の暮らしと森林や木材とが深く密接にかかわりをもってきた。

 先人たちは、森林から得られる木材を種々の道具や身の回りの日用品、住居や燃料等、身近な場面で様々な用途に使ってきた。しかも、用途に応じて樹種を使い分けるなど木材の特性を巧みに活かし、また、木材を無駄なく利用してきた。さらに、木炭、うるし、樹皮、竹材等も同様に暮らしの中で活用してきた。このように、我が国では生活の中で木を有効に使っていく「木の文化」がはぐくまれてきたといえよう。加えて、きのこ類、木の実、山菜、更には下草や落葉、落枝も人々の暮らしに大きな役割を果たしてきた。

 一方、木材を得るために、過度の伐採が行われ、森林の荒廃もしばしば起こった。細長い日本列島は、一部の平野部を除いて地形は急峻であり、地質ももろい。気候的には、梅雨期や台風期に集中する傾向にある。また、河川は短く勾配が急なことから、降雨等として陸地にもたらされる水は短期間に海まで流下しやすい。

 このような条件下の国土で暮らしてきた先人たちは、森林の荒廃や消失によって、降雨時に地表が削られ土砂が大量に流出したり、河川の流量が不安定になったりすることに繰り返し悩まされ、森林を守り再生させることの重要性を理解し、そのための努力を続けてきた。

 今日、我が国の国土の7割近くが、なお森林として維持され、先進国の中でも極めて高い森林率となっているのは、森林の生育に適した気候や開発が困難な急峻な地形といった自然条件に加え、こうした先人たちの努力があったことによるということができる。

(1)我が国における森林の利用と保全

(先史時代における森林と木材の利用)

 人々が狩猟や漁労、採集により生活していたとされる縄文時代の日本列島では、石斧(おの)による樹木の伐採や木材の加工が行われ、木材の柱を立てた竪穴式住居が用いられ、水上の移動には丸木舟が使われていたと考えられている。もちろん、土器を製作するための燃料にも木材が使われていた。このような当時の様子は、遺跡からの出土品等から知ることができる。

 例えば、縄文時代中期の大規模集落とされる青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡からは、多数の住居跡が発見され、クリが建材として、また、クリやクルミの堅果は食料として利用されていたことが明らかにされた。地中に残された花粉によれば、重要な食料であったクリを栽培していたと推定されている。

 また、福井県の鳥浜(とりはま)貝塚等、同じ縄文時代の遺跡から出土する木製品をみると、水に強く加工しやすいスギの丸木舟、きめの細かなトチノキの鉢や盆のように、用途に応じて樹類が選択され、中には表面に漆が塗られた木の器や櫛もみられる。これらは、当時、既に樹種による木材の特性の違いが認識され的確に使い分けられていたことや、樹脂により木材の耐久性を高める技術も知られていたことを物語っている。

 さらに、三内丸山遺跡や鳥浜貝塚で注目すべきことは、出土品の年代の幅が広く、極めて長期にわたって大規模な集落が継続していたとみられることである。三内丸山遺跡では、紀元前3500年頃から、一つの集落がおよそ1,500年間もの間、連続して存在したと考えられている。

 このように、縄文時代には、森の恵みを持続的に活用していく生活が営まれていた様子をうかがい知ることができる。

(食料の確保と森林)

 縄文期には主食だったと考えられているクリ、クルミやトチ、ナラ等の堅果類は、保存しやすいという特性から、江戸期や明治以降にも穀類と同様に貯蔵され、飢饉の際の非常食となっていた。もちろん、ワラビやゼンマイ等の山菜類、食用のきのこ類等は、現在でも季節の味覚や各地の特産品としても重要な食材である。

 さらに、このような森林の恵みは、人間だけのものではなく、人間が食用としないものも含めて、森林に棲む動物たちを養う栄養源でもある。森林に生息するこれらの鳥獣を人間が狩猟の対象とし、食料や毛皮等を利用できたのも森林からの恩恵ということができる。

 焼畑耕作は、森林や原野を伐開して焼き払い、その灰を肥料として数年間にわたり作物を栽培し、地力が衰えると別の場所に移動する耕作の方法である。縄文末期には既に焼畑耕作が始められたと考えられ、長い間、山間部での収穫を支える耕作法として、戦後までごく普通に行われていた。

 弥生時代に入って本格的に普及し始めた水稲の栽培には、鋤(すき)、鍬(くわ)、田下駄(たげた)等の農具、水田の畦(あぜ)やかんがい用の水路を造るための矢板等にスギ等の木材が多く利用された。

 また、水田による稲作には、豊富な水が必要となる。各地に水田が広がっていくにつれ、安定的に水を得るためには、森林の存在が重要であることについて、経験を通じ認識が深まっていったと考えられる。

 さらに、水田の生産力を保つため、森林や原野の落葉や草を有機質肥料として利用するようにもなっていった。

(住居や大型建築物と森林、木材の利用)

 弥生時代には、住居は、森林の近くよりも水稲栽培を行う平地に造られるようになった。また、この時期の遺跡では、住居跡のほか高床式の倉庫とみられる遺構も見られ、通気性の高い校倉の採用など木材の加工技術も高度になった。

 7世紀の飛鳥時代になると、大和地方を中心に寺院や宮殿など大規模な木造建築物が多く建造されるようになった。現存する世界最古の木造建築物である法隆寺や世界最大級の木造建築である東大寺大仏殿は、当時の建築技術の高さを示している。

 しかし、こうした寺院の建築や藤原京(694年遷都)、平城京(710年遷都)の造営に伴い、大型の木造建築物の建造が盛んに行われるようになると、ヒノキ等建築に用いられる優良材が、また大仏の鋳造に当たっては木炭が、それぞれ大量に使われることとなり、周辺の森林に伐採が集中することとなった。

 既に676年には、我が国初とされる飛鳥川上流の南淵山(みなぶちやま)、細川山(ほそかわやま)(奈良県)の森林伐採を禁じる命令が出されたとの記録があり、当時の森林荒廃を物語っている。また、飛鳥地方の周辺では、次第に良質な木材を得ることができなくなり、湖南(こなん)地域(滋賀県)、伊賀(いが)(三重県)、丹波(たんば)(京都府)等、遠方から木材を運ぶようになったとされている。この後、さらに時代を下ると、畿内地方だけでなく各地で寺院等の建築が進められるようになり、森林の大量伐採も各地に広がっていった。

(燃料等としての森林、木材の利用)

 燃やすという木材の利用形態は、人類が火を使うようになって以来続いている。炊事や暖房用の薪や炭は、日常生活になくてはならない存在であった。

 奈良時代以降「山川藪沢(さんせんそうたく)の利は公私これを共にする」といった命令が度々出されているように、燃料や肥料用の草、落葉、薪などの採取の対象となった森林は、公的な利用と私的な利用とが分かれておらず、農民は比較的自由に利用することができた。一方、これらの採取が盛んに行われると森林の荒廃も見られるようになった。このため、例えば、集落単位で、採取に使うかごの大きさや採取できる期間、一戸当たりの採取することが許される人数を決めるなど、農民たちが森林の利用を自主的に制限することで、森林の利用と保全の両立を図ろうとする知恵が生まれてきた。こうした自主的な利用制限の方法は「山仕法(やましほう)」と呼ばれ、このような村落による共同利用形態は「入会(いりあい)」と呼ばれた。

 また、我が国では、農具等に用いる鉄は、たたら製鉄によって精錬されていた。たたら製鉄は、砂鉄等の鉄鉱原料を木炭を用いて鉄に還元させる製鉄法である。中国地方のように、たたら製鉄が盛んに行われていた地方においては、このために大量の木炭が必要となった。瀬戸内海沿岸等で行われた製塩や、各地で盛んになった陶磁器を製作する窯業においても、木材は燃料として欠かすことのできない存在であった。

 木材に匹敵する燃料が他にない中で、これらの産業のために木材を供給した森林では、その再生能力を超えた伐採が繰り返されることとなった。

(近世都市の発達と森林、木材)

 安土桃山時代になると、大きな都市が造られるようになり、大量の木材が消費された。また、江戸時代になると、人口の集中した江戸や大坂等の大都市では大火が頻発するようになった。江戸(東京)では、明暦3年から明治14年までの224年間に、大火( 注 )が93件も繰り返し発生したとされる。大火に伴う建築用の木材需要の増大から、全国各地で森林伐採が行われるようになった。当時の木材運搬の方法は、河川による流送が中心であり、消費地までの水運の便に左右されたことから、木材を商品として生産できる「林業地」は自ずと限られた。やがて、海運航路が発達したこともあり、大都市での木材需要が伸びるにつれて、各地で森林の伐採が盛んに行われ、木材を取引することにより富を得る商人も現れた。

注:火元から焼けどまり線までの直線距離が長さ15町(およそ1.6km)以上に達した火災

 一方、良質の木材資源に恵まれていた地域の中には、全山が伐採された「尽山(つきやま)」と呼ばれる森林が見られるようになったところもあり、森林を管理していた各藩は危機感をもった。このため、森林資源を保護することの重要さが認識されるようになり、あらかじめ定めた森林の伐採を禁じる「留山(とめやま)」制度や、「停止木(ちょうじぼく)」として定めた特定の樹種の伐採を禁止したり、制限したりする「留木(とめき)」制度が各地で定められた。

 植林についての歴史を見ると、万葉集に人の植えた杉が詠まれており、また、平安時代になると、まとまった植林が行われたという記録がある。室町時代から江戸時代には、吉野(よしの)(奈良県)、尾鷲(おわせ)(三重県)、飫肥(おび)(宮崎県)等各地で木材を得るための産業的な植林が本格的に始められるようになった。

 また、森林の果たす様々な役割が認識されるようになり、江戸時代には、例えば、河川に沿って、その氾濫に備える水害防備のための森林整備や、上流の土砂流出の防止のための植林、強風や砂がもたらす害を抑える海岸防砂林の造成等が各地で盛んに行われるようになった。

 さらに、森林を一度に伐り尽くすのではなく、その再生能力に応じて持続的に木材等の生産物を得ていこうとする考え方も現れた。例えば、20年育った薪炭林を伐採して利用する場合、森林を20の区画に分け、ある年にはその1か所だけを伐ることとすれば、毎年伐採を続けても最初に伐採した箇所に戻るまでに20年間かかり、その箇所は既に20年育った森林になっている。このような方法で、安定的な伐採量を得られるように管理された森林は、「番山(ばんやま)」、「順伐山(じゅんぎりやま)」等と呼ばれ、土佐藩、秋田藩等をはじめ各地でみられるようになった。

 このように、我が国では木材を様々な場面に使う生活文化をもちながら、森林の利用と保全とのバランスをとり、森林の荒廃をくい止める努力が払われてきた。

(明治以降の近代化と森林、木材)

 明治以降になると、我が国は急速に西欧の文明を取り入れ、近代化を進めた。木材の利用についても、建築用はもちろん、例えば、工事の足場や杭、鉱山の坑木、電柱、鉄道の枕木、貨物の梱包、造船材料、桟橋等の各種装置・施設、紙に加工されるパルプの原料等、近代産業の発展に伴って様々な用途に木材が使われた。

 明治期後半には、それまで窯業や製塩、たたら製鉄などのために燃料材の採取が繰り返された地方に加え、近代工業の発展に伴う製紙原料、工業燃料、炭鉱坑木等木材需要の増加から、各地の森林は荒廃が深刻になっていった。明治期後半の5万分の1の地形図をもとに当時の国土利用の様子を見ると、国土のほぼ3分の2を占める森林や農業的利用が行われる土地のほかに、過度の伐採の結果生じた荒野状の荒れ地が国土面積の1割程度を占めていた。明治30年に「森林法」が制定される際には、当時、降雨時にはげ山から土砂が流出し、川を埋めるなどの災害が続発したことも踏まえ、水源のかん養や土砂崩壊防止などの目的のため伐採を制限する保安林の制度が発足した。また、明治32年から大正11年までの間は、当時の農商務省所管国有林において無立木状態の荒廃地への植林等を積極的に進める「国有林野特別経営事業」が行われた。さらに、明治44年からは、森林を再生し荒廃地を復旧するための対策(後の治山事業のもととなる対策)が行われるようになった。

 また、大正4年からは、学術研究、貴重な動植物の保護、風致の維持等のために区域を定めて森林の伐採制限等を行う「保護林」制度が国有林に設けられた。

 このように、森林の利用と保全とのバランスを取りながらその恩恵を末永く享受するためには、植林等により積極的に森林を回復、再生させていく取組も本格的に必要となり、そのための努力が重ねられていった。

(第2次世界大戦とその後の高度経済成長)

 第2次世界大戦の時期には、鉄や石油等の資源に乏しい我が国では、国内で生産できる資源がことごとく徴用の対象とされ、森林も次々に伐採されていった。また、航空機燃料用としてクロマツから松根油(しょうこんゆ)等が採取され、海岸の松林も伐採の危機にさらされた。

 戦後の我が国は、主要な都市が戦災を受け、食料も物資も欠乏する中で、復興のために大量の木材を必要としたことから、我が国の森林は戦後も大量に伐採され、大きく荒廃した。このため、治山事業による崩壊地等の復旧、造林事業による放置された伐採跡地への植林等が進められたほか、緑化意識を高揚する全国植樹祭が始められた。戦後、伐採跡地への植林が一応完了するには、昭和31年まで10年以上の年月を要した。

 昭和30年代には、本格的な経済の高度成長が進む中で、木材需要は建築用材、パルプ用材を中心に急速に増大し、木材需給はひっ迫した。

 このため、木材の価格安定対策として、木材の増産や木材利用の合理化対策が進められたほか、木材の輸入が段階的に自由化され、昭和39年には丸太、製材、合単板等が全て自由化された。森林資源の面では、将来の木材供給能力を高めるため、天然林や原野を対象として、成長が速く経済的価値も見込めた針葉樹人工林に転換する拡大造林施策が積極的に進められた。それまで山村地域の農閑期の収入源として薪炭を供給した広葉樹林は、薪炭需要が急減する一方、広葉樹がパルプ用原料になったこともあり、次々に人工林に転換され、従来人工造林が普及していなかった地域でも、拡大造林が活発に進められていった。また、森林所有者による造林が十分進まないところは、地域の実情に応じ、地方公共団体により設立された造林(林業)公社と林地の所有者との分収方式での植林も行われた。

 これらの結果、昭和32年当時およそ570万haであった人工林面積は、昭和60年代には1,000万haを超えるに至った。

(2)我が国における「木の文化」

 我が国では、森林から得られる木材について、その特性を活かしつつ、様々な用途に無駄なく利用する文化がはぐくまれてきた。身近に入手できる木材は、軽くて丈夫であり、加工しやすい。また、湿度を調節し、断熱性が高く、独特のぬくもりを感じさせる点で、石材や煉瓦、金属等とは大きく異なる性質をもつ。いうまでもなく、木材は昔から住居、道具、日用品、船、神社仏閣、城郭、橋等の建造物、そのほか数え切れないほど多くの用途に利用されてきた。

(建築物)

 我が国の家屋は、木と土と紙によって造られてきたといわれる。地域や時代によって様式に違いはあるが、伝統的には木材の柱や梁などの骨組みとなる構造を組みあげ、これらで荷重を支える木造軸組工法が定着してきた。

 法隆寺、東大寺等の世界に誇る木造建築をもつ我が国では、重要文化財に指定された建造物の9割は木造であり、このうち国宝に指定された建造物は全て木造である。また、一般の建築においても、地域に応じて適材を適所に用いることで木の特性を活かしながら、気候や風土、生活習慣に根ざした家屋が造られてきた。

 また、各地に残る古い農家や町家には、個性豊かな地域の生活の様子が反映されている。こうした木造家屋は、地域の景観や町並みのシンボルとなっていることも多く、民家の保存、再生等の取組が各地で見られるようになっている。

 在来の建築工法で用いられる木材は、柱や天井、床の間等、目に触れる形で使われることが多いため、表面に現れる木目、木材の色、節の有無、杢(もく)と呼ばれる独特の紋様等、見た目の美しさや希少性に対する愛着意識が生まれ、鑑賞価値の高い、いわゆる銘木が珍重されてきた。こうした木材の化粧性を重視する慣習は、木材の取引や評価に大きく影響を与えてきた。

 近年、都市化の進行、建築工法の多様化、高層住宅の増加、和室の減少等、住環境をめぐる状況の変化はめまぐるしく、木材の使われ方にも大きな変化が見られるが、木造住宅に対する需要には、依然、根強いものがある。また、木造の公共施設や地元の木材を使用した住宅づくりなど、改めて木の良さが見直され、木にこだわった建築を進める動きも各地でみられる。

(日用品、道具類)

 日用品にも木材が使われるものは多い。毎日の食事に関係する椀や箸、まな板、容器である樽、桶のほか、机、戸棚等の家具・調度品、下駄、梯子、各種の手工具の柄など数え出せばきりがない。

 我が国での伝統的な木工加工技法には、ろくろを使って椀や鉢をつくる挽物(ひきもの)、板材を組み合わせてつくる指物(さしもの)、ヒノキ、スギ等の薄板を曲げる曲物(まげもの)、のみや小刀で木を彫り盆や皿をつくる刳物(くりもの)がある。伝統的工芸品に指定された品目の中にも木工品、漆器等が多く含まれており、各地で昔から生活に根ざして製作されてきた実用品に木が上手に使われている。

 スポーツ用具や楽器も木材と関係が深い。バット、ラケット、ゴルフヘッドや太鼓、木琴、管楽器、琴、琵琶、バイオリン、ピアノ等、木材は様々な姿で活用されている。

 こうした木製品には、材の耐水性を活かしたヒノキの風呂、湿気や熱を通しにくく、寸法に狂いを生じにくいキリの箪笥(たんす)、ねばり強いアオダモで作られるバットというように、用途に応じて適した樹種が使われる。

 また、目的に応じて木目の向きを使い分けている例に、スギ等の針葉樹から造られる桶と樽の違いが挙げられる。例えば、すし桶の場合には、米飯の余分な水分を吸湿し、使用後も乾きが早いよう、側面の板に柾目(まさめ)材が用いられる。柾目材は、丸太の年輪に対し直角方向に、丸太の外側から中心に向けてとられる板で、木目は板の表から裏を貫く向きに平行に並ぶ。これに対し、和樽では、湿気や水分を通しにくくするため、丸太の年輪方向に沿って板にされ、木目が曲線状に現れる板目(いため)材が用いられる。

 このように、木の使い方には、生活の知恵や食文化につながる工夫も見られる。

(紙製品)

 木材の大きな用途に、紙がある。紙は、原料の植物繊維をたたきほぐすなどして、水に分散させたパルプを漉きあげ、乾かして作るもので、中国で発明され、製法が世界に広がっていった。我が国では、コウゾやミツマタ、ガンピ等の樹皮から漉きあげる和紙が各地で作られてきた。

 木材からパルプが作られるようになったのは、19世紀になってからである。我が国でも明治期以降、洋紙製造が盛んに行われるようになった。

 今日、新聞紙や雑誌をはじめとする印刷・情報用紙、段ボールや紙袋等の包装資材、紙容器、ティッシュペーパーや紙おむつ等の衛生用品など、紙は日常生活に欠かせない。紙と樹脂を組み合わせることで、プリント配線基板や機械部品に加工されるなど、用途も多岐にわたっている。

 紙・パルプの原料は、最初は針葉樹であったが、第二次世界大戦後は針葉樹とともに広葉樹も多く利用されるようになった。森林から立木を伐採し丸太を生産する際には、全てが製材用材になるわけではなく、太さや形質の点で製材用に向かない丸太もでてくる。こうした低質材や製材工場の残材、廃材等がチップ化されてパルプ用原料とされてきた。また、回収された古紙もパルプ原料とされているほか、近年はパルプ原料の海外への依存が高まっている。