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日本食の歴史

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はじめに――アジアのなかの日本食

日本食といえば、誰もが米を思い浮かべるだろう。確かに朝鮮半島でも中国でも、あるいは東南アジアの国々でも、米が食べられているが、とりわけ日本では米が重要な位置を占めてきた。そして日本でおかずといえば、今でこそ肉の消費量は増えたが、やはり魚のイメージが強い。こうした米と魚は、基本的には東南アジア・東アジアというモンスーンアジアの大きな特徴で、高温多湿なことから稲作に適するとともに、これには大量の水が必要で、そこには魚が棲むことから、米と魚の文化が生まれた。

これに対して、西アジア・中央アジアおよびヨーロッパなどでは、寒冷乾燥な気候であることから、麦作が盛んで小麦が主な食料となっている。これには牧畜が伴い、乳を出す牛や羊などが飼われることから、肉と乳が組み合わされた食生活が営まれた。米は脱穀して精米すれば、そのまま粒で食べることが出来るが、小麦は外皮が剥がれにくく粉食とするほかないので、パンやナンあるいは麺となる。これらを食事のメインとしながら、牧畜による肉と乳製品を利用するため、麦と肉の文化が展開をみた。

そして米と魚の文化では、魚を発酵させた魚醤や大豆を用いた味噌・醤油などの穀醤が調味料となり、麦と肉の文化においては、肉や骨を煮込んだスープとクリーム・バター・チーズなどが味付けの主体となっている。ただ中国大陸では、北部には麦と肉の文化が広がるが、南部では米と魚の文化が基本であった。このため日本の食文化は、中国大陸南部の延長線上に位置するものと見なすことができる。

こうして東南アジア・東アジアの稲作地帯では、米と魚が食文化の中心となったが、これに動物性タンパクとして、ブタとニワトリが加わった。いずれも牧畜の動物のように、乳を出すメリットはないが、ニワトリは卵を産むため広く利用された。ニワトリは中国南部・ラオス北部の山岳地帯で家畜化が始まったと考えられるが、かなり早くからユーラシア大陸全般に広がり、西の麦文化の世界へも広まった。

またイノシシの家畜化によるブタの飼育もアジアでのことと思われるが、ブタは放っておいても回りの草や廃棄食料などを食べて育つため、ニワトリとともに稲作労働の傍らで簡単に飼うことができる。これらは魚とともに、米の飯の重要な菜となったが、日本では、かなり特殊な事情が生まれた。おそらく稲作の伝来とともに、日本でもブタの飼育が行われた形跡が認められるが、このブタが途中から欠落していった点が注目される。その意味で、日本の米文化は、アジアのなかではかなり特異なものとなったといえよう。

その理由や事情については、後に触れることとするが、また一方で、今日の日本の領域全てで、稲作が行われていたわけではない。つまり日本列島全体を、米文化が覆ったわけではなく、北海道と沖縄には稲作が及びにくく、むしろ古代以降の日本が排除してきた肉文化が豊かに発達した地域であった。この南北二つの地域は、すでに古代から密接な関係にあったにも関わらず、日本に組み入れられるのは明治すなわち近代以降のことであった。

本章では、こうした歴史的事情を踏まえた上で、米という私たちに非常に親しみの深い食べ物を中心に、日本における食の歴史を眺めていくこととしたい。それゆえ、米以外の食物にも注意を払いながら、稲作以前および南北の問題についても、充分に眼を向けつつ、歴史のなかの日本食の全体像を見つめ直していきたいと思う。

 

I 日本食形成へ道のり

1 日本食の起点

日本列島が今日のような形になったのは、氷河期が終わった縄文時代以降のことで、それ以前の大陸と地続きであった旧石器時代から、人々が住み着くようになった。その時期については、さまざまな議論があるが、早ければ7~8万年前、確実なところでは3万年前とされている。ただ低かった気温のため植物性食料への依存が難しかったことから、いきおい動物性食料が重視された。それゆえ人々は、マンモスやオオツノジカなどの大型獣をはじめ、そうした自然界からのさまざまな食料を入手し、日々を生き抜いていた。

しかし温暖化が進み、海面が上昇した縄文時代になると、植生もかなり変わって、ドングリなどの木の実の食用が可能となった。そうした食料の安定化は、人々に時間的余裕を与えるところとなり、道具の工夫や発達を促し、土器の製作が行われるようになると、煮炊きがいっそう容易なものとなった。つまり加熱によって味覚のみならず、解毒や保存にも大きな効力を発揮するようになった。とくに長時間の加熱は、灰汁を除くことで木の実なども食べやすくなり、食物の範囲は急速に拡大した。

こうして縄文時代においては、狩猟などによる動物食よりも、植物性食料が重要な役割を果たすようになった。かつては食用植物の栽培つまり農耕は、弥生時代以降のこととされていたが、近年では縄文時代においても農耕が行われていたことが確認されている。縄文時代の始期については、近年では一万数千年前とされているが、ほぼ4~5000年前の縄文中期頃には農耕が行われていたものと考えられている。

すでに、この時期に一部では、おそらく焼畑によって稲作も行われていたようであるが、主要な生業となるには至らず、縄文晩期になって、ほぼ疑いなく朝鮮半島経由で水田稲作が、北九州付近に伝わった。これは弥生時代に入って、かなりのスピードで本州や四国・九州へと広まっていった。ただ弥生水田は、青森県にまで及ぶが、これは海路によるものと思われ、基本的に本州東部・北部には、その形跡が薄いとされている。ちなみに弥生時代については、かつて400年前後続いたと考えられていたが、近年では一千年近いとする説が有力視されている。

いずれにしても弥生時代に、米を中心とした食文化の形成が日本で始まったことになる。米は、非常に生産効率が高いばかりでなく、食味が豊かで栄養価に優れ、かつ保存にも適した優秀な食べ物であった。こうして新たに始まった米を中心とする食文化が、その後の日本食の歴史に、最も大きな影響を与えた。そして米は、「はじめに」で触れたように、水田稲作の一環として、稲とセットになる魚の保存法であるスシとともに、ブタの飼育という文化を伝えたものと思われる。

まずスシについては確証があるわけではないが、稲作とともに水田漁業による魚を用いたナレズシが伝来した可能性が高く、琵琶湖に残るフナズシなどを、その名残と考えることもできる。すなわち魚を米飯に合わせて圧力を加えることで発酵を促し、熟成による旨味を引き出すとともに、長期の保存を可能にするもので、やがて、この原理を適応しつつ改良を進めて江戸前の鮨が出現したことになる。

またブタに関しては、弥生時代のイノシシと考えられていた動物の骨が、近年では、多くがブタのものとされるようになり、稲作の受容とともに、ブタの飼育が行われていたことが指摘されている。つまり弥生時代の米文化は、東南アジア・東アジアの場合と全く同様に、米と魚の組み合わせに、ブタという肉が付随したものであった。ただ『魏志』倭人伝などでは、死者の喪などの際に肉食が忌避されている点に留意すべきであろう。

いずれにしても、米を中心とした日本食という観点から考えた場合、水田稲作を全面的に展開し始めた弥生時代こそ、まさしく、その起点であったと考えて疑いはない。ただ、弥生時代の水田稲作は、必ずしも米という食料を、全ての人々に行き渡らせたわけではなかった。つまり弥生時代でも、米以外の食料も重要な位置を占めており、ブタの飼育などを考え併せれば、今日のものとはかなり異なっていたとしなければならない。

 

2 日本食の形成

その後の古墳時代には、王たちの巨大な墓が造られるようになるが、これには高度な土木工事が必要で、水田造成に共通する技術との関連性が高い。さらに王権に基づく集団的な労働力の動員が可能となったことに加えて、この時期におけるウシやウマの移入が、水田の発展に大きな効果をもたらした。しかも米は優秀な食品で、備蓄性が高いことから、社会的な富と見なされ、租税として人々に賦課されるようになった。やがて大和政権による全国統一が進んで、大化の改新を契機に、古代律令国家が成立すると、その政策においても米が非常に重要視されるところとなる。

栄養価の高い米は、古代人に力の源と見なされており、力餅や力ウドンという言葉が象徴するように、力の源となる米の加工品には特別な位置が与えられた。主税と書いて「チカラ」と読むのも、そうした事情によるもので、最も重要な租税は米であった。それゆえ古代国家は、畑地は無視して水田のみを口分田として人々に与え、租すなわち米を最も重視した。それは土地政策にも如実に現れ、百万町歩開墾計画や三世一身の法・墾田永世資材法を発布し続けたのである。

そして日本では、米の生産のために肉が犠牲とされた。古代国家の最盛期の天武天皇4(675)年には、いわゆる肉食禁止令が出されている。しかし、これは単なる仏教による禁令ではなく、その前後の状況や他の法令から判断すれば、米作りのための方策で、動物の肉を食べると稲作が失敗するという観念に基づくものであった。これは、先に見た『魏志』倭人伝の災いがあった時に肉を断つという伝統を引くもので、重要な願い事つまり稲の豊作のためには、肉を食べないとする思想の実現であったと考えられる。

いっぽうで米は、尊い聖なる食べ物としての位置を確立し、祭祀のなかで重要な役割を果たすようになる。現在でも、正月をはじめ村々や家々での祭祀の際に、米は大切な捧げ物で、米から作った餅と酒は欠かすことができない。また天皇が執り行う新嘗祭・大嘗祭などの国家祭祀においても同様で、天皇が毎年皇居の水田で、春には田植えをし、秋には稲刈りをする様子は、しばしば新聞・テレビでも報道されている。

こうして日本では、米のために肉を否定したが、やがて肉は穢れと見なされ、米が聖なる食べ物として、社会的に受け容れられていくことになる。これが東南アジア・東アジアの稲作を受容しながらも、それらの地域とは非常に異なって、ブタを伴わない米文化を成立させるところとなった。それゆえ動物タンパク摂取の観点からは、肉の代わりに魚が重視され、最も典型的な形で米と魚の食文化が発達を見たのであり、鮨に象徴されるように魚食に特化した食事パターンが一般化したのである。

さらに米を重視した古代国家においては、調味料も今日の日本食に近い状況が形成されつつあったことが窺われる。国家機構の食事を預かる大膳職という部署には、醤院がおかれたが、ここでは味噌や醤油の原型となる醤の管理が行われていた。先にも述べた魚醤は、日本へもかなり古い時代に入ったものと思われ、古代の『延喜式』などには、肉醤も見えるなど、一般的な調味料であった。しかし醤院で厳重に管理されていた醤は、明らかに穀醤で、極めて貴重な調味料として意識されていたことが窺われる。

このように古代においては、その頂点をなす国家レベルで、米を食事の中心とし、穀醤を主要な調味料とするような今日の日本食に近い味覚体系が、次第に形成されつつあったと見なしてよいだろう。

 

3 食生活の現実

しかし国家の最高レベルでは、米を中心にいわば日本的な食事体系が整いつつあったが、食生活には極度な階層差がつきまとうことも忘れてはならない。確かに肉食は、穢れたものとして社会的に遠ざけられていったが、その本格的な排除にはかなりの時間を有したし、弥生時代のところで論じたように、米も人々に充分な量を供給できたわけではない。むしろ米は税として農民から吸収されたという事実は重く、かつ米はどこでも作れたわけではない。なかでも日本で好まれる温帯ジャポニカは、適度な水と気温を必要とするため、基本的には水田が必要であった。

米作り=水田と考えるのは、あくまでも私たちの常識でしかなく、実は地下に含まれる充分な水量があれば、畑地でも稲作は可能である。東南アジア・東アジアでは、水田以外に畑地でも稲作が行われており、極端な場合には焼畑でも米が作られている。これは熱帯ジャポニカとされる米の種類で、日本でも縄文時代に部分的に見られた稲作は、これを用いていた可能性が高いが、弥生時代以降の稲作は、基本的には温帯ジャポニカが主流で、水田を前提とするものであった。それゆえ古代国家は、水田のみを重視したのである。

こうした日本での温帯ジャポニカ栽培は、先にも述べたように適度な水と温度管理を必要とするため、一歩それらの歯車が狂えば、たちまち凶作となって食料不足を惹き起こした。このため古代国家は、そうした場合に供えて、農民には畑作も推奨し、麦で命を繋いで米を租税として納めるよう指導している。あくまでも米を中心として、魚食を組み合わせた食事は、国家の官僚である貴族や地方役人である豪族、あるいは中央の大寺院の僧侶や神社の高級神主たちのものでしかなかった。

多くの人々にとっては、米は貴重な食料であり、麦や雑穀もしくは芋などが身近な食べ物であった。もちろん穢れるとされる肉も、これを無視しては動物性タンパクの摂取に難しかった。もともと古代の殺生禁断令でも、禁止されたのはウシ・ウマ・サル・ニワトリ・イヌのみで、イノシシとシカは対象とはなっていなかった。肉をニクと読むのは音読みで、日本語としての訓はシシに過ぎず、イノシシ(猪)・カノシシ(鹿)・カモシシ(羚羊)は、古来から日本人が食べ続けてきた肉であった。

しかし殺生禁断令以降、次第に肉が穢れたものと意識されたところから、イノシシやシカも穢れの対象となり、基本的に口にすることは避けられていった。ただ米の生産力が厳しかった段階においては、多くの人々に肉食は不可欠で、広く食されていた。もちろん貴族や都市民の一部にも、肉を好む人もおり、京都にもシシ肉が販売されるルートさえ成立していた。いわゆるシカの紅葉鍋・イノシシの牡丹鍋・ウマの桜鍋など野獣食の伝統は、鍋という調理法を別とすれば、かなり古い時代にまで溯ると考えて良いだろう。

ただ古代に始まった肉食の禁忌は、水田の開発と生産力の増強が進んだ中世という時代を通じて、徐々に社会の下層まで及んでいく。基本的に中世末期頃には、広く社会的に米飯を中心に、魚を添え野菜などを伴う今日に至る日本的食生活が完成をみる。

これに呼応するように、中世を過ぎて近世に成立した江戸の幕藩体制は、経済的には石高制という形で、ほとんどの経済価値を米で表示するという世界的にも特異な社会システムが誕生をみた。また近世においては、肉を食べると眼が潰れるとか口が曲がるとかいう俗信を生み出したが、社会の一部では薬喰いや鹿食免などと称して、肉食が行われていたことも忘れてはならない。

 

II 日本食文化の充実

1 大饗料理

日本古代における料理様式については、史料的に不明な部分が多く、その内実を知ることができない。こうした料理は、日常の食事とは異なり、祭礼などの儀式の際に最も手の込んだ食べ物が神仏に捧げられるもので、一定の様式を伴うと考えなければならない。その意味においては、神々への神饌を起源と考えてよいが、今日に見られる神饌には、明治初年における神道祭式の変更が大きな影響を及ぼしている。

もともと神饌は、食べ物を神に捧げた後に、祭祀に携わった人々が神と共に食べるものであるから、すでに調理を済ませた熟饌が基本となる。しかし明治以降は、食材そのままの生饌中心に改めたため、古い形式が分からなくなってしまった。もちろん春日大社や談山神社などの神饌から、一定の形式を窺うことができるが、すでにこれらには朝鮮半島を経由して入ってきた盛り物や仏教による彩色の影響が顕著で、それ以前の姿については不明とするほかはない。従って日本で最も古い料理様式は、神饌料理であったと考えられるが、その詳細については明確に出来ないのが現状である。

現在知りうる範囲で、最も古い料理様式が大饗料理となる。大饗料理は、藤原氏など高位の貴族が、大臣に任じられた時や正月などに、天皇の親族を招いて行う儀式料理である。ただ、この時代は料理といっても、生物や干物などを切って並べたもので、味付け自体は、自分の手前に置かれた四種器と呼ばれる小さな皿に、塩や酢あるいは醤などを自ら合わせ、これに浸けて食べるだけであった。これは料理の最も原始的なもので、それぞれが餃子のたれを好みに合わせ作って食べることに似ている。

東南アジアなどで食事をすると、必ず食卓には何種類かの調味料がおかれてあり、それぞれが自分の好みに合わせて味を調える。韓国でも必ずコチュジャンなどがおかれるほか、サムゲタンなども、古い店では食べる直前に塩・コショウを自分で調整する。またギリシャなどでは、ワインビネガー・オリーブオイル・塩・コショウの四つがおかれており、サラダドレッシングは、自分で好みに合わせたものを作るのが常識となっている。まさに大饗料理も同じ発想であった。

また大饗料理では、料理の皿数は必ず偶数で、手元には箸と匙とが置かれている。匙は朝鮮半島では定着を見たが、日本では大饗料理に取り入れられたものの、一般に使用されることはなかった。しかも大饗料理は、身分によって料理数は異なるが、盤上一面に並ぶ様子は、朝鮮半島に韓定食に似ている。このほか、小麦粉を練って油で揚げた八種唐菓子が添えられることなどからも、明らかに大饗料理は、朝鮮半島経由で入った中国料理の影響が著しいことが分かる。

こうした大饗料理は、古代の上層部で行われた料理様式であるが、古代国家が律令という中国の法律体系を模倣したように、儀式料理についても同様に中国のスタイルを真似て完成させたものであることが明らかである。ただ大饗料理にも、一部ではあるが日本的な特色を見出すことができる。それは切るという調理で、この頃から料理人を庖丁人と呼んだことに象徴される。また庖丁上手とは料理がうまいことで、切り口の冴えが料理の出来映えを決した。

例えば美しく切った刺身が美味しいのは、するどい片刃の庖丁で魚肉の細胞を壊さずに切断することによって、肉汁の旨味を逃げ出させないという調理が施されたことになる。日本の神饌の特徴は美しく切ったものを、その切り口を見せながら重ね上げるのに対して、朝鮮半島などの盛り物は、食品そのものを串などで積み上げるという点が異なる。大饗料理は明らかに中国の影響を受けたものであるが、そこには庖丁で美しく切ることを強調する日本的な特徴を読みとれるのである。

 

2 精進料理

大饗料理以後のまとまった料理様式としては、禅宗の僧侶の間で行われた精進料理がある。平安時代末期には、奈良仏教や天台宗・真言宗に対する不満が高まり、真剣に仏教を志す僧侶のなかには、中国での仏教修行を試みて南宋などに渡るものが少なくなかった。当時の中国仏教界では、禅宗が最も重要視されており、そこでは肉食忌避の思想に基づいた精進料理が主流であった。

しかも、この精進料理は、唐代に西方から導入された水車動力によって、製粉技術が著しく高まり、粉物の大量供給が可能となっていた。いうまでもなく精進料理は、仏教徒が肉を断つため、味わいとしては肉に近いものを口にできるような工夫が凝らされている。つまり植物性食料を濃い味の動物性食料の味に近づけるためには、小麦粉や大豆粉などに植物油や味噌などインパクトの強い調味料を合わせる必要があり、整形の容易な粉食が大きな前提となっている。ただいずれにしても、味覚の調合という意味において、精進料理が料理技術に飛躍的な進歩をもたらしたことに疑いはない。

しかも精進料理は、僧侶自らが調理にあたるため、彼らは仏教修行のみならず、料理技術も習得した。こうして中国で禅宗を学んだ僧たちは、日本に帰って禅院を開くなどして修行するとともに、そこで精進料理を広めた。そうした禅僧たちの代表として栄西や道元などが名を残した。なかでも道元は、『赴粥飯法』『典座教訓』といった書物を著し、精進料理そのものに関する記述はないが、食事の意味や禅院における料理当番の役割などについて言及している。おそらく道元は、日本で初めて仏教の立場から、食べるという行為について、深い哲学的な考察を行った人物でもあった。

こうして鎌倉期から南北朝期にかけて、精進料理はめざましい発達をみせたが、その代表例については、『庭訓往来』十月状返に詳しい。ここでは点心類として「鼈羮・猪羮・砂糖羊羹・饂飩・饅頭・索麺・碁子麺」など、菓子として「柑子・橘・熟瓜・煎餅・粢・興米・索餅」など、汁として「豆腐羮・雪林菜、並薯蕷・豆腐・笋蘿蔔・山葵寒汁」など、そして菜に、「煮染牛房・昆布・烏頭布・荒布煮・黒煮蕗・蕪・酢漬茗荷・茄子酢菜・胡瓜・甘漬・納豆・煎豆・差酢若布・酒煎松茸・平茸雁煎・鴨煎」などが見える。

ここに特徴的なように、精進料理は、穀物粉を用いたものや、さまざまに味付けられた野菜類・菌類のほか、果物類が主体となっている。そしてスッポン・イノシシ・ガン・カモなどといった動物名が示すように、植物性食料を鳥獣肉に見立てて、それに近い味を出すところに特徴がある。こうして肉食への願望を、調理技術によって満たそうとしたのが精進料理であり、先にも述べたように、その実現には高い技術力が必要とされた。

こうした料理技術を蓄えていたのは、当然のことながら禅院の僧侶たちであった。彼らは広い意味で料理人であるが、その伝統的な呼称である包丁人ではなく、調菜人と呼ばれた。あくまでも魚鳥を扱うのが庖丁人で、調菜人は精進物を料理する僧侶の仕事であった。ただ本格的な精進料理は、禅院でも重要な茶礼などの際に供されるものであったが、こうした調菜人は、精進料理のうち饅頭などにも作ることから、単に禅院だけに止まらず、贈答などに用いられた点心類の製造にも携わったものと考えられる。

いずれにしても中国からの移入によって成立をみた精進料理は、初めは禅宗の寺院内部で発達をみたが、やがてその高度な調理技術は、一般にも広まるところとなって、鎌倉期以降における料理文化の展開に大きな役割を果たしたとみてよいだろう。

 

3 本膳料理

もともと武士は、大饗料理の催した貴族の従者で、その振舞として芋粥に預かったという話が、芥川龍之介の小説『芋粥』で、その原話は平安時代の『今昔物語集』に見える。つまり初期の武士は貴族のいわばボディガードであったが、やがて貴族の権力を凌駕し、平清盛の平氏政権や源頼朝の鎌倉幕府が成立をみて、武家が政治の表舞台へと躍り出ていくこととなる。これに呼応する形で、武家も独自の料理様式を模索したが、その完成にはかなり長い時間を要した。

鎌倉時代には将軍によって垸飯という料理が振る舞われたが、これは貴族の大饗料理の一部を切り取ったに過ぎず、武家の文化は貴族の文化の後追いでしかなかった。なお鎌倉幕府は、初めは関東を中心とした地方政権とも見なすべきもので、南北朝期に後醍醐天皇が一時政権を奪取したが、基本的には南北朝を統一した室町幕府によって、武家が実質的な全国の支配者になったと考えて良い。まさに武家の料理文化も、この室町時代に新たな様式としての本膳料理が登場をみることになる。

この本膳料理は、大饗料理の儀式的要素と精進料理の技術的要素とが組み合わされたもので、ここに本格的な料理様式が成立をみた。しかも膳を用いて、七五三という奇数の膳組を基本とするところから、極めて日本的な要素が高いとみなすことができる。すなわち中国では、大饗料理のように卓に料理が盛られて、その皿数は偶数であったが、本膳料理では銘々に膳が用いられ、奇数の料理を据えて、箸のみが使われるようになった。ちなみに膳は、朝鮮半島・沖縄で使用されており、椅子を伴わない座居の文化を基礎とする地域に広まった。

本膳料理の構成は、酒を中心とした献部と食事を主とする膳部とからなり、膳には汁が伴っている点が注目される。そして儀礼的要素が強い式三献に始まり、初献・二献・三献と続いた献部のあと、七五三の膳という膳部に移り、与(四)献以後、一七献あるいは二一献という献部が再び続いて全てが終了する。こうした本膳料理が供される御成などの饗宴では、後半の献部ごとに能が演じられ、全体が終わるまでには、夜を徹することになる。

室町時代以降の非常に盛大な饗宴には、こうした本膳料理が供されたが、これは大饗料理と同様に、前々から作りおかれた。従って儀式料理としての性格が強く、膳や皿の一部には金銀での装飾も施され、華々しい雰囲気のなかで食事が楽しまれた。まさに新しい日本料理が出現したことになるが、奇数の膳形式に限らず、料理内容についても、日本料理の原型が完成をみた。つまり本膳料理に伴う汁に象徴されるように、その出汁の基本にカツオと昆布が用いられている点に注目する必要がある。

こうした出汁の完成は、三陸以北とくに北海道で取れる昆布を前提とするもので、非常に広域な商品の流通網が、この時期に成立していたことを示している。またカツオ節の登場も室町時代のことで、まさに今日の日本料理の基礎が、本膳料理によって確立したことになる。そして、こうした料理発展に伴い、その技術を伝承し磨きをかける料理の家が成立をみた。つまり武家料理流派の誕生で、旧来の公家系のそれを伝えた四条流に加えて、大草流・進士流・山内流など武家の料理流派の家々であった。そこでは故実や作法を含む料理技術が追求され、それを秘事口伝という形で伝えたが、その一部がそれぞれの流派内で料理書として残ったのである。

 

4 懐石料理

先にも述べたように、本膳料理は儀式用であり作り置きが当然であったため、料理そのものは豪華でも、冷めた状態で食べなければならなかった。これは真に美味しい料理を味わうというよりは、儀式のなかで、それぞれの身分に応じた料理を食することに意味があった。すなわち本膳料理が供されるような儀式の場では、身分秩序が重要な要素を占め、振る舞われる料理数や座席の位置関係が大きく作用した。身分によって料理内容が異なるのは、大饗料理ではより著しく、それは自らの社会的位置関係を物語るものであった。

こうした堅苦しく延々と続く本膳料理ではなく、その一部の美味しい部分を、自由に楽しもうとして発展をみたのが、懐石料理である。従って懐石料理は、本膳料理の一部を切り取ったようなものであったが、基本的には料理を楽しむということに力点が置かれている。しかも懐石料理は、茶の湯の発達に伴うもので、茶会でお茶を最も美味しく楽しもうとする精神から生まれた点が重要であろう。とくに茶の湯は、禅院の茶礼と関係が深く、精進料理の系譜にも繋がっており、味覚面のみならず精神面も重視された。

もともと茶会では、闘茶すなわち賭け茶が流行するとともに、茶そのものよりも酒が優先される場合も少なくなかった。そこに精神面を重んじた珠光や武野紹鴎らが出て、茶の湯の形が整えられていったが、茶会の最後に行われる酒宴の場である後段を、戦国時代後期に千利休が切り捨てることで完成をみた。一汁三菜程度の料理を基本としたが、茶の湯では一期一会という精神が強調されたことから、その場その場での出会いを大切にするという精神が、料理そのものの内容にも大きな影響を与えた。

すなわち懐石料理で、季節性を重んじて旬の素材にこだわるのは、そうした理由からであった。さらに、その茶会の一時を大切にするため、食器にも心を配り、盛り付けにも気をつかった。こうして季節感のみならず色鮮やかな料理や食器の配置、合理化された作法によるもてなしのほか、料理を味わう空間のしつらえにも最善を尽くした。もちろん暖かいものを暖かいうちに戴けるように、料理を出すタイミングにも充分な計算が施されている。こうして世界的にも評価の高い懐石料理が生まれたのである。

なお懐石の語は、利休の時代には用語としては使われず、むしろ会席の方が一般的であった。ところが近世後期になると、後にみるように大都市には高級料理屋が出現し、そこで会席料理が供されるようになる。しかし、この会席料理は茶の湯とは無関係であった。より正確にいうなら、戦国時代に成立した懐石料理から、茶の湯の要素を切り捨てたのが、近世の会席料理とみなしてよい。つまり数人が料理屋に出かけて注文し、会席という形で酒を飲み歓談しながら味わう料理が、会席料理であったということになる。

懐石の故事とは、禅の修行僧が温石を懐にして身体を暖め空腹を凌いだという逸話に由来するもので、茶事で供される軽い食事を懐石と称したことに因む。これは江戸も元禄期に入って広く読まれた『南方録』に見える語で、しかも利休が語ったことを記したとされる同書は、現在では偽書であったことが指摘されている。従って、やや紛らわしい話ではあるが、戦国時代に生まれた茶の湯に伴う料理様式を懐石料理とし、近世後期に出現した料理屋で供されるものを会席料理と呼ぶこととしたい。

 

III 日本食文化の発展

1 自由な料理の時代

中世までは、これまで述べてきたような料理様式を楽しむ場所が限定されていた。すなわち大饗料理は高級貴族、精進料理は寺院の僧侶、本膳料理は武士の間で、それぞれ儀式の際に味わうに過ぎなかった。また懐石料理にしても、決められた日時に定まった武将や豪商などの茶人が食しただけで、いつでも自由に料理が楽しめたわけではない。さらに言えば、自由という言葉自体、中世までは勝手すぎるというマイナスの意味で用いられていた。

ところが、戦国の時代が終わると安定的な社会が訪れた。天下を統一して、近世の入り口を創り上げた豊臣秀吉は、全国に“平和令”を発布して、大名のみならず村レベルでの争いを停止させ、海賊行為をも強く禁じた。先に秀吉の前に、織田信長が出した楽市楽座令のおかげもあって、商業の自由化が著しく進行した。これに加えて徳川家康が開いた江戸幕府が、五街道や東西航路の整備を図ったことで、全国の流通網が確立をみた。

こうした物資の自由な流通条件という社会的背景の整備とともに、いつでも料理を自由に楽しむことのできる料理屋が発展をみた。中世までは、寺社の門前などでの一服一銭程度の飲食物の販売はあったが、外で料理を口にしうるような施設はなかった。先にも述べたように、あくまでも儀式や茶会の際に、それが供されるだけであった。金銭を代償に料理を味わうための料理屋は、いっさい中世には存在しなかった。

ところが江戸時代に入ると、飲食を楽しむ料理屋が出現をみることになる。それは、初めからの専業施設ではなく、京都東山の時宗寺院などで、代金を取ってその一室を貸し出し、そこで料理を提供するようになった。料理人たちが寺院の庫裡で腕をふるい、貸し出された特別な部屋で、金を出して集まった人々が料理を楽しんだのである。

また料理界でも大きな革新が進んだ。中世以来の料理流派の知識や技術は、近世の将軍家や大名家などの料理人の間にも伝えられたが、そうした知識が一般に公開されるようになった。それは料理書の出版というシステムによるもので、江戸時代に入ると、実にさまざまな書籍が刊行された。

寛永20(1643)年、『料理物語』という料理書が、初めて出版されるところとなった。これによって料理の家に秘伝された料理の知識と技術が、誰でも代金さえ払えば、自由に手に入れることが可能となった。この料理書は、すでに慶長年間に成立しており、原題には『料理秘伝抄』という書名が付されていたが、まさに秘伝を出版してしまったところに大きな意義があった。

しかも、そのあとがきには、「庖丁きりかたの式法によらず」とあり、それまでさまざまな約束事が多かった料理流派の世界から離れて、全く自由に料理を楽しもうとする心意気が感じられる。この『料理物語』とほぼ同時期に刊行された『料理切方秘伝抄』は、実は天皇家・公家の庖丁を司った四条流の料理書で、もっとも権威あるとされた秘伝書まで、出版されるようになった。

そして近世に入ると、全国規模における物資の流通が盛んになり、さまざまな食材が手に入るようになった。このため全国各地の名産物なども、書物などを通じて知られるようになり、食品や料理の幅が急速に広まった。こうして近世には、料理屋の料理にしても料理技術にしても、金銭を媒介とすれば自由に楽しめる時代が来たのである。

 

2 都市の料理文化

こうして近世における自由な料理の指標となったのが、料理書と料理屋であったが、これらは都市の料理文化を象徴するものでもあった。それゆえ、それぞれの発展過程をみることで、近世の都市における料理文化の特質を窺うことができる。先の『料理物語』に代表されるように、寛永期頃から、料理書の出版が始まったが、元禄期頃になると、非常にボリュームのあるものが出版されるようになる。

これらは、いわば料理百科全書ともいうべき性格を有し、季節の素材から月々の献立、さらには取り合わせや料理法など、料理をさまざまな視点から解説したもので、料理に関するあらゆる知識を提供するものであった。ただ、これらの読者は、一般の人々ではありえず、やはり料理のセミプロ的な人間と考えるべきだろう。そして彼らは、豪商に雇われたりするなど民間で腕をふるって、料理屋以外の場でも、自由な料理の提供に大きな役割を果たした。

ただ近世前期の料理書は、あくまでも知識・技術の伝達書で、専門的な性格が強かったが、近世後期になると、料理書よりは料理本とでも呼ぶべき性格が強くなる。つまり読んで楽しむ料理本として、ハンディで気軽な読み物であることが意識されるようになった。またセミプロではなく、一般の人々が手軽に料理を楽しむという傾向が著しくなる。

その代表格が、18世紀後半の宝暦~天明年間に刊行された『豆腐百珍』に代表される百珍物であった。『豆腐百珍』は、それまでの料理書とは全く発想が異なって、素材を豆腐のみに限り、代わりに100種類の豆腐料理を伝えるほか、豆腐に関する和漢の文献を引いて、料理に関する知識も提供している。さらに19世紀に入ると、文化・文政年間の『素人庖丁』『料理早指南』あるいは『料理通』など、実にさまざまな料理本が刊行されている。

『素人庖丁』『料理早指南』などは、題名から想像されるように、一般人に料理を教えるもので、この時期には、庶民自らが料理を作って楽しむ文化が根付きつつあったことが窺われる。また『料理通』は、後にも述べるように、文化・文政年間に江戸一番の名声が高かった料理屋・八百善の料理を中心に記したもので、当代一流の文人たちが、詩文や書画を寄せている。ちなみに同書自体が、江戸土産として、地方の人々が持ち帰えられている。

いっぽう料理屋については、近世初期にも、煮売・焼売程度のものであれば、寺社の門前のほか、盛り場や交通の要所で商売が行われていた。先にも述べたように、初めは京都の寺院で料理の提供が始まり、やがて町中にも料理茶屋が誕生したものと思われる。これにやや遅れて、江戸でも元禄年間になると、市中の各所に料理茶屋が出現した。江戸最大の盛り場であった浅草の金龍山浅草寺の門前に、綺麗な器を用いて奈良茶漬けを食べさせる店が生まれて、大評判を呼んだ旨が諸書に記されている。

やがて浅草に限らず、江戸市中の盛り場に、そうした料理茶屋が立ち並ぶようになっていった。ただ、それが本格化するのは江戸後期のことで、とくに料理本の刊行が盛んになり始める宝暦~天明年間になると、高級料亭さえ現れるようになった。さらに料理文化が最も発達をみた文化・文政年間には、先の『料理通』を執筆した栗山善四郎の営む高級料理屋・八百善が、江戸で大繁盛を極めるに至った。

ここには人気を誇る文人や画家のほか、幕府の高級役人から地方の富裕層までがしばしば訪れ、大いに料理を楽しんでいた。八百善は値段が高いのも並はずれていたが、さすがに評判も高く、『料理通』の出版との相乗効果もあり、高級料亭として人気を博した。まさに多くの客が自ら代価を払って、自由に料理を楽しむという食文化が、18世紀後半から19世紀前半にかけて全盛を迎え、最高潮に達していたのである。

 

3 村々の食生活

江戸幕藩体制の確立によって、経済的には石高制という形で、大名や村の大きさまでが米の見積り生産高によって表示されるようになり、米を中心とした経済システムが完成をみた。また江戸幕府という高度な中央集権国家によって、先にも見たような全国的流通システムが完備するとともに、大規模な新田開発が進められて、農業生産力も相対的に上昇していった。

ただ多くの餓死者や、体力不足の状態に蔓延する疾病による死者を出す飢饉に、一般の農民はしばしば食生活を脅かされた。こうした飢饉は傾向として、米作りが難しかった東北地方に多かったが、これは必ずしも自然災害によるものだけではなかった。石高制というシステムの下で、諸藩のうちには三都の米商人に借金する大名もいた。彼らには、飢饉が予想されると年貢米による返済が迫られ、領内の米が飢餓状態にも関わらず米商人へと送られるため、必要以上の死者を出すという状況も少なくなかった。

ただ中世とは異なって、肉に対する禁忌が最も高まり、米を中心とした食生活が確立されてはいたが、村によっては水田の開発が難しい場合も多く、米よりも麦や粟・稗などの雑穀が想像以上に食されていた。しかし一方で、生産力の向上と商品流通の進展は、村々におけるいわばグローバル化を進展させていった。近世も中期を過ぎると、混ぜ飯における米の比率が増えるなど、徐々に食生活も豊かになった。

村々で最も豊かな食事が供されるのは、正月のほかさまざまな年中行事などの時で、これらには米の飯と酒や餅という米を元にした食品が重用された。とくに中世に始まる村の宮座などでは、神事に調理された神饌が供され、神への献饌が終わると、これを村人たちが口にする神人共食が始まる。神饌とは豊作など神への祈りの代償に供されるものであるが、それを神事後にそこで食することで、神々と共食した証しとなり、神の恩恵が被るようになる儀式で、それぞれの地域の郷土料理が供えられることが多かった。

さらに伊勢参詣などが全国の村々で行われるようになり、多くの農民たちが講を作って金をため、農閑期には順番で伊勢参りに出かけた。この旅は、村の繁栄を願って伊勢神宮で大神楽を奉納することに主な目的があるが、同時に道中の宿の料理や伊勢の御師宿でのご馳走が楽しみでもあった。

なお近世の村々には、それぞれに村の料理人と呼ぶべき料理上手がおり、彼らがさまざまな村の宴会や家々の結婚式などの料理を司っていた。そうした村の料理人にとって、伊勢参りなどで各地の料理に接することは、彼らの料理技術の向上にも大いに役立った。

また近世後期になると、都市の料理文化も流入するようになった。先に『料理通』の事例を紹介したが、村々にも出版された料理本を所持する者もあったほか、村々を回る貸本屋から料理本を借りて、その一部を書き写すことも行われた。さらには商用や村の訴訟などの用事で、江戸や京・大坂に出向く場合も少なくはなく、そこで都市の料理文化に触れて、その一端を村に伝えることもあった。とくに19世紀以降には、そうした特色が著しくなっていった。

 

IV 近代の食文化

1 西洋料理の受容

すでに近世においても、初期にはポルトガル系の南蛮料理が伝承されており、後期にも江戸などの大都市には、長崎経由で中国系の卓袱料理屋が伝わり、いくつかの店がこれを扱っていた。また安政元(1854)年、日米和親条約を皮切りに、欧米各国との国交が開始されると、外国人の居留が始まり、新たに西洋の食文化が流入するところとなる。

そして幕末の開国から明治維新期にかけて、箱館・横浜・長崎などに西洋料理屋が出現をみた。ただ西洋料理が、日本料理と最も異なる点は、いうまでもなく畜肉の利用にあった。もちろん、先にも述べたように、近世社会では、現実に肉は食されていた。しかし肉を食べると口が曲がる、眼が潰れるなどと言った俗信が広まっていたように、一般には肉食忌避が支配的であった。

これは、まさしく古代国家が発したいわゆる肉食禁止令に起源があるが、原則的に王政復古を基調とした明治政府としては、この法令を改めなければ、食事を伴う外交の場で極めて不利な状況に追い込まれることになる。このためほぼ1200年後の明治4(1871)年に、改めて天皇による肉食再開宣言が打ち出された。これを承けて宮中では、女官たちに西洋料理のマナーを講習させるなどの改革が行われた。

この明治4年、5年は文明開化が一気に進んだ時期で、一種の西洋ブームが起こり、その一環として、牛鍋人気が高まった。『安愚楽鍋』が評判を呼び、「牛鍋喰わぬは開化せぬ奴」という言葉が流行した。ただ、この牛鍋は味噌や醤油・味醂などによる味付けで、基本的には日本風の鍋料理に、牛を用いたに過ぎず、紅葉鍋の系譜に属するが、西洋料理への部分的な心情の傾斜を物語るものといえよう。

この時期の本格的な西洋料理屋としては、精養軒などのレストランが知られるが、これも外国人の眼からすればヨーロッパの混淆料理でしかなかった。また日本の食材を用いたり、畳で食べさせるような西洋料理屋が評判を呼ぶようになった。明治10年頃までには大都市のあちこちに、こうした西洋料理屋が出現し、同10年代には地方都市にも広がっていった。やがて明治末期から、西洋野菜も徐々に一般化して、八百屋の店先で売られるようになり、食生活の西洋化が次第に進展していった。

これに大きな役割を果たしたのが、ジャーナリズムと学校教育であった。明治20年代になると『西洋料理法』を表題とする料理本が版を重ね、同30年代には広汎な読者を獲得したほか、西洋料理の調理法を解説した新聞記事なども、しばしば掲載されるようになった。また女学校での調理授業や、新たに開設された調理学校などでも、日本料理のほかに西洋料理の作り方も伝授されたが、これと並んで和洋折衷料理という部門があった。例えば、ハムの粕漬けやカレー粉入り味噌汁などといった類で、日本料理の西洋化を必死に志向した努力の産物と見なすことができる。

もちろん、こうした女学校での洋風料理教育は、ハイレベルな人々の事例ではあったが、徐々に西洋料理や肉食は一般にも広がっていった。とくに肉食の普及に関しては、軍隊の役割が大きく、そこでの食事には、缶詰や肉類が多く用いられている。むしろ民衆は、軍隊で広く肉食の味を覚えたといえよう。ちなみに牛肉の消費量は、明治10年以降から末年までの間に、実に8倍近い伸びを示している。なお豚肉については、初め消費量は少なかったが、明治末年から大正期にかけて、牛肉を追い越すという現象がみられる。

 

2 日本料理の展開

確かに西洋料理の移入が、近代日本の食生活に大きなインパクトを与えたことは事実であるが、やはり日本料理そのものは底流として重要な位置を占めていた。明治維新や文明開化によって、それまでの食生活が一変したわけではなく、西洋料理に眼を奪われたとしても、それは表面的なもので、一般には日本料理が日常の基本をなしていた。とくに婚礼などハレの料理は、本膳的な構成を持つもので、明治以降においても、地方の旧家の婚礼献立などは、ほぼ例外なく日本料理であった。

もちろん日本社会の近代化に伴い、肉食や西洋野菜の普及という現象もみられた。西洋野菜についてみれば、トウモロコシ・インゲン・ホウレンソウ・キャベツ・ジャガイモ・タマネギ、さらにはレタス・アスパラ・パセリなどが明治期になって外国から移入され販売されるようになった。いずれにしても、それは日清・日露戦争の勝利後のことで、軽工業のみならず重工業の発展がみられ、中国・朝鮮への資本進出を踏まえて、日本経済がかなり裕福な状況を迎えた明治後期のことであった。

こうして実質的な食生活の西洋化が進んだが、一方で中国料理は、江戸時代には一部で食されていたにも関わらず、日本に中国料理屋が増えるのは、やはり日清・日露戦争以降のことであった。また朝鮮料理については、在日朝鮮人の間で料理屋が営まれており、一部には高級朝鮮料理屋もあったが、これが一般化するのは、極めて新しく第二次世界大戦後のことに過ぎない。

従って近代における日本食の展開は、西洋料理の大きな影響のもとに進展したことになる。とくに大正期になると、財閥が生まれて関連会社や銀行などの企業が急成長し、そこに勤めるサラリーマンが社会的に登場をみた。そして彼らを中心とした市民階級などの間に、西洋料理が普及し、カレーやコロッケ・トンカツなどの三大洋食が流行するようになった。これらの料理は、かつての和洋折衷料理を洗練させたものであった。

いずれも海外ではお目にかかることのない料理で、米を重視したライスカレーのほか、肉の代わりにジャガイモと挽肉で整形したり、テンプラの手法にパン粉と豚肉を応用するなど、まさに西洋料理の換骨奪胎であった。さらには和風出汁を用いたカレーうどんやカレーそば、あるいはカツ丼など、明治末期から大正期にかけて、さまざまな試みがなされて新しい日本食の創造が行われた。こうした意味においては、日本食をベースとした食生活の西洋化が、1920年代に著しく進展したと見なすことができよう。

しかし遅ればせながら、日本が世界の強国の仲間入りを果たし、いくつかの植民地を抱えて裕福になると、料理自体が社会的な観点から本格的に論じられるようになった。とくに大正末期から昭和初期にかけて、木下謙次郎『美味求真』、子母沢寛『味覚極楽』、大谷光瑞『食』などが著されて、味覚の追求に拍車がかかった。そして、これに呼応するような対応が料理界でも起こった。

書画・陶芸などさまざまな芸術に一家言のある北大路魯山人は、旧来の遊興的要素の強い料亭のイメージを一新させ、料理を盛る器や食事空間のしつらえにもこだわった高級料亭・星岡茶寮を会員制で発足させ、美食の提供に最善を尽くした。また湯木貞一も料理屋・吉兆を開き、日本料理に牛肉やイクラ・スモークサーモンなどを用いるとともに、器を取り入れた松花堂弁当を考案するなど、その向上発展に大きな役割を果たした。しかし、こうした試みも、太平洋戦争へと続く十五年戦争の過程で、やがて贅沢は敵だとする風潮に呑み込まれ、新たな日本料理の展開は衰退を余儀なくされたのである。

 

3 北と南の食生活

こうして昭和初年には、新たな日本食の展開が試みられて、一つのピークに達していたことが指摘できる。戦後における問題に関しては最後の「おわりに」に譲ることとして、ここでは少し視点を変えて、日本における北と南すなわち北海道と沖縄の食生活をみておきたい。実は北海道も沖縄も、近代になって初めて正式に日本に組み入れられた地域で、近代においても日本=内地、北海道・沖縄=外地という認識が一般的でもあった。しかし前近代においても、日本と北海道・沖縄の関係は深く、日本食を論ずるにあたっても、非常に重要な地域であることに疑いはない。

そこでまず北海道の場合からみていこう。北海道は、かつて蝦夷地とも呼ばれ、明治2年の開拓使設置までは、アイヌの人々が暮らす大地であった。ただ和人たちが、この地に渡って彼らと接触を始めたのは、遅くとも鎌倉時代のことで、以後、道南の一部に住み着いて、鮭やコンブなどの交易を行っていた。出汁のところでも述べたように、とくにコンブは日本料理に欠かせないもので、室町時代には、大量のコンブが京都を初めとする日本各地にもたらされた。

その後、近世に入ると道南に松前藩が置かれ、海岸線上の場所と呼ばれる地点を押さえて、海産物交易の拠点としていた。この時期には、一部に和人地が設けられたが、基本的には、アイヌの人々の土地であった。彼らは、熊や鹿あるいは鮭や海豹・鯨などの狩猟・漁撈によった食生活を営んでいた。ただ最近では、一部でアワ・ヒエなどの農耕を行っていたことが指摘されているが、基本的には肉食の禁忌とは無縁の地で、獣肉や海産物が主要な食料とされていた。とくに栄養価が高い鮭・鱒は、そのまま食されたほか、保存食であるトバやルイベとして、今日でも広く食されるようになった。

また近代になって正式に日本に組み入れられてからは、多くの開拓農民が移り住み、寒冷な気候に適した小麦などの農業を行っているほか、広大な大地を利用しての牧畜・酪農は、食肉や乳製品の重要な供給地としての役割を果たしている。こうして北海道は、従来のコンブのほか、多様な海産物・魚介類などの重要な宝庫となっている。

いっぽう南の沖縄は、かつて琉球と呼ばれて、琉球王朝が成立していたが、近世に入って、薩摩藩が侵攻し、その支配下に組み入れられた。日本と琉球との交流は古く、すでに鎌倉時代以前からも行われていたが、沖縄における稲作の展開も、この時期のことで、その後に琉球王国が成立をみる。やがて琉球王国は、中国の冊封体制下に入ったため、中国料理の影響を強く受け、ブタやヤギの飼育が行われた。

その後、中国との冊封関係を続けたまま、薩摩藩の支配を受けたが、この頃から琉球王国の日本化が進行する。このため稲作が政治的に奨励されたが、もともと水田適地が少なく、米よりも肉食の文化が根付いた地域であった。また多くの島々からなると同時に、珊瑚礁の発達により、漁業も盛んな地域で、海産物にも恵まれたという利点がある。

むしろ農業面では、気候にあったサトウキビやサツマイモを中心としたが、サトウキビによる砂糖生産は、はじめ琉球王国のちには薩摩藩の財源とされ、庶民はサツマイモを主食とせざるを得なかった。また政治の日本化によって、日本料理の導入に拍車がかかり、コンブなどの利用が盛んとなった。食文化にも同様の傾向が顕著となり、本膳形式の料理が受け容れられていったが、豊かな肉食文化の存在が大きな特色となっている。

明治12(1879)年の琉球処分によって、完全に日本の一部となった。その後、太平洋戦争の敗戦によって、アメリカ軍の占領が、昭和46(1971)年の沖縄返還まで続いた。このため戦後には、ビーフステーキやランチョンミートなど、アメリカ風の食生活パターンが定着をみた。こうした観点からすれば、いくつかの政治体制と食文化の密接な関わりを体現した珍しい地域ともいえよう。

 

おわりに――日本食の現在

第二次大戦中には、軍事優先のもとで耐乏生活が強いられ、食料の供給にも厳しいものがあったが、昭和20 (1945) 年の敗戦によって、食料事情の悪化にいっそうの拍車がかかった。空襲による生活・生産環境の破壊、軍人・民間人の海外からの引き揚げによって失業者が大量増加するとともに、凶作による食料不足、インフレの急激な進行で、食料事情は深刻を極めた。また食糧緊急措置令などによる配給も行われたが、これでは栄養水準の維持も怪しく、東京・大阪などの大都市では、栄養不足による餓死者が多かった。

こうしたなかでアメリカによる経済援助の多くを小麦などの食料供給に充てたが、その克服には難しいものがあった。ちなみに海外からの小麦の輸入は、その後のパン食の普及に大きな役割を果たした。そうしたなかで経済安定政策が採られ、朝鮮戦争の特需もあって、昭和26(1951)年になると、日本経済は戦前レベルまでに回復し、食料不足も次第に解消へと向かうと同時に、サンフランシスコ条約締結により国際復帰が実現した。

そして昭和30年代の驚異的な高度経済成長により、経済規模は実質約5倍に膨らみ、確かに生活は豊かになった。そして戦前に較べれば、貧富の格差が縮まり、社会的規模で貧困からの脱出に成功したが、産業構造は農業から工業へと移って、都市への集中が増大するとともに、新たに公害問題や食品汚染などの問題も生じた。

そうしたなかで、食料を取り巻く環境も大きな変貌を遂げた。スーパーマーケットの登場とともに、電気冷蔵庫の普及が進み、低温輸送のコールドチェーン化が進み、新鮮な野菜や魚・肉のほか、ハム・ソーセージやミルク・バター・チーズ、さらには清涼飲料水やビールなどを、何時でも自由に口にすることが可能となった。

また都市ガスやプロパンガスの普及によって、いつでも火が自由に使えるようになったため、焼き物が手軽になっただけでなく、揚げ物や炒め物など西洋風・中華風の料理が簡単にできるようになった。ちなみに電気炊飯器を初めとする電化製品の増加を背景に、主婦の労働時間が軽減され、女性の社会進出を促した。

さらに食生活の洋風化は、昭和35(1960)年頃から急速に進み、とくに米の消費量が減少して、米余り現象が生じた。戦前まで一人あたりの米消費量は、160kgとされていたが、昭和61(1986)年には半分以下の71kgにまで落ち込んだ。また肉や乳製品の需要が高まって、子供の人気メニューも、玉子焼きからハンバーグへと変化し、同63年には供給量ベースで、肉および乳製品の総量が魚介類を追い抜くという状況に至った。米と魚という日本食のイメージは、大きく変化したことになる。

とくに、この時期にはバブル景気に湧いて、食生活と料理そのものに著しい多様化の波が訪れた。ファミリーレストランやファーストフードのチェーン店が各地に出現し、牛丼店・天丼店などの専門系列店も含めて、食を楽しむ外食空間が一気に拡大した。ただ、こうした飲食チェーン店の拡大は、料理の画一化をもたらし、油脂類の多用に及ぶ傾向があることも忘れてはならない。

しかし、経済性・利便性から外食化には歯止めがかからず、さらには外食感覚の延長線上に、中食という新しい食のスタイルが登場をみた。この前提には、ホカホカ弁当など持ち帰り弁当屋の展開があったが、これに加えてコンビニエンスストアーの展開が、中食普及の大きな要素となった。すなわち惣菜なども含めて調理済みの食品を手軽に供給できるシステムが、深夜営業も含めて全国各地に整備されたためである。

もともと大都市の下町には、総菜屋が数多くあって、商店など家族一体で働く家庭の食生活を支えていたが、現代の中食は、そのほとんどが工場生産によって成り立っているという点が異なる。ただ最近では従来の飲食店でも、店内の客に限定せずに、積極的に弁当の販売も行っており、外食という範疇に収まらない中食は、孤食という食事形態の変化のなかで、今日では極めて高い需要を得ていることに注目すべきだろう。

またインスタント食品の需要も、現代の食生活には大きな位置を占めるようになった。とくに日本で開発されたインスタントラーメン・カップヌードルやカニカマなどは、海外でも人気が高く、広い意味では日本食の海外進出の一環を担っている。すでに醤油はソイソースとして海外でも調味に用いられているほか、化学調味料も東南アジアの魚醤・穀醤の味覚圏では広く利用されている。これに加えて、最近では日本食そのものの海外進出が著しく、健康志向とも相まって、日本料理が幅広く受け容れられるに至ったのである。

 

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