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「和食文化“再考”シンポジウム『再発見!「和食」文化の魅力』」【東海ブロック】

「和食;日本人の伝統的な食文化」のユネスコ無形文化遺産への登録申請をきっかけに、私たち国民一人一人が「和食」文化について改めて認識を深め、次の世代に日本全国の「和食」文化を維持・継承していくことの大切さについて考えることを目的として、「和食文化“再考”シンポジウム『再発見!「和食」文化の魅力』」【東海ブロック】を開催しました。

1.冒頭挨拶   

挨拶する山下東海農政局次長  シンポジウムの様子

挨拶する山下東海農政局次長

シンポジウムの様子 

 

2.基調講演

『三重県の食生活と食文化』

大川 吉崇 氏(学校法人大川学園理事長、みえ食文化研究会) 

大川氏

 

3.事例発表

印南 敏秀 氏(東海地方の海里山の食文化研究会、愛知大学地域政策学部教授)

神出 加代子 氏(飛騨高山 郷土料理・女性史研究家)

村林 新吾 氏(三重県立相可高等学校 食物調理科教論専門調理師)

印南氏 神出氏 村林氏

事例発表される印南 氏

神出 氏

村林 氏

 

4.パネルディスカッション

「和食」文化の魅力

  • コーディネーター
  • 大川 吉崇 氏(学校法人大川学園理事長、みえ食文化研究会)

  • パネリスト
  • 印南 敏秀 氏(東海地方の海里山の食文化研究会、愛知大学地域政策学部教授)

    神出 加代子 氏(飛騨高山 郷土料理・女性史研究家)

    村林 新吾 氏(三重県立相可高等学校 食物調理科教論専門調理師)

    岡本なつ実さん、佐野竜也さん(三重県立相可高等学校) 

    シンポジウム 岡本さん、佐野さん
       左より、岡本さん、佐野さん

     

    5.議事録

    1.開会

    〇司会

    それでは、皆様、大変長らくお待たせいたしました。本日はようこそ、和食文化“再考”シンポジウム『再発見!「和食」文化の魅力』へご参加頂きまして、誠にありがとうございます。

    さて、本シンポジウムは、日本人の伝統的な食文化であります、和食のユネスコ無形文化遺産登録申請をきっかけに、私たち一人ひとりが和食文化について、改めて認識を深め、次の世代に日本全国の和食文化を維持・継承していくことの大切さについて考えることを目的にいたしまして、ここ東海ブロックの三重会場を初め、全国9ブロックにて開催してまいります。日本人にとってかけがえのない財産であります、日本の食文化、和食について、皆様方とともに一緒に考えて参りたいと思います。

    申し遅れましたが、私は、本日司会を務めさせていただきます、三重テレビ放送の水谷知恵と申します。どうぞ皆様、よろしくお願い申し上げます。

    それでは、開会に当たりまして、東海農政局次長の山下容弘より皆様方へご挨拶を申し上げます。それでは、山下東海農政局次長、よろしくお願い申し上げます。

     

    2.挨拶

    〇山下東海農政局次長

    本日はお忙しい中、和食文化“再考”シンポジウム『再発見!「和食」文化の魅力』に、このようにたくさんの皆様にご参加頂きまして、誠にありがとうございます。また、後ほど基調講演をいただきます大川学園の大川吉崇先生、また、事例発表をして頂きます、印南敏秀様、神出加代子様、村林新吾様、今回講師をお引き受け頂きましたことに、厚く御礼申し上げます。本シンポジウムでは、和食、日本人の伝統的な食文化のユネスコ無形文化遺産への登録申請をきっかけに、東海地域、ひいては日本の食文化について皆様と一緒に学び、理解を深め、和食文化の魅力を再発見し、このような貴重な和食文化を次世代に継承していくための活動として、盛り上げていきたいと願っております。

    さて、この和食のユネスコ無形文化遺産への登録申請という取り組みでございますが、皆様は国がこのような取り組みをしていることをご存じだったでしょうか。ユネスコの遺産事業には大きく分けて、有形、つまり形のあるものと無形、つまり形のないものがあります。有形の文化遺産には、最近登録されて話題となりました、富士山などの世界文化遺産や白神山地などの世界自然遺産があります。

    一方、和食は無形文化遺産に登録申請をしております。無形文化遺産とは、芸能や伝統工芸技術などの形のない文化であって、その土地の歴史や生活と密接にかかわっているものであり、これを保護し、尊重することを目的とした制度です。既に日本でも無形文化遺産として、歌舞伎や能楽などが登録されています。今回、ユネスコに登録申請した和食とは、単なる料理ではなく、自然を大切にするという、日本人の心にある食習慣であり、いわば、和食文化とも呼べるものです。

    例えば、食べる前に「いただきます」と言ったり、お正月に鏡餅をお供えしたりするのも和食文化です。和食文化を特色づけるキーワードとして、自然の尊重というものが挙げられます。この自然を大切にする心のもと、新鮮で多彩な食材とだしや調理技術など、その持ち味を引き出す工夫、一汁三菜を基本としたバランスよく健康的な食生活、季節に合った食器の利用など、自然の美しさの表現、地域行事や正月などの年中行事との密接なつながりといった特徴が、和食文化では育まれました。

    このような特徴を持つ和食を保護し、次世代に継承していくきっかけとするため、昨年3月にユネスコ無形文化遺産への登録申請を行っており、その結果は、本年12月に発表されます。

    このような中、私たちの足元を見てみますと、日本食離れや核家族化の進展などにより、食生活に大きな変化が生じ、和食文化の継承が危ぶまれる状況にあると言っていいのではないかと思われます。そういった意味で、今回のユネスコ無形文化遺産への登録申請の取り組みというものは、和食文化の良さや価値といったものをもう一度見つめ直して、私たち自身が、その価値を再認識する1つのきっかけを与え得るのではないかと考えております。

    和食文化というのは、私たち一人ひとりにとって、最も身近な話題であり、皆様もいろいろなお立場で、いろいろなかかわりを持っておられ、また、いろいろなお考えをお持ちだと思われます。

    本日のシンポジウムがそういった地域の和食文化、そして、私たちのふだんの食生活についてもう一度見つめ直し、また理解を深め、それがまた新しい行動のきっかけとなることをご期待申し上げまして。私の挨拶とさせていただきます。

    本日はよろしくお願いいたします。

    〇司会

    東海農政局次長、山下容弘より皆様方へのご挨拶でございました。

     

    3.基調講演

    〇司会

    それでは、続きまして、基調講演のご紹介をさせていただきます。本日は、学校法人大川学園理事長、みえ食文化研究会の大川吉崇先生より、「三重県の食生活と食文化」と題しまして、講演をいただくことになっております。大川先生でございますが、地元三重県内で、幼稚園、保育園、調理専門学校、文化センター、老人福祉センターを経営、食文化に関する著書を多く執筆されるなど、食文化に豊富な知見をお持ちでいらっしゃいます。また、みえ食文化研究会を設立されまして、三重県内に伝わります食文化の調査、研究を行っていらっしゃいます。今日は基調講演ということで、この後、たっぷりとお話をお聞かせいただくことになっております。それでは、ご準備の方よろしいでしょうか。では、改めてご紹介させて頂きましょう。大川吉崇先生でございます。皆様の大きな拍手でどうぞお迎えください。よろしくお願いいたします。

    〇大川氏

    大川でございます。学園経営をしている私が、どうして食なのということですが、この40年間ほど、三重県の大正時代から昭和10年ぐらいの食生活を、いわゆる、大正5年以前にお生まれになった方から、ずっと聞き書きをして参りました。今日のシンポジウムのタイトルと同じ本を出しました。そんな関係で、今日は、大学の教授もお見えになるんですけれども、私の方が地元ということもあって、ちょっとお話をさせて頂きます。また、この本を回させていただきます。

    レジュメを皆様に配布させていただきました。それと同時に映像をいろいろ見てもらって、三重県というのはいろいろなものがあることを知っていただけたらと思います。今回、遷宮という遷御がございます。そのときに、この三重県でこの企画を開いて頂いた。これは非常に大きな意義があるように私は思っています。富士山もそうなんですけれども、民衆の精神生活の部分がどうであったかということが、大切です。日本は宗教というとすぐあっちを向いてしまう国になってしまいましたけれども、やはり世界は、その精神生活のもとにそれがどうあるのか、そういう時代に入っています。そういう中で、この時を得て、ここ三重県でこういうシンポジウムをさせていただきました。

    そしてもう一つには、この国は世界に類を見ない四季のある国だと思います。全世界を見ても、四季がこれだけメリハリある国というのは珍しい。そして、そこには四季折々の食材がいっぱいありますし、そして、その四季の中で、いわゆる精神生活も八百万(やおよろず)の神々、それから仏・菩薩、あるいは天部、あるいは明王というようないろいろな信仰がありました。それが平安時代から今度は合体して、そこに我々の民衆のものがあり、そしてその中にある食の生活、というような考え方を私はしております。

    今日は時間が限られていますので、早送りしながら、三重県は何もないのではなく、いろいろなものがある。あるはずだけれども、調べてないだけだという、そういう考え方で進めていきます。この写真は三重県の地図ですけれども、全ての道は東海道以外は他県と違う、全部伊勢神宮に向かっているというのが三重県です。山を越えて、川を下るのではなく、川を渡って、さらにまた山を越えて谷を渡って、どう伊勢神宮に近づくか、そういう道に全部なっております。それから、ほかの県と違って、100万都市がない。小さな都市ばかり。これも伊勢神宮の関係であります。50万、100万の人たちがどんどん伊勢に入ってくる中で、体の弱い人は20キロぐらいで、強い人は30キロ、40キロ、そこでいわゆる寝泊まりもする。そういう流れの中で、こういう小さな町がたくさん、10キロ単位というよりも5キロ単位ぐらいで出来てきた。

    そして、もう一つ前提は、ここへ書きましたけれども、「時に天照大神、倭姫におしえて曰く、『この神風の伊勢国は、常世(とこよ)の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたぐに)の可怜国(うましくに)なり。この国に居らむと欲ふ』とのたまふ」。そこで、齋宮を五十鈴川の川上に興(た)つ。というような形で、これはいわゆる時の政権、倭政権は、三輪山のところにあるわけですね。今でいうと近鉄大阪線の八木駅辺りです。ところが、やはりここは政治をするところの中心ですし、戦いの中心です。けれども、そのお祭りをする神々は、ここではだめだよということで倭姫命(やまとのひめのみこと)にもう少し東の方の国々に、いい場所を探しなさいということで、探しに出ます。今の名張に入って、さらに今度はそこからどうもその近くには強い勢力があったみたいで、鈴鹿の山のいわゆる西側を回ります。これは我々の今の旅とは違い、その時代はその地域を自分の味方にしながら行きますから、2年とか3年の年月をかけながら、各地域を移動したんですね。そして、尾張の方へ入ってくるわけですけれども、ここにも大きな勢力があったようで、それで、南下をして三重県に入っていきます。そして、今の伊勢市の地へ来たときに、ここにありますように、いわゆる傍国、近いところに…どこから近いかというと、三輪山から東方の近いところに、可怜国というのは、美しいとか、きれいなとか、すばらしいとかいう、そういう意味合いです。そんなところがあった、だからここにいたと思う。ということで、ここに社を設けるわけです。

    三重県には、他の県もそれぞれあるんですけれども、いろいろなものがあります。「重渡よする」、いわゆる温かい空気もどんどん送ってくるし、食材も送ってくる、そこで育つものもある。この伊勢神宮が出来たところは、伊勢湾という内海。そして、浜と磯の境、いわゆる貝もそうですけれども磯と浜とは違う貝がとれます。それから、内海の魚、外海の魚。伊勢平野の一番南側、紀国の一番北側というふうに、非常におもしろい場所です。そこに伊勢神宮が出来たわけですから。

    写真を見てください。これが伊勢神宮の神々の食を、いわゆる稲の穂を育てている神殿でございます。フランスのM・O・F(国家最優秀職人賞)取得のシェフでフランス国旗を襟に巻ける調理師を案内して、ここへ行きました。ちょうどこの写真ぐらいの実りでした。彼は、我々以上に感動してくれたんですね。何か違う、すごいと。ちょうど作長さんが見えましたので、日本語の分かるフランス人ですので、その人と作長さんと会わせていろいろお話を伺ったんです。

    我々のところには、これは神々の、神々のための稲を作るところです。そこで、抜穂をして、これが神々の1年間の食事になる。1年前のものは、保管してます。そして、その1年前の米を禰宜(ねぎ注:神社内の役職の順位(階級))や権禰宜(ごんねぎ)が食べます。この2000年、そういういわゆる文化の継承のある地、伊勢です。

    この写真は、今でも塩田法で塩を作っている風景です。これは二見ヶ浦にあります。夏場になりますと、こうして、奉仕者の人たちが出て、ここで、塩田法で塩を作っています。これはまた時間があれば、細かな写真を後で見ていただきます。ここで、この写真はさっきのかん水を運んでいるところです。次の写真のここは、塩水を煮詰めて塩づくりをする場所です。さらには、これも二見ヶ浦にあるんですけれども、神々の朝夕の大御饌祭のときの食事の中の野菜と果物を作る御薗(地域)の写真です。このかわらけ(注:素焼きの陶器)も全部近くの、これは明和町のあるところで代々作っています。このかわらけより大きくなり過ぎてもだめですし、小っちゃくなってもだめです。この畑では化学肥料はほとんど昔は使わなかったのですが、今はちょっとどうも混ぜてみえるかも分かりません。けれども、こういうものを、これを朝夕の供え物にしてくというようなところが伊勢にはあります。

    話は飛びますが、我々三重県、奈良県、和歌山県は紀伊半島です。松阪以南は全部紀伊半島です。この紀伊半島は、伊勢神宮だけでなく、昔のやり方が残っています。次の写真のように、三重県には馴れずしが残っています。馴れずしというと、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナの近江の子もちフナの馴れずしが知られていますけれども、これは本馴れです。我々のこの紀伊半島は生馴れ、半馴れです。写真にも見られますこれだけのところに、現在も継承されています。魚は地域それぞれに違います。

    伊賀市音羽ではコノシロを使っています。ここは少し山間部です。この写真は津市ですけれども、安濃川をさかのぼったところです。それから、宮川のアユ、熊野川のアユ、サンマやサバも使います。これは、このサンマの馴れずしは、痩せたときです。サンマは15度の温度を追いかけて生活をしていますので、夏場はずっと北の方へ、北海道の方へ行っています。それが秋に下ってきまして、八戸沖で一番脂が乗りますが、さらに今度は下りながら、子供を産んだり、痩せてスリムになってから、熊野灘に下りて来たサンマです。脂っけの少ないスリムなサンマがここで馴れずしに使われています。

    この写真は、熊野のアユの馴れずしです。これは、津のコノシロの馴れずし、これは半馴れです。半馴れは魚もご飯も食べます。一方では保存食です。たくさんとれた、あるいは安い物を仕入れて、これをここの津市の場合は100日かけて作りますから、骨ごと食べられます。ほかの地区はだんだんだんだんと、臭いやら味が非常に今の我々の現代人に合わない、臭いどぶろくを考えてもらうと分かるのですが、どぶろくのもうちょっときついものと考えてください。学生にもよく話をするんですけれども、酒を飲んで、ご飯食べて、それをウエーって丼で吐いてもう一遍食べたような味と言うんですけれども。ですから、ここは100日かけるけれども、ほかのところはだんだん25日、30日程度と短くなってきます。ですから骨を抜いてから漬けています。

    この写真はサンマです。サンマも脂があると真っ黒けになってしまいますから、一番脂っけのないサンマを使っていきます。ですから、冬場のサンマ。三重県の人が多いので分かると思うんですけれども、熊野の丸干しのサンマは何かといったら、非常に細い形で、これは愛知県や岐阜県や東京へ持っていきますとびっくりされます。それぐらい細いですけれども、そのサンマを漬けていきます。この写真のものはサバです。これは熊野地方のものです。

    漬け方は、この後で出てきますので。この写真は紀宝町、この中では一番新しい漬け方のところです。魚を塩漬けしたのを水で塩出しをしまして、この写真は材料です。これは普通は他の4カ所は、これは使わないんです。紀宝町だけはこういう昆布を使います。この写真は、ご飯を炊くときにこうやって昆布を入れてみえまして、びっくりしました。そして、そのご飯を自然に冷ましてから魚の大きさに握って、これを魚の腹の中へ入れます。そして漬け込んでいきます。この地区は漬け込みが短いので、背開きではなしにもう腹開きでやってみえます。こういうふうにして、写真のようにそろえて、これをこの桶の中に、ここの桶は小さいものです。ほかの4カ所は皆、大きな桶や樽を使います。これは沢庵漬けと一緒です。沢庵を漬けるときには、大根を干して、糠と塩を混ぜながら、きっちり入れます。傷が付かないようにきちんと入れるんですね。場所によっては、ここに振り飯をするところもありますし、ここはサランラップでご飯を入れて、そして、その間へ詰めておりました。こういう。そして、ここは水をちょっと使っていましたが、普通は水を使いません。水打ちを。しかし、きっちり入れていって、そして、この写真はシダですけれども、シダを敷いてまたこうやって載せていく。順番にして、最後にシダを置いて、落しぶたをして、そして重石をして、そうすると沢庵と一緒のように汚い黒い臭い汁がいっぱい出てきます。しかし、これが大事なんですね。酸欠になって、その中で乳酸発酵を起こしていくという形です。そして、この写真はサンマの方です。サンマはここは四角い樽でやっています。同じような形で漬け込んでいく。この表面がこういうざらざらになりますが、この写真はシダの葉っぱの跡がついたところです。

    三重県は漬物が非常に多い地です。その代表的なのは、伊勢沢庵ですけれども、もう一方では、この写真、これも漬物です。いわゆる鳥羽地方とか志摩地方は、たくさんというか、これはカツオの一本のままの漬物です。捕れたときに塩漬けにしたり、あるいは塩とぬかで漬け込んでおきます。これはお酒の好きな人にはものすごい美味しいものです。切るとチーズを食べていると同じぐらいきれいで美味しいです。口ざわりもいいです。こうやって魚がたくさんとれたのは全部漬け込んでいく。保存食です。

    この写真は塩辛ですけれども、漁師はカツオを捕りに行ったついでに船の上で作ってくるんですね。それぞれが皆違います。この写真も同じなんですけれども、色の感じも、感じも違います。味も違います。みんながそうして漬けていく。たくさん捕れたものを放るんじゃなしに、どう生かすか、これは後でも申しますけれども、民衆の我々の食事というのは、売れるものは売ってしまいますから、売れないものを、あるいは売れ残ったものを料理して食べているのです。そして、それを豊かに食べていく。貧しくてもひもじくてもそれで食をつないでいくんだというような形で生まれてきたもの、それが郷土料理であり、郷土の食品です。

    この写真は、伊勢沢庵です。昭和50年ごろは伊勢市に100軒ぐらいの沢庵工場がありました。もう今はほとんど別の分野に変わられました。これは伊賀の、白瓜を漬けた伊賀漬けでございます。それから、日野菜もこれは四日市を中心に非常にたくさん作っております。ほかにも朝熊小菜とかいろいろな漬物があります。

    話はどんどん変わっていきます。三重県は非常に面白いところです。何が面白いかというと、例えば、もともとは西の文化が山越しで入ってきたところだったんですね。ところが、鎌倉に武家の文化が出来て、これは簡略化文化です。いつも話すんですけれども、公家の方は何かあると衣冠束帯、いわゆる聖徳太子のような衣装で会議をしました。けれども、武家はそれでは困る。公家と一緒は嫌なんですね。もっと簡略化したい。じゃあ、ジーパンでやりましょうという。それは何かと申しますと、今の宮司さんが着てみえる狩衣です。あれは、公家から言えば下着ではないかという感じですけれども、あの狩衣は袖にひもが入っていますから、いわゆる農作業をするにも、それから戦争をするにもひもをぐっとしぼって前でくくっておいて、後ろに回すとたすきがけにすぐなるんです。そういうものが正装になる。

    簡略化文化は非常にどんどん広がっていきます。雑煮のお餅でいうと、同じ大きさにちぎり餅をして、丸く同じような形に整える。これは大変なことですけれども、武家の、いわゆる東の文化は、つき餅をして、そしてたじに粉を振っておいて、そこへぽんと入れて、あと押し餅にしたら、夕方もう一定の大きさに切って仕上げます。四角に切るだけですよね。この角餅がだーっと広がって、便利で、楽に作れるものはいいものだということで広まっていきます。

    この写真の地図のように白山山系、伊吹山系、そして、鈴鹿山系があって、布引山地があって台高山系というふうに山並みが縦につながっています。山並みの西側は畿内です。この山並みと山並みの間は関です。壬申の乱のときも、関に当たるを守れば畿内は守れました。東からの簡略化文化はずっと来るんですけれども、ここで伊吹山系とか鈴鹿山にブロックされまして、東の文化は南へおりてきます。

    三重県は、もともと西の文化であったところですが、そこへ東の文化がだーっと入り込んできました。言語なんかでもそうなんですけれども、私の民俗研究会の仲間がやはり40年近く三重県の方言をカードにしていました。13万語のカードを作ったということでした。能登半島から大体、この辺ずっとこの縦軸はそういういわゆる東と西の文化が入り混じったところです。

    次の雑煮の写真、いわゆる愛知県と同じ三重県の北勢地方から、今は中勢地方にもこれになりましたが、澄まし汁で角餅、そして正月菜(青菜)が入った雑煮です。中勢地方のこの津市というところは、今はこれが少なくなりましたが、昭和10年ぐらいまでは6割から7割ぐらいがこの写真の雑煮でした。具は何かといったら、ダイコンの輪切りとそれから里芋です。みそ汁ベースで、四角の餅が入っている。東のものが入っている雑煮です。

    これはもともと地方の冬場のみそ汁です。冬場は3日分とか5日分、夜のうちにことこと弱火にかけて作ってしまうのです。だから具も真っ黒けになっているのです。このようにどろどろのみそ汁を作って、それを食べるときには別鍋に入れて、水を差して温めた即席みそ汁にしてあるわけです。お正月はどうなるのかというと、そこに入れる水は、若水が入ります。旦那さんが正月の朝、一番でくんできて、神棚のお水にしたり、それから仏さんの福茶にしたり、自分たちの飲む福茶にする。おめでたいそのお水が入るんですね。そこに祝いのお餅が入る。めでたい食事、すなわち雑煮です。

    普段のものをちょっとアレンジする。それで気持ちを変える。これが正月のおせち料理でも皆そうなんです。普段少量こそ食べないものを、正月には量も数も増やす。それを今まではちょっとだったけれども、お正月用として丼に入れたり、大皿に持って出すことで三ヶ日は遠慮せずに食べられる。

    この写真は伊賀地方のものです。これはお餅をついたときに、ついてしばらくしてすぐ作りましたので、ちょっと変形になってしまいましたが、丸の押し餅です。伊賀地方は、津の西側の、経ヶ峰、その向こう側です。そこへ行くと、この写真のように入っている具は一緒で、しかもみそ汁なんです。違うのは、お餅が丸餅で焼き餅になっています。津市の方は湯炊きです。伊賀地方は焼き餅。丸餅は関西文化です。伊賀地方の丸餅はむしろの上で真ん中をきゅっと押さえてむしろ目をつけたものです。それを焼くとむしろ目が浮き出ます。それで花びら餅という名前をつけられました。これはいわゆる風土の違いというよりも、歴史の流れの中での違いが出てきたものです。津地方も伊賀地方も同じ藤堂藩なんですけれども、津が本家で伊賀の方は分家になるんです。同じ藤堂藩ですが、お城の作り方も、津は、江戸に対して、平服の平城を作ります。堀だけは広く作って攻められないようにするんですね。けれども、伊賀は何かといったら、すごくきれいな石垣の高いお城を作ります。これは、いわゆる中国地方や九州から攻めてきたときに、ここで止めますという。関西を意識した、お城です。その伊賀は関西としてのお正月雑煮というわけです。

    伊賀地方でも北の方に行くと、いわゆる京都に近いところです。津から京都まで、実はJRの鈍行で行っても1時間で行きます。乗りかえが長いだけで、非常に近いところなんです。その伊賀に柘植というところがありまして、ここはその裏がすぐに草津ですし、そこから10分も行かない間に京都へ出るというそういう地です。そこは写真のように丸の焼き餅で澄まし汁。具材は伊賀ですから一緒のものですが、それに豆腐とネギが入ります。

    この地区のお正月を調べると、鏡餅があるその隣にたじがありまして、そこに12個小餅が並び、さらにちょっと変形のお餅、「正月っつあん」とか「ネコ」とか言ってましたけれども。そして、たじの中にミカンとか田作とかをお供えしてある。「これ何」って言いますと、「じゅうにしんさんや」って言うんですね。「十二支それとも十二神将の方どっち」って聞きますと、「知らん」って、「漢字は」って言ったら「知らん」。これが民衆の文化です。知らないけど代々つないできた。「じゃあ、うるう年はどうすんの」って聞きますと「1個ふえるんや」って言われて、ああ、十二支の方かなと思ったんですけれども、そういうお祀りの仕方があります。これは京都のお祀りの仕方の中にあるんですね。それが、ここに残っているという、そういう文化も三重県内にはあります。

    この写真は伊勢、ちょっと色が悪いんです。白い普通のお餅とこれはもう少し黄色くなるはずだったんですが、作り方、アワのまぜ方が少なかったのです。黄色いアワを入れて一緒に作るんですね。金銀餅という、これは聞き取りをしますとあちらこちらに伊勢を中心にあったんです。過去形とあきらめていたら23~24年前に『家庭画報』で、伊勢市の村田仙右衛門家の正月という6ページ特集に出てきました。あっ、生きている。冷泉家みたいにはいきませんけれども、そういう家があるんだというのを知りました。この写真がそういう金銀餅です。

    それから、三重県は実を言いますと、この辺は具沢山です。けんちん汁ぐらい入っています。そういうところもあります。これは何かと言ったら、いろいろな種類。三重県でないのは何かと言ったら、瀬戸内海のようにお正月のお餅の中にあんこが入ったお雑煮がないんですね。それから、裏日本みたい、裏日本と言ったら怒られます。日本海側のように魚の生身の入ったやつがないんですね。あとは皆ある。

    それから、もう一つは、答志島とか、坂手島とか、神島という離島には、昭和10年ぐらいまでは餅なしの正月文化が残ったところです。これは、出雲から今の神戸市の方、そして、紀伊半島の南の方を通って、愛知県の一部まで、餅なしの文化が伝わるところなんです。それが、大正時代、昭和の初めまで残って、正月は、小豆汁を食べたのです。多分、塩味だけの。志摩地方のちょっと内陸部へ行くと「あんぴん」といいまして、小餅を作っておいて温めてやわらかくしてあんをつけて食べるというような変形のところもありますが、そういう文化も残る。三重県は東西、それぞれの文化の混交地帯です。

    この写真は、ついでですので出しましたけれども、皆さんの中でご存じの方も、照葉樹林帯。いわゆるネパールの一部、それから雲南省からこの辺まで(三重・愛知)が1つの照葉樹林の一帯です。ここはねばねば文化、お餅とか、納豆とかいうようなねばねば文化も含めて伝播し、それと同時に稲の文化も。この稲の文化の流れの中で、最初に出た、いわゆる馴れずしなんかも入ってきたんだろうといわれております。

    この写真は河姆渡遺跡等々の、安田喜憲さんたちが、中国の人たちと一緒になって、発掘した河姆渡遺跡、5000~6000年前の稲作文化の跡の、発掘のところです。いろいろなルートで稲は日本へ入ってきました。

    ここからは、紀州地方のサンマずしの写真です。これは合わせ酢のすしです。合わせ酢のすしは、ご存じのように江戸時代の中ごろ以降になって生まれ、だんだんと発達をして、最後には握りずしが出てくるわけです。けれども、その中間で出てきた押しずしです。

    これも冬場のスリムなサンマを使って、頭から尾までつける。これは熊野なんですね。今は、尾鷲市辺りも頭をつけていますけれども、大体は、この尾鷲市から志摩半島、頭がはずされています。「さいら」とか「せいろ」とか「さいろ」とか言いますけれども、このすしは島までずっとあります。合わせ酢のすしです。

    この写真は錦という南島町の方の熊野灘沿いのサバずしです。我々はサバずしと言うと大阪のバッテラをぱっと思い出すんですが、これが、真ん中に締めサバの入った大きな巻きずしです。同地のお祭りのときに、細い巻きずしが出てきました。切り口が三角状に切られたニンジンとそれからかんぴょうと青菜が入っていました。「ここはニンジンこうやって使うんですか」と言いましたら、「うん、今日はめでたいでやな」って言われるんですね。じゃあ、「不幸なとき何がどうなるの」って聞きましたら、「これ、ニンジンのかわりにゴボウを三角に切って入れんねやわ」って返ってきました。いわゆるその時その時の気持ちを町全体で共有する、全体で味わっていくというような、そういう文化もあります。

    これは和歌山県の産や三重県の産やと、那智黒と一緒で取り合いをしていますけれども、めはりずしもその一つです。大きな高菜の葉っぱです。これは、紀伊半島のちょっと南、長島辺からずっと田辺辺も含めて、十津川も全域そうなんですけれども、どこへ行っても作っている大きな葉っぱで、冬場でも青々とします。それを塩漬けして、漬物にするんです。この漬物を酢で洗って広げて、それへ麦ご飯を入れて、大きなものを作るときには、その茎のところを刻んで入れて、大きなめはりずしにします。今は観光用ですので、一口ずしになっていますけれども。

    次のこの写真は熊野です。北海道産の白板昆布です。白板にしているのは、新宮市です。熊野地方の一部で、その昆布を煮込んでそして、長くのばして、そこへご飯を入れて、昆布の端とか、他に高野豆腐他の具材を真ん中へ入れて、巻いた太巻きずしの、昆布巻きがあります。これは、三重県の熊野地方だけです。いろいろ伝承はありますが、それを言っていると長くなりますので、ちょっと省きます。

    この写真は、津市周辺の押しずしです。一段で、アサリをとってきて、しじみをとってきて、簡単にちょっと味つけて、ぐっと押さえたものです。

    この写真は紀州路の熊野灘沿岸の押しずしです。これは子供たち喜びますので、私どもの学校で、子供対象のいろいろするときに作らせました。これは3段、5段のものがあります。ご飯があって、具を載せて、その上に葉っぱと、これを3段、5段と重ねて押します。古和浦(こわうら)というところはキャラブキの葉っぱを載せています。「ああ、それやったらうちにある」って言いましたら、「あんたとこはあかん、潮風に吹かれとらなあかんねや」と言われたんですが、その葉っぱを敷いて、またご飯をおいて、具材を置いて葉っぱを置いて、ご飯を置いて、一番高いときは5段ぐらいを作ります。お祝いのときに常にこれを作って。次の写真のこれは中勢地方の押しずしです。伊勢湾ではイワシがすごくとれた、今はとれませんけれども。ですから、伊勢地方から伊賀地方では、こういうお祭りのときの押しずしをしていましたので、紹介をしております。

    これは、一段用押し箱で、津市辺から松阪市辺、「まつざか」と言うんです。他県の方が聞くと「まっつぁか」って、ええって。松阪辺の押し箱です。それが熊野灘岸へいくとちょっとずつ深くなっていきます。これが南島地方のものです。これは南東です。調理師さんが伝統行事をつないだのはここです。もう廃れて、もうみんながあきらめてしなくなったときに、ここのお店が、お店って旅館なんですけれども、聞き書きをして、そして、自分のところで「これを途絶えさしたらあかんねや」といってずっと作っていたキャラブキの葉の押しずしです。それがまた今、地域がそこへ習いに来て、またもとへ戻っていったという。こういうふうに、箱自体もどんどんどんどん深くなったのが、この紀伊半島の特色です。

    次のこの写真は、カツオを利用した手こねずしです。和具という、志摩地方にありますけれども、ここは、今はあまりとれませんが、カツオが幾らでも入ってきた。また、20年か30年前だったら遊びに行って、「今日船入ったで、カツオ持っていくか」って、「はい、ちょうだい」って言うと一匹なりくれるんですね。そういうところでは、その残った身はどうするんだ。この残った身は売れませんから、それを使って作られたのが、写真の手こねずしです。しょうゆとショウガをすってあわせ、中にはみりんをそこへ入れて、沸騰させ、これを冷ました汁にカツオ身を漬けて作ったすしです。

    時間がなくなりましたので、ちょっと早送りをしてみます。

    この写真はカツオ茶漬けです。料理は調理師さんが作ると変わってきます。この写真はたたきです。三重県のたたきというのは、骨ごと全部包丁でどろどろにたたいて作るたたきです。三重県はこの写真の魚も食べます。サメを食べる地です。この写真はおめでたいときに、志摩市の和具ですけれども、ネコザメという1メートルぐらいのをとってきてもらって、おめでたい日にそれをゆでて、あとそいで、さっと身をゆがいて、冷水に通し、地域のみそだれで食べるんですね。この写真は伊勢神宮の内宮で今でも食べてみえます。内宮辺の魚屋さんへ行くとサメのたれ、「サメだれ」という。これは、伊勢。みえ食文化研究会で会長は成田先生という方がやってみえるんですが、私は運営委員長ですけれども、一緒に郷土食のサメで煮こごりを作った時のものです。

    この写真の魚も食べます。これは、ウツボです。それから、この写真はアカエイです。民衆の食は、お金にならないものを食べます。

    時間がなくなったようですので、残りの写真を一気に見ていただきます。月次祭用で作る、新嘗祭で使う、県内の神社が使うのものも。最後に、三重県のブランドものとして、県が全国に、あるいは世界に売ろうということでやっております。

    時間になりましたので、終わらせていただきます。もっと広い地域の話は、この後のシンポジウムの方で、各先生方から出して頂きます。

    ご清聴ありがとうございました。

    〇司会

    三重県には本当にたくさんの郷土料理があるんですよね。ウミヘビを食べるということは全く知りませんでした。私も熊野の方に行きましたら、目を見張るほど美味しいという。めはりずしのお話とか、あと海に恵まれた三重県、保存食として生まれましたアユずし、サンマずしなど、本当に大切に残さないといけない郷土料理がたくさんあるんだなと思いました。また、この続きはこの後のディスカッションの方でお聞かせいただきたいと思います。ありがとうございました。大川先生でございました。

    4.事例発表

    〇司会

    さあ、それでは、続きまして、事例発表をご紹介させていただきたいと思います。本日は3名の皆様方にお願いをしておりますが、まず最初に東海地方の海里山の食文化研究会愛知大学地域政策学部教授の印南敏秀様より、「東海地方の海里山の食文化を考える」と題しましての事例を発表していただきたいと思います。よろしくお願いします。

    印南様は東海地方の海里山の食文化、東と西の食文化、また、名古屋飯などの食文化の調査研究を行う取り組みの中から、日本の食文化、アジアの文化について考察されるなど、深い造詣をお持ちでいらっしゃいます。また、郷土の食文化に関するシンポジウムの開催などの取り組みも行っていらっしゃるということでございます。

    さあ、それでは、印南敏秀様にお話をお聞かせていただきたいと思います。それでは、よろしくお願いいたします。

    〇印南氏

    よろしくお願いします。最初にお断りしておきます。みなさんのお手元にある、私のレジュメは一部分しか使いません。さきほど大川先生に、東と西の日本文化が交わる東海地方の特色ある食文化についてお話しいただいだからです。私のレジュメの表題にある「中日本の海里山の食文化を考える」の「中日本」は、東西の日本文化の枠組みで考えたテーマで、内容が重複するのです。

    もう一つの枠組みに「海里山」があります。海・里・山の意味はよくご存じでも、「海里山」ははじめて聞いた人が多いと思います。「海里山」は、私が作った造語です。東海地方の海・里・山を10年以上調査研究して、そこで考えたのが海里山と食文化でした。

    里山や里海という言葉は、最近よく耳にすると思います。その里山や里海は、山や海の自然を意味しているのではありません。伝統社会では人が山や海に手を加えることで、山や海の自然が保たれ、人の生活も維持出来たのです。それが高度成長期になり、薪炭などの利用がなくなり、干潟の藻場が埋め立てられ、里山や里海が荒廃しました。そのため環境省などで、伝統的な里山や里海を取り戻そうと、いろいろ取り組んでいるわけですね。私は、人の生活と関わる自然全体を、里山と里海に里地を加えて「海里山」と概念化したのです。

    さて、今日は東海地方といっても、三重・愛知・岐阜県が中心です。この3県を並べると、三重は里海で海産資源が豊かだし、愛知は里地で農業が盛んです。岐阜は、この後に神出先生からお話がありますが、里山資源に恵まれたところですね。じつは、東海地方の海里山の食文化を考えるとき、三重・愛知・岐阜県は最適なフィールドだといえるのです。

    その前に東海地方は、すでにお話ししたように西と東の日本文化が重層しています。ただし、この地域独自の食文化も残っています。たとえば豆味噌は大豆だけで作ります。日本では三重・愛知・岐阜県だけに、豆味噌が残っています。私は25年ほど豆味噌地帯の豊橋に住んでいますが、20年を過ぎたころから豆味噌が美味しいと思うようになりました。豆味噌は、それほど独自色のある調味料なんです。東海地方は、東と西の日本文化が交わるだけでなく、豆味噌のように独自色の強い複合的な文化地域なのです。

    そうした地域性のなかで海里山の食文化について、これから写真を見ながら考えたいと思います。この写真の焼きハゼは料亭用です。みなさんはハゼがどういう魚かご存知ですか。瀬戸内海沿岸で育った私にとって、ハゼは最も釣りやすい魚なんですね。どんな小さな子供でも釣れるハゼを、私は海釣りの対象にしていませんでした。そのハゼが、今では三河湾で釣れません。この焼きハゼは、正月用として名古屋駅前の柳橋市場で売っていたのですが、20匹ほどで1万円もするのです。私の家の近くの店では、正月前でも見かけません。右のハゼの写真は豊橋のスーパーで正月前に撮ったものですが、地元密着型のスーパーだからです。そこで昨年の暮に初めて見つけました。このハゼは中国産とありました。誰でも釣れたハゼが三河湾でとれなくなって、中国で加工した焼きハゼを輸入している訳ですね。

    なぜ正月前に、わざわざ中国からという理由ですね。実は、この地域では正月を迎えるのに、ハゼが欠かせないんです。雑煮の出汁は、必ずハゼでした。お節料理の昆布巻き、これもハゼだったんですね。だからお節料理のために、むかしは秋になると家族でハゼ釣りに行く。それを焼きハゼにして保存して、正月に使っていた訳です。それが、今はハゼすらがとれなくなって、高級食材になったり、中国から輸入するようになったのです。三河湾の里海はかなり深刻な段階まできているのです。ですから、先ほどの大川先生の話を伺って、三重の里海っていいなとうらやましかったのです。愛知では、三河湾や伊勢湾の里海をどう取り戻すかが重要な課題となっているのです。

    この写真は、豆味噌で作った「煮味噌」です。昔は、どの家でも作った常備菜でした。今も豆味噌は食べますが、煮味噌は食べません。それでは煮味噌の文化は消えたのか。私は「名古屋めし」に継承されたのだと思います。名古屋めしは基本的に温かくして食べます。豆味噌は温かくないと美味しいくないのですね。さらに濃い味は、洋風料理にもあいます。ということで煮味噌は、味噌カツや味噌煮込みなどの、名古屋めしに継承されたと私は思っています。

    次の写真は、中間山地の里山にいるヘボ(地蜂)を使った「ヘボメシ」です。むかしヘボは昆虫食として、山間地域でよく食べていたわけですね。昔の里山は、四季折々に豊かな山の食材を提供してくれていたわけです。その里山が荒廃して、ヘボが越冬出来なくなりました。そこでどうしたかというと、有志がべボが越冬するヘボハウスをわざわざ作った。そうすることで、ようやくヘボやヘボの食文化が残ったのです。中間山地のタンパク源だったヘボが、今や郷土料理のご馳走として残っています。だから里山のへボハウスが続くということは、いいことではありません。なんとか早くヘボハウスが消えて、伝統的な里山にもどせることを私は願っているのです。

    海里山でも、里地の豆味噌文化は継承されています。里山はヘボハウスやヘボコンテストなどを開催してかろうじて続いています。ところが里海はハゼすらいなくなって、深刻で心配な状況だということです。

    現在、和食を無形遺産に登録するという動きがありますが、なぜ無形遺産にしないといけないのかを考えてもらいたい。それは、自然や生活文化が激変して、和食の伝統がうすれているからです。先ほど海里山の話をしましたが、食材がなくなれば料理も消えます。つまり和食を無形遺産に登録することで、日本の伝統的な食文化をまもっていかなければいけない時代になったということです。

    ここからはコマーシャルですが、レジュメのなかに9月22日に愛知大学綜合郷土研究所で開催する「海里山の儀礼食をめぐって」のシンポジウムのチラシを入れておきました。私は「和食の原点とはなにか」を考えたとき、それは儀礼食、神饌(しんせん)だと思っています。なぜ神饌かといいますと、神饌は神様に供える訳ですから、神様に失礼があってはいけない。だから、昔からの伝統を残すという性格が強いのです。さらに神饌は神様への供物ですから、最上の食材が選ばれ、季節ごとの旬の食材が選ばれています。今は供物のほとんど生饌になり、調理した熟饌をお供えすることは少ないわけです。ただし畿内では熟饌の伝統が残り、伝統的な食材と調理法を伝えているわけですね。「和食とはなにか」と問われると、なかなか明確に答えることが出来ない。和食をいろんな角度から考えたとき、神様への供物である儀礼食がキーワードだと思ったのです。

    今回、和食が無形遺産に登録されたら、海里山の伝統的な自然や生活をもう一度考えなおすチャンスが訪れると考えています。それが私の願いなのです。これで私の報告を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

    〇司会

    ありがとうございました。ハゼが1箱1万円もするということで、ところ変われば食変わるという。三重県では、ここ津では岩田川河口でハゼがよくたくさん釣れるんですけれども、逆に地元の食の大切さというのも実感いたしましたし、ヘボ料理というのもあるんですよね。ヘボハウスが1日も早くなくなることをお祈りしたいと思います。

    また、この後のパネルディスカッションでもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

    さあ、それでは、続きましては、岐阜の食の話を聞かせていただきたいと思います。飛騨高山郷土料理・女性史研究家の神出加代子様でございます。「飛騨・高山地方に伝わる、山里に育まれた豊かな食文化」と題しましての事例を発表いただこうと思います。神出様は飛騨高山地方の郷土料理と女性史を研究されていらっしゃいます。また、次世代への食文化の伝承にも努められ、学習会や調理実習会などの取り組みや郷土料理、生活文化に関する著書の出版なども記録、活動的に力を注いでいらっしゃいます。

    それでは、神出加代子様にご登壇いただきまして、お話をお聞かせいただこうと思います。それでは、三重県から、そして、愛知県からお話を聞かせていただいて、続いて、今日、岐阜の方ではどんな食文化が受け継がれてきたのでしょうか。お願いいたします。

    それでは、皆様大きな拍手でお迎えいただきましょう。よろしくお願いいたします。

    〇神出氏

    失礼します。このシンポジウムの連絡をいただいたとき地域の食文化に視点をあてた取り組みが全国的に行われている事を知り、ああ、日本も大丈夫だと、明るい光が射してきたような気がして、とてもうれしく感動しました。私どもの普段の食生活が、まさか世界遺産になるなんて想像もしませんでしたので、今日は期待を持って参加させていただきました。私は主婦ですので、第一人者の先生方とご一緒で大変恐縮していますが、事例発表をさせて頂きます。

    皆さん、高山をご存じだと思います。1980年頃までは、お年寄りがきれいに身づくろいして、ステッキを持ち、パナマ帽をかぶり、ゆったりと町の中を散歩しておられるような風情のある町でした。それがあっという間に今度は、ある会合で会長さんが、高山もついに金太郎飴になってしまったと、ご挨拶なさっていましたが、皆さん、金太郎飴ってご存じですよね。どこを折っても同じで、高山の町も全国画一化の仲間入りをしてしまったというお話だったんです。

    その頃、高山が大好きな仲間達が集まると、こんなに街が急変していくのをただ見ているだけでいいんだろうかと。暮らしの知恵や飛騨人の素朴な心まで失われていくのを嘆き語り合う中で高山らしい情緒ある街づくりに先人たちはどのように関わっていたのか女性の視点で見てみようと歴史の勉強会を発足しました。同時に、女性が受けもっていた伝承料理の掘り起こしも始めて正月料理や七草がゆ、飛騨の駄菓子や餅類や漬物など、資料のようにあらゆる昔の味を再現し普及に努めてきました。

    ところが、やっと生活改善運動が欧米風な食べ物になったのに、なぜまた昔のものを掘り起こすのかという声が耳に入るようになり、私自身も若い人たちや、地域の人たちに伝承料理はなぜ大切で伝えていく必要があるのか確信を持って明確に説明出来ないかと思案したあげく、資料の中にあります、年表を作ってみることに行き着いたのです。

    この年表は、飛騨の考古学会などに入っていましたので、遺跡の発掘調査や古文書の解読講座などで学んだものや、女性の暮らしについての記述、国の歴史や地域の出来事などを抜粋して、古代から現代までを克明に記入しました。これは第一作目で粗末な内容ですが、以来ずっと書き足してきました。このように歴史を通してみると日常の食物がいかに大切で偉大な力を持っているか、はっきり把握出来たんです。時には、気質や体質までも変え、またある時は、歴史までも変えてしまう。そして受け継がれてきた郷土料理は、その地域の歴史、風土はもちろん町の様子や両親や兄妹など家族の思い出や暮らし方などを全部凝縮したものなんだなということが解ったんです。また、天災や飢饉など、厳しい自然と風土の中に根づき、受け継がれてきた食文化は生き方や生きる力を育む、先人たちからのメッセージであると言っても過言ではないしょうか。学習会を始めて33年経ちますが、現在は子供たちが主です。学校などへよく伝承料理の講習会に行かせていただいております。市民対象にも、伝承料理を掘り起こして、伝える学習会を何十回となく続けてきました。資料の表紙写真に「年取りのごっつお」と書いてありますが、方言ではごちそうのことを「ごっつお」と言います。これは初めて再現した行事食です。このように再現した数年後の1988年に「飛騨・高山食と緑の博覧会」という文明の最先端をいく器具などの展示をする全国的な催し物が高山でありました。その時依頼があり、年取りと正月の料理や収穫の喜びと感謝を兼ねて行われた、資料のにもある「報恩講さま」の料理などの行事食を展示しました。ところが、先進的な文明の粋を集めた博覧会なのに、忘れ去られていた行事食に老若男女の人だかりが出来ました。伝承されて来たものは人々の心を打つものなのでしょうか。若いお母さんが、今はほとんど洋風な料理を作っているけれども、飛騨の食材でこんなにごちそうが出来るのかと感想を寄せてくれました。

    途中ですが、資料の郷土料理がどのような歴史を経てきたか、この中に、江戸時代後半、飛騨が「人余って食足らず国」と言われていた頃のグラフを紹介します。これは、人口の推移が分かればと思ってお出ししました。この下の点線が全国の平均人口、下がり気味で増加はありません。飛騨高山は幕府の直轄地でもあり、農民騒動が続いたり、また、飢饉が多くて、飛騨だけじゃなくて、全国的にも食物が乏しかった。そういう状況なのに飛騨人口は着実に増えていったという不思議な現象があったんです。飛騨の人たちは、食物が足らなくても「せいな、ひえ、あわ」などの雑穀や山菜、木の実などの食材で工夫し賄っていた。その食事が理にかなっていたからではないだろうかと、それらの食材を食べやすくするために使った木鉢やすりこぎなどの民具を見て思います。陸の孤島と呼ばれ、厳寒が続く地で、昔の人たちは幾度となく水害や冷害などの天災を乗り越えてきましたが、その生き抜いてきた知恵こそが、郷土の文化なのではないでしょうか。

    その食文化の中で、保存食として今も飛騨では好まれ、受け継がれているのが「煮たくもじ」です。どこか品のある「くもじ」とは、平安の昔の女房言葉です。焼畑農業をしていた頃、第一作目が赤かぶで、その赤かぶを街に売りにいき、残った葉っぱを漬けて、災害で作物が不作の年の非常食として重宝されていました。乏しい食材を工夫し、家族の健康を守り、子を育て、必死に家を守ってきたおなご衆が残してくれた食文化を、責任を持って次の世代へ伝えていきたいです。

    大川先生より、料理と信仰のお話がありましたが、高山は仏教が盛んな地域でございます。これは仏事のお斎に、このようなお料理とお膳が出ます。どのようにして調査したかといいますと、まず古老たちに聞き取りをしました。そのおじいちゃんやおばあちゃんたち、ご自分たちがやっていたことが、若い者の時代になって無くなってしまい嘆かれていたときで、一生懸命協力して教えてくださったのです。

    もう終わりですか。ごめんなさい。十分なお話が出来ませんでしたけれども、おもしろい風習がありまして、写真の上の方に三品の丼がありますけれども、あれは「三つ丼」といいまして、ふだんの食べ物でも、この丼に入れて、皆さんにお出しすると「晴れのごちそう」になるんです。それから、春慶の産地ですので、いろいろな春慶のお盆やお膳がどこの家にも揃っていたんです。

    もう一つ「ほんこさま」の方をお願い出来ますか。先ほどの博覧会で好評だったので、市民の皆さんと食べる会を開こうということになって、お寺さんに会場をお借りしに行ったんです。お寺さんなら、この器があるはずだと思っていたのですが、「何年か前に蔵を整理するときに処分した」とおっしゃるんです。お寺さんでさえ、この伝承行事を行わない時代になっていしましたが、このように再現しまして、どうですか、すばらしいでしょう。

    この上の方の「お平(おひら)」と言いますが、飛騨の四季折々の行事はほとんど農作業と関係がありました。このお膳の料理も、収穫した野菜をお客に披露する意味もあって、一年間丹精込めて収穫した一番良い野菜を七品大きく切りそろえて、薄味でうっすらと煮てあるだけ。汁物やどんぶりだけ食べて、あとのものは家へ持ち帰るという風習があるんです。このお平は家へ帰って好みの味をつけて食べるのです。真蓮寺というお寺でお借りしたんですけれども、写真のように、皆さん、朴葉(ほうば)に包んで家へ持ち帰られます。私は、飛騨高山って陣屋があるくらいに社会的にも家庭的にも封建的なところだと思いましたけれども、郷土料理は子供でも大人でもお年寄りでも食べる味付けで、非常に民主的な料理なんです。このような食べ物だったから「日本のふるさと・飛騨高山」などと言われる街になったのかな、と思います。

    まとめを、ということですので、飛騨というところは、飛騨という名の通りに袴のひだのような、山のひだ、その山ひだの中の盆地に高山があります。私は高山に住んでいますけれど、その「山ひだ」を1つ越えるとまた違う集落があります。そのような集落が数限りなくあり、その土地土地に独自の文化があるんです。日本全国そうだと思います。岐阜県のすぐ隣の愛知、三重の特徴ある文化に感動して聞かせていただきましたが、北海道から沖縄まで、皆違う食文化があり、これは世界においても唯一無二の日本が誇れる文化ではないでしょうか。このような地域に根差した食文化を掘り起こして、保護継承することが、地方や日本全体を活性化し、日本文化や自然の多様性や豊かさを守り、それがユネスコの無形遺産につながっていくのではないでしょうか。このような機会を与えて頂きありがとうございました。

    〇司会

    ありがとうございました。飛騨の里山の食材を使った郷土料理のお話でございました。この後、まだまだお話の方いただけそうでございましたけれども、この続きは、後ほどのディスカッションの方でということでよろしくお願いします。ありがとうございました。

    それでは、もう一方お願いいたしましょう。三重県立相可高等学校、食物調理科教諭、専門調理師でいらっしゃいます。村林新吾様にお話をいただきましょう。「郷土料理の味を伝える、高校生レストラン」と題しましての事例を発表いただきましょう。村林様は将来日本の食生活を支える人間を育てたいという思いから、日本で唯一の高校生レストランをオープンされました。その功績から手づくり郷土賞、文部科学大臣優秀教員表彰などの多数の受賞を受けていらっしゃいます。

    それでは、ご登壇いただこうと思います。よろしくお願いいたします。三重県立相可高等学校、食物調理科教諭、専門調理師でいらっしゃいます。村林新吾様でございます。それでは、どうぞよろしくお願いいたします。

    〇村林氏

    こんにちは。まず、済みません、前の方で生徒が勉強していまして、学校で勉強すればいいのにここへ来てまして、済みませんでした。あまり寝やんようにお願いしますよ。書きもんせんでいいですから、話だけ聞いてください。2年生、3年生は聞けませんので、10分間特別授業いたしますので、皆さんも聞いてください。

    相可高校は皆さんご存じの通り、まごの店を持っております。県立高校ですので、まごの店持っていることが不思議なんですが、これは多気町のおかげで作らさせていただきました。学校ということで一生懸命勉強しているんですが、どうしても料理を作るだけとか、サービスするだけということで、何々ごっこになってしまうんですね。そういうことで頑張っている高校生の前で何か協力することはないかということで、多気町の方が、まごの店というお店を作っていただきました。おかげさまで日本で1つの学校、要するに料理のお店ということで話題になりましたが、高校生レストラン等で皆さん見ておりますが、あれは本当にドラマの世界だけで、もっと本物はよろしいです。おかげさまで、土曜日、日曜日は、今、夏でも150食、冬ですと250食完売でございます。これは、ただ高校生が作ってくるからいいっていうだけじゃなくて、やはり美味しいから来るんですよね。リピーターは7回とか10回ざらです。

    それは、ある意味では、おい、高校生が天狗になっとんちゃうかということがあるか分かりませんが、決してそうじゃありません。これはやはりその食の文化をきちんと守っている。それとやはりおだしをきちんととっていると。日本に住んでいる方でしたら、外国人の方でも、日本人の方はもちろんですが、ほぼ100%、おだしってほっと味やなということなんですね。ところが、最近、美味しい粉で作った出汁があります。インスタントがあります。これは大変、体に全然悪くなくて、美味しいんですけれども、美味し過ぎて食材の味が消えてしまうんですね。やはり旬を外したものは美味しくないんです。だから、美味しないもんも食べてもらわないかんわけですね。うまいもんばっかし追ってたら、逆に何食べても美味しくないようになってる。

    そういうことで、うちの生徒は、特にまごの店は地産地消の店って思われがちですが、旬の店です。働いている高校生も旬ですし、相可高校も今、旬でございますので、料理も美味しくということでやっております。桜前線のようにカボチャにしても、ジャガイモにしても九州からずっと上がってくるわけですね。今はどこら辺かな。例えば、夏のダイコン、三重県では美味しくないです。北海道は今美味しいです。カボチャ、今三重県が美味しいです。皆さん、あまり知らないですね。ちょっと前までニュージーランドですよ。僕なんか海外旅行行ったこと、要するにニュージーランドへ行ったことないのに、カボチャが飛行機に乗ってくるわけですね。非常に美味しい。だから、そういうことなんですね。旬を追って、そして、相可高校の地で食を作るということで。あとは、地元のもんといえば、タケノコ、多気という字のごとく、本当に竹が多いので、タケノコを使ったりとか、三重県の養殖のマダイを使ったりとか、いろいろなことをしているわけです。そうですね、松阪肉もそうですね。非常に美味しいです。もちろん紀和牛も美味しいです。だから、そういうことで、地元の食材を使っております。

    そこで、先ほどの2人の方の事例とはまた違って、僕の場合は、食文化というよりも今現在の文化論を言いたいと思います。ご飯はもちろん100%自給自足ですので、多気町産のこしひかりにこだわっております。最近三重県のものを使わせていただいておりまして、なかなか美味しいお米が出来ておりますので、それを100%使わせてもらっております。やはり買うときはどうするの、そのお米を作る人というのかな、お米の生産者の方の名前を見て買うのが多いですね。だから、指定農家というより、大体年間を通して決まった方のお米を買います。

    あと、じゃあ、農村バイキングはどうなのということなんですけれども、よく、まごの店をするときに農村バイキングですかと言われるんですけれども、僕の主義でバイキング料理は一切しません。僕は大嫌いなんです。食べに行くのはいいんやけど、作るのは嫌なんです。というのは、1つの皿にてんこ盛り盛るのは料理じゃないんですね。うちの相可高校は調理師になるためですから、やはりこういう器には1.5センチの長さのインゲンマメを盛ろうとか、こだわりがあるわけです。この量にはこの量とかね。確かにエビとか、美味しいステーキ肉ようけ食べたいです。ところが、やはり器に対してこの量ですよというのを必ず決めます。高校生ですので、やはりちょっと多いんですよね。けれども、お客様はそれを満足してもらっております。ですから、バイキング料理はちょっと僕はなあと思うんですけれども、お米は食べ放題ですので、苦情は一切出ません。大体、ご飯はもうおかわり出来ないぐらい、おかずがたくさんあるということでやっております。

    ところが、和食中心でやっておるんですが、僕のところの高校生が入学したとき、ほとんどイタリアンです。イタリア人じゃありません。お母さんが、フライもんばっかり食べさせて大きくしましたので、トマトケチャップとか、トマトケチャップは特にオムレツなんか作ると、黄色いのが見えないぐらいケチャップかけます。確かに、カゴメのケチャップがうまいんか分からんけれども、やはりそれはおかしいですよね。そういうことでどんどんどんどん味つけして、最初の授業が出汁をとる方法から始まりまして、いろいろな和食をしたり、洋食をしたりすることで、どんどん味つけを変えていきます。これはなぜかというと、ここへ来て、僕のところの学校へ来て初めて食べることが多くて、こんなに煮干しの出汁って美味しいのっていう。なんかこれ、おばあちゃんやおじいちゃんに教えてもらうことと違うのっていうことを学校で教えております。

    ですから、親がわりになってというわけじゃないんですけれども、今、再度昔の料理をきちんと教えるように、僕は心がけております。なかなか、僕らの年代ですと創作料理を作って、新日本料理というのを作るんですが、やはりそうじゃなくて、昔から習っている料理を3年間教えて、現場に出てから新しい料理を教えてもらったらいいかな。フランス産のフォアグラを習うのは20歳になってからでいいんですよね。美味しいマツタケを食べるのは、高校生はだめなんです、食べたら。それは大人になってから食べたらいいんですよね。やはり最初のうちは本当にきな粉とか、あんことか、その地元で出来るもの、美味しいものを食べる。きな粉もどこのか分からんような、味も風味もないきな粉を餅につけたりして食べるんじゃなくて、本当に美味しいきな粉を食べさせるとかいうふうな、要するに文化の伝承も必要だと思います。

    あと、僕のところは、おだしをとるって先ほど言いましたが、本当にここは津市なんですが、松坂の地域では、地域一カツオと昆布を使います。三重県は昆布の文化ではありませんので、昆布が手に入りません。だから、大阪からわざわざ宅急便で引いております。カツオ節はもちろん三重県で削っておりますが、作るのは鹿児島です。ということは、地産地消というのが崩れているんですけれども、基本的に食の文化は守っております。その地域の最高のレベルの料理が料亭の料理です。世界遺産の無形文化財の協力されている方、料理の方を見たら分かりますが、ほとんど関西圏出身なんですね。京都の菊乃井さんにしても、東京でもちろん成功されておりますが。これも、東京の方がどうのこうのじゃなくて、やはりお水にかかわることで、おだしが出ないというところが始まりで、東京の水がまずいとか、京都の水が美味しいとか、そういう意味じゃないですね。だから、そのおだしに対して、どれだけの水の硬度というのかな、硬水、軟水でおだしが出るかというのを多少高校生にも教えております。ですから、東京で成功しようが、北海道へ行こうがあれなんですが、そういうふうなこともきちんとした知識を学校で教えております。

    最後になんですが、学校ではやはり教えるには限界があります。今回、無形遺産の登録になると、もっと国を挙げていろいろ食の文化に対して協力するようになる。僕が今52歳、53歳なんですが、僕たちはもう新幹線も通って豊かな文化になっております。だから、マクドナルドも知っておるし、何でも知っているんですよね、美味しいものは。スパゲティーもナポリタンとか知らんだが、今はトマトソースも知っておるんです。

    ところが、そのもっと上の先輩の時代は、物がない時代やったんですよね。ということは、もう食べることに必死で、食の文化なんか考えておる暇がなかったんです。ということは、戦後、2代分、日本の文化、和食の文化には和食の文化に対しては勉強してないんですよね。それで、今になってこの若い子たちに教えろというのは無理ですよね。まず、この子たちに教える前に、その教えるちょうど、50歳、40歳がきちんと、もう一度死んでいく前の先輩を引っ張ってでも、教えてもらわなあかんです。まず、自分が勉強して、人に教えるのは、自分が倍勉強しておらなあかんのです。それを勘違いしとったらあかんと思います。ですから、いろいろな国を挙げて何かするか分からんですけれども、じゃあ、その人をちゃんと自分のお母さんとか、おじいちゃん、おばあちゃんから、食の文化、ちゃんといただいているのということです。だから、そういうことも考えて新しい子供たちに何ぞやという前に、まず自分たちが勉強して、それで、自信を持って教えれるように。それで、「ほれ、これ食べてみろ」って言えるようになったら一番いいかなと思います。

    ちょうど時間になりました。どうもありがとうございました。

    〇司会

    ありがとうございました。本当に高校生レストランって一躍有名になりまして、そして、土曜、日曜日はいっぱいということで、私も何度も足を運びましたが、まだ入ったことはございませんので、皆さんもぜひお早目にお出かけいただいて、美味しいお料理を召し上がっていただきたいと思います。

    それでは、この後、ディスカッションを予定しておりますが、休憩をとらせていただきたいと思います。お時間10分間の休憩をとらせていただきたいと思います。10分間休憩をとらせていただきました後に、パネルディスカッションでまたさらに皆様方の熱いお話をお届けまいりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。お手洗いにつきましては、ホールを出ていただきましたホワイエにございますので、どうぞご利用くださいませ。それでは、この後また10分後にお会いしたいと思います。ありがとうございました。

    (休憩)

    5.パネルでディスカッション

    〇司会

    それでは、皆様、お待たせをいたしました。ただいまよりパネルディスカッションを始めさせていただきたいと思います。今回のテーマでございますけれども、「和食文化の魅力」をテーマに、この後ディスカッションを行っていただきます。

    それでは、コーディネーター及びパネリストの皆様方をご紹介させていただきます。皆様、向かいまして左側からコーディネーターの大川吉崇先生でございます。よろしくお願いいたします。続いてパネリストの皆様方です。まず、印南敏秀様でございます。神出加代子様でございます。村林新吾様でございます。さあ、そして若い世代代表ということでお越しいただきました村林先生の教え子2人です。三重県立相可高等学校の岡本なつ実さんです。よろしくお願いいたします。そして、佐野竜也さんにもご参加いただきます。よろしくお願いいたします。

    それでは、パネルディスカッションに先立ちまして、全体の概要を私よりご説明をさせていただきます。本日のパネルディスカッションのテーマは「和食文化の魅力」でございます。和食文化を特徴づけるキーワードとして、多様で新鮮な食材とその持ち味を引き出す工夫、一汁三菜を基本といたしましたバランスよく、健康的な食生活がございます。さらには、美しく盛りつける表現方法や食器の使用などにより、自然の美しさや季節の移ろいを表現し、年中行事にも密接なかかわりがございます。本日は、そんな和食文化の魅力についてお話を、パネルディスカッションを行っていただこうと思います。

    また、先ほどもご紹介いたしましたが、本日のディスカッションには、地元の高校生にもご参加をいただいております。ディスカッションの中で、和食文化を次世代へ継承してもらうために、若い世代から見た意見もお伺いしてまいりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

    それでは、ここからの進行は大川先生へマイクをお渡しさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

    〇大川氏

    先ほどから引き続きよろしくお願いいたします。今日は、あと、高校生の岡本さん、それから佐野さんも加わっていただくということで。そうですね、今までずっと流れがあって、高校生の方としては何か感じたことありますか。あるいはちょっとこういうことを話しておきたいなということがもしあれば、一番のっけから大変ですけれども、まずは岡本さん、感じたこと。

    〇岡本氏

    先ほどまでの事例発表で、愛知県や岐阜県などさまざまな地域の伝統食を聞かせていただいて、今まで三重県の伝統食を多く勉強してきたので、さまざまな地域のさまざまな伝統食を知れて、とても勉強になりました。

    〇大川氏

    今、何年生ですか。

    〇岡本氏

    今、3年生です。

    〇大川氏

    これからですね。もう最後の。ますますの活躍を期待しています。では、佐野さん。

    〇佐野氏

    先ほどのお話を聞いて、三重県内だけでもいろいろな地域でさまざまな食文化があるということを初めて知ったので、すごく勉強になりました。

    〇大川氏

    今、何年生。

    〇佐野氏

    3年生です。

    〇大川氏

    2人とも3年生。これからの期待を、我々しておりますので。先ほどから私が話をさせていただき、それぞれの先生方から話をしていただきました。この三重県というよりも、印南先生がほとんど全般的な、一番活躍をされてみえる方ですので、またその辺はお話を願いますけれども。やはり日本の食事というのは、私、先ほども申しましたけれども四季がある。そして、村林先生のお話ではないんですけれども、その時々の旬のものがある。この旬のものをどう生かすか。そして、うまみを生かしてきた。そういうところ。それからもう一つは、これも先ほど申しましたけれども、やっぱり四季の中で、例えば日本書記や古事記を見ていましても、一神教にせずに、いわゆる全ての豪族の宗教を取り入れていくという。やはりこれは四季があったおかげだろうな。そこへ仏教が入ってきて、これも全部取り入れていく。平安時代からそこが混交して明治まで。明治になって1つの、いわゆる列強に追いつくために一神教にしていって、それをほんの20~30年の流れの中で、軍部が利用して、だからどうよという形になっていますけれども、やはり心の問題。我々日本人の四季の中で育てた、そこのところにいろいろな文化があるだろうと思いますし、今度のシンポジウムのことも富士山と同じように、我々のそういう心の問題というか、心の文化の問題を大事にしながらやっていきたいなと思っております。

    先程のいろいろなお話でもそうです。この地区というのは、本当に一つひとつの県が、また三重県でもそうですけれども、4つの国から成り立っています。伊勢の国、伊賀の国、志摩の国、紀州の一部ですね。それは風土の違いですし、その風土の違いが歴史の中で、またさらにそれぞれの地区の文化をしていると思います。

    印南先生から、先ほどちょっと抜けたようなことも含めて、この辺を少しフォローしていただくとありがたいなと思います。どうぞよろしくお願いします。

    〇印南氏

    先ほどかなり駆け足でしてしまいまして、一応概要だけはお話したものですから、ちょっと今、補足しにくいんですけれども。そういう中で、少し私自身が最近取り組んでいるといいますか、関わっていることの中で少しお話したいと思います。

    今、大川先生の話にありましたように、やはり教育の問題も大変重要でございまして、そういう面でいうと学生さんや子供さんたちといろいろな活動をしますと、あまりにも現場を知らないということが非常に大きいわけです。例えばその子供たちを連れて、遠浅に行って貝を見るとか観察をするわけでございます。ところが、観察してもそこにあるものをなかなか食べられないということで、結局買っていって食べる。ある面でいうと、今の海というのは不幸な時代になっているわけですけれども、それでもやはり現場に行って、海の冷たさとか、温かさとか、砂のぬめりとか、そういったものを見て、そしてそこにいる生き物を見て。その生き物をとって名前を調べたり、いろいろなことを調べているうちに、その海ということについての理解が少しずつ深まってくる。そうやった上で食べると。ただ単にお店で並んでいる魚や貝を食べるのとは随分子供たちの目つきも違ってくるわけです。

    そういう面でいいますと、子供たち、これは子供たちと言いましても小学校、中学校だけでなくて、実は大学生もほとんど何も知らないというのが現状でして。そういう面でいいますと、今、まさに子供から大学生まで、そういう方々の学生さんたちの食材に対する知識、調理も無論そうなのですけれども食材に対する知識というのが、本当に驚くほど乏しくなっている。

    じゃあ、調理は大丈夫かというと、調理につきましても実は、うちの短大に食物学科というのがあったのですけれども、この間やめました。なぜやめたかというと、あまりにも入学生が、女の子たちが知らない。担任の人がついに実施をやめてしまったということがありまして、それで結局、名前を変えて、ライフ何とか学科という形に変えてしまった。

    本当に子供たち、これは親の責任なのかよく分かりません。しかし、そういう形で随分自然とも遠くなったし、そういった台所とも遠くなったし、これは本当にどうしようもないところまで行きつつあるのかなというのが、これは非常に悲観論ではなくて、実際に今日いる担当者の方々からお話を聞くと、驚くような出来事がどんどんどんどん出てくるわけです。

    そういうことで、ぜひ、今回和食というのが多分通るのだろうと思いますけれども、通った暁には、先ほど先生もおっしゃっていましたけれども、私たちも学ばなければいけない。と同時に、それを真剣に子供たちに伝えていかなければいけない。しかも、それを現場で伝えていかなければいけないのではないかというのが、私の今、考えている和食についての考えということになるかと思います。

    〇大川氏

    ありがとうございました。先ほどもいろいろな雑談をする中でも出てきたんですけれども、どう伝えていくの。我々がその前にきちんと調べるというような、神出先生のお話にあった、やっぱりきちんと伝えなかった、それから村林先生ではないですけれども、2代抜けたよ。そうなんですね、2代抜けたんですね。今の人たちにそれを一気に行けというのは無理ですから、やっぱり我々が調べてやっていく。

    けれども、私、登山が好きで、去年も今年も高山の方から北アルプスに入ったのですけれども、昔は冬も行きまして、あそこで赤カブを食べて、熱いお茶をいただいて、それから山に入っていくのが好きだったんです。その飛騨の辺の話をもうちょっと。

    〇神出氏

    いいんですか。印南先生の後をついだような話で。女性の立場で、学生さんが多いのでお話したいのですけれども。先ほど大川先生からこちらのいろいろな歴史のお話をなさったけれども、天照大神って女性ですよね。あの人は、あの人なんて言うと先生に叱られるかもしれませんけれども、大神におなりになって、今2000年住んだとするの。その2000年間というのは、料理を受け持つのは女性の仕事でよろしいですよね。女性が家庭でお料理を作ってきた。

    今の時代になって、先生方は、これは和食の食文化なんていう立派な食文化を担っていらっしゃるのですけれども、家庭で作る、いわゆるふだんの食べ物、ケの食べ物と言いましたけれども、それは女性が受け持ってきたのですよね。ところが最近は男性が厨房へ入る時代になった。台所で男性もお料理をするようになった。ですよね。皆さんのところで、お父さん方お料理、先生はお料理なさるのですか。それはとっても平和なことだと思うんです。平和な時代になったからそうなった。けれども、私どもがうちの娘も、おかあちゃんの亡くなる死ぬまでに教えてもらっとかんとならんなんて言っておりますけれども、もう50を過ぎましたけれども、なかなかこういう伝承料理をやるという機会がないんです。

    この伝承をするという暮らし、これはお料理だけではなくて全てのところがそうだと思うんですけれども、その有史以来2000年間、ずっと人々は受け継ぎながら前の人のことを参考にしながら、それをさらによくしたり、改良を加えて進化しながらきた、それが現代と思うのですけれども。私どもは、その伝承する暮らしというものをなくしてしまったのではないでしょうか。お料理はどうして出来るかというと、お米も洗って、お水さえ炊けば、スイッチで炊けます。お米を炊くのに、どうしたら美味しく炊けるかなんて考える必要もなくなってきたし、お腹がすいて忙しければ、作りたくなければ、お金さえあればお金で買ってこられるようになったんですよね。皆さん、どうですか。

    その伝承する暮らしがいかに私どもには大切なものであったかということを、今、ちょっと反省してみる時期にも来ているのではないかと思うのです。

    〇大川氏

    ありがとうございます。そうですね。伝えることね。もう10年ぐらい前になるんですけれども、小学校から相談を受けたんです。何の相談かといいましたら、それも3学期になってから。1年間ここの津市の、いわゆる三重大のあるところの小学校で1年間あそこにはいろいろな外国の方を招待して、料理を作ってもらいながら、みんなで世界の料理の勉強会をしていました。最後になってアンケートをとりましたら、全校生徒の中で日本料理好きというのが片手もいなかった。それで慌てて見えたのです。

    それで村林先生みたいな方を、私どもの教員を連れていって、包丁もケースごと持っていって、手元を大きく映して、まず包丁を見せましたら、「わあー」っと言ったんです。これ成功だ。あと、かつらむきしてもらったり、網大根作ったり、それから梅なんかの二輪挿し、それがちょっちょっと出来るわけです。それこそマジック以上の歓声が上がってくるのです。やっぱり日本料理の基本のところが見せてなかったのです。村林先生はそこのところを今の高校生にどう伝えるのということで、ちょっと先生、一言。

    〇村林氏

    学校で教えているのはプロを目指す料理なのですけれども、実際は家庭料理、プロのお店の料理、それと給食は大体3つの柱に分かれて、僕らが作っているプロの料理を毎日食べていたら疲れてきて、家に帰るのも嫌になるんです。働いている人は逆に、家でご飯嫌だから外で食べるとかいう、それはたまにお金を出して食べるで美味しいんですけれども、毎日、僕たちががんがん作った料理を食べると本当に疲れてくるんです。やっぱり家庭料理というのは今言ったように、お芋さんの煮っ転がしやカボチャの煮っ転がしで煮汁がないようになるように炊くようなやり方が家庭料理なんです。料理屋さんは次のお客さんは、次のお客様に温め直さなければならないから、電子レンジが使えませんので煮汁たっぷりで炊いてしまうんです。そういう煮物1つでも違うんです。

    だから、僕の食文化、どうも国の動きとしては懐石料理とかあんなのを食文化の世界遺産にしたいようなイメージがあるんですけれども、これはきっとフランス料理とかの世界遺産のイメージを見ているんですね。レストランのきれいな料理ばかり見ているんですけれども、現実は野菜王国ですから、本当に煮ただけの野菜とか、そんなのをフランス人は食べているんですね。それを日本の政府の方が勘違いしているのか分からないですけれども。やっぱり先ほど皆さんが言っている共通の話として、家庭料理の伝承ですよね。ですから、ハレの料理というのは基本的に残っていくけれども、ふだん食べている料理をやっぱり守っていかなければいけないと。それは女性力も頑張ってもらわなければいけないし、たまに男子も厨房に入りますが片づけもちゃんとしてきちんとすればいいかなと思います。以上です。

    〇大川氏

    ありがとうございます。そうなんですよね。例えば伊勢神宮を考えても、豊受大神さんが食事を担当する。その担当の準備をする者が水とご飯とお塩なんですけれども、考えてみるとご飯というとお米だけかというと五穀そのものを指しておるでしょうし、水と言っているけれども、これはお酒も出汁も含めて、水というのが代表をしているような気がするし、それから塩というと味のエッセンスの問題であるし、それが昔から、豊受大神が来てから、来てからでは怒られますね。招いてから1500年。やはりものすごく大事にそこのところの基本をしていく。何かの大祭があると30種類の神饌が並ぶ。我々30種類食べなさいといろいろ指導がありますけれども、そういう我々の非常に古い過去からの流れがあって、一番大事なところをどう丁寧に教えていくかというのが大事であって、どうですか、高校生の方々。あまりふるとだめかな。

    基本的な、一番何を勉強していますか、例えば技術でいうと。おたくのこれ一番って。僕の方が知っているかな。見ているから。

    〇岡本氏

    学校では野菜の煮物をちゃんと出汁からとって、切り方とかもちゃんとそろえて、ほかには大根のかつらむきであったり、ニンジンの花掘りであったり、そういう技術を教えてもらっています。

    〇大川氏

    そうですね。もう一つ、卵使ったり、一生懸命出汁を。有名ですよね。

    〇岡本氏

    だし巻玉子は本当に1年生のころにずっと練習していました。

    〇大川氏

    本当に基本のところの基本の基本というか、これをどうつないでいくか。それにあと食材が。結局調理の技術というけれども、食材、物を先生が何遍も話していますけれども、今の物、これ今の物ですよとそれを生かしていったりすること。それから見せる部分も必要だし、やはり和食というのは四季のそのものを出していく基本の基本、皆さん見えるから、その辺は大事に覚えていってほしい。やっぱりつないでいくという、我々もそうですけれども、過去のものを一生懸命なぜつないでいかなくてはならないのか。次につなぐためには過去があって、今があって、将来がある。その過去が分からないと創作料理だけを追っかけていく。村林先生の基本が抜けてくる。

    今日の話を伺っとってもそうですけれども、ハゼの話が出てきました。この辺もそうですけれども、正月は、魚はハゼだけだったんです。コンブに巻く。というような、そんな本当に大事な部分。それをどう味つけていくのと。昔はそれが濃過ぎたのをどう調整していくのという、そういところで。先生、何かもうちょっと言い足らないことが多分ございますでしょうから。

    〇印南氏

    今、皆さん方もお持ちだと思うんですけれども、和食のところの後ろ側に4つ項目があります。和食の特徴という形で4つの特徴が書かれているわけです。これを見ておりますと、比較的これは普通の家庭の食事というものをかなり意識したものではないかなというふうに、私なんかは思えてきます。

    例えば一汁三菜とありますけれども、本来は私たちの子供のころで言いますと、昔は一汁一菜だったわけです。一汁三菜というのは皆さん方にとって当たり前だと思っているかもしれませんけれども、これは決して当たり前のことではない。つまり、今の私たちがイメージする和食というのは、決して昔からのものではないのです。戦後になってようやく形成されてきたのが一汁三菜ということなんです。

    ですから、皆さん方、和食というと、あるいはふだんの食事というと、自明のことのように思うかもしれませんけれども、自明の日常の食事すらよく分かっていないというのが現状なんです。

    反対に言いますと、今日、私がなぜ儀礼食を取り上げたかというと、儀礼食は記録に残りますから分かります。ところが日常食は全く分かっていないです。だから、反対にいいますと、これから私自身は儀礼食が終わりましたら日常食の調査と、シンポジウムを来年開く予定なんですけれども。ぜひ皆さん方も料理屋料理だとか、あるいはそういった祭りとか儀礼食だけではなくて、もっと自分たちの日常の食事というものが一番大切ですから。それをしっかりと見つめ直すというか、高校生の皆さんもそうなんですけれども。学校で学ぶことも大変重要だと思いますし、出汁も大切だと思いますけれども、家で食べている日常食は一体どうだったのか、何だったのかということを一度ご家族の中、おばあさんに聞いてみるということも、実は学校で料理を学ぶのと同じように大変重要なことなんではないかなと。学生にいつもそういうんですが全然聞いてくれないものですから。今日は熱心な高校生の皆さんにちょっとお願いするわけですけれども。

    本当に戦前までは、どうやって生きるかという、どうやって食べるかということが非常に大切だったものですから、そのあたりについての調査はいっぱいあります。ところが戦後になりますと、その辺が高度成長で豊かになったものですから、日常職についての調査は全くないんです。

    ですから、そういうことで皆さん方、先ほど2代抜けたといいましたけれども、2代抜けられたというのは豊かだったからということですので。ですから、そういった豊かな時代はどう豊かになっていったのかということも含めて、ぜひ若い人たちには、そういう空白の時代を作らずに、自分たちの日常生活がどういう形で今日につながって、ある面でいいますと、1980年ごろに日本型食文化ということで豊かになった。それが一汁三菜の時代だと思うんですけれども。そこに至るまでの経緯というものもきちんと考えた上で、こういった和食というものを考えていただくと、非常に厚みのある、深みのある和食というものの無形遺産の登録ということに結びついてくるのではないかなということを、ちょっと今思いました。

    〇大川氏

    ありがとうございます。先生の話を伺いながら、私は高等学校から高野山というところに行きまして寮に入ったのです。思い出したことがあります。朝、真っ黒けのおかゆ、麦が5割のおかゆ、たくわん2切れ、昼は味噌汁1杯と、麦ごはん5割の1膳。夜は1品と麦5割のご飯という生活から始まりました。でも、あの当時、昭和33年なのですけれども、これ殺されるかなと思ったんですが、誰も病気せずに元気にやってきました。

    それは極端な話ですけれども、これは私たちの祖父や祖々父の時代は多分そうであっただろう。それがあったんだけれども、昭和40年ぐらい、いわゆるオリンピックを境にして一気に高度成長の流れの中で、我々の食が豊かになってきて、その中で伝統食というのを大事にしていくというか。

    けれども、もう一方では、さっき何を言われたかな。ヘボ、イナゴじゃないわ、ハチを食べるヘボ。この辺はイナゴも食べたんですね。しかし、我々日本はこれを食べますけれども、欧米人は嫌いますね。それから犬あるいは馬もあまり食べないですよね。我々は馬を食べます。もうちょっと行くと、インドはそのかわり牛を食べないとか。今度は宗教が絡んでくると豚はだめだとか、いろいろなことがありながら、それぞれの伝統というものも守りながら、それぞれの国がそれぞれの食事というのを守ってきて、それぞれの国の、うちはこれだよ。日本はそこが非常に幅が広いですね。本当にその幅を広くしてきた。

    高山は、多分昭和20年、30年ごろだったら食べる物が少なかっただろうけれども、今、我々憧れて食べにいく世界になっていますね。その辺の伝統食、さっきからずっと調べてみえたのを発表していただいて、もうちょっと言い足らないことございませんか。

    〇神出氏

    私、今、日本の食を文化遺産にしたいという根本的なものは、それほどまでにこの日本の食というものが乱れてきたという、何とかしなければいかんというそこへ来たんじゃないかと思うんです。それは、どういうことで分かるかというと、私たちももちろんそうです。けれども、私どもから子供たちを見ると、子供たちの成長が、例えば気持ちの面、体の面、それが何か閉ざされてきたような気がするんです。このままでは次の世代の人たちの明るい人生はなくなってしまうんではないかという、大人たちはそんな不安さえ持っているんです。

    それはなぜかというと、私、本当にただのおばさんですので、十分表現出来ないんですけれども、私が年表とかいろいろなものでほかに書いた書物で言うのではなくて、あの年表を見て思ったことなんですけれども、このまま日本の食が続けば、これは極端なことを言えば、やはり歴史がそれこそ途絶えてくるのではないかと思われるくらいに。ということは、私どものふだんの食、これはほとんど海外に依存したりしているみたいですが、私どもの飽食のために、海外の国々がだんだん自然破壊されているとか、そういうことを思うと、ここで食のあり方というものを真剣に考える必要があると思うんです。

    それは文化遺産に登録するという機会をもって、今もおっしゃったみたいに、ふだんの食生活を見直す必要があると思うんです。私が、ごめんね。年表の話をしますけど、あれを作ったときにすごく感激したんですよ。年表で見ると、私ども飛騨高山の食生活は、一番初めに思ったのは、高山の食生活は縄文の食文化やったなと思ったんです。そうしましたら、しばらくして発掘調査に行きましたら、炉が出てきたんです。囲炉裏。火を大切に守るために囲炉裏が出来たんです。その囲炉裏の生活を飛騨高山では昭和40年代、1970だか、いつまでかしら。囲炉裏の食生活をしていたんです。そうすると、縄文の食文化が囲炉裏の食文化に見えてきたんです。

    ところが先程、大川先生があちらの地区でもいい食材は換金したり、供出したり、年貢にとられたりして、残り物、それを工夫してふだんの食生活にしていらっしゃったというようなお話もございましたが、さらに囲炉裏の食文化から突き詰めて見たら、残り物の食文化だったんですよ。その残り物の食文化だからこそ、子供たちの体にいいもの、年寄りでも食べられるもの、あらゆる工夫をして、先ほどここに少し出させていただきましたけれども、あのような食文化を残しているんです。そういう考える、工夫するということは、私どものあらゆることを助けてくれる、それは音楽であったり、絵画であったり、全ての感性を高めてくれるものだと思うんです。

    なので、こんな話をしようと思ってしかけたのですけれども、1つ、最後にいいですか。和食の食文化、先生、一生懸命学校でやっていらっしゃる。私、この食文化というものを調べてみて、現在の和食の食文化と言われるものは、私どもの郷土、周囲、暮らしているところ、そういうところで一生懸命工夫して作り上げてきたその郷土食が基本になっていると思うんです。それはなぜかというと、道具類を見ると、食べられないものを何とか食べられるように工夫した、その道具類がいっぱい残っているんです。

    その点、先生がお話なっていたような普段の食生活、それがいかに大切か、だと思うんです。どうか、若い方々、またもうこれでお会い出来ないかもしれませんけれども、一生懸命その点お伝えしたいと思います。

    〇大川氏

    ちょっと我々の話が普段の食に偏っています。本当に我々、今は実にいい時代に生きていますから、私が聞き取りや聞き書きに行って、いわゆる大正5年生まれ以前の人、最初はなかなかしゃべってくれないんですね。なぜかという、しゃべったら自分の地区だけが悪い地区に、それから自分の家が貧しい家になってしまったら困るという意識があって、なかなか本当のことをおっしゃらない。しかし、最近は、ここ平成に入ってからどんどんどんどんやっぱり伝えないとだめだというので話をしていただける時代になってきました。いわゆるふだんを民俗学ではケと位置づけています。大部分がふだんケなんです。粗食です。けれども、その中で、結婚式とか子供が生まれるとか、ハレという。このハレの食事、あるいはケガレというのですけれども人が亡くなったとき、これも特別な日。ケガレという位置づけして、その晴れ食でいうと、例えば人生儀礼とか年中行事、ここも大事。これは世界に誇れるものにつながっていく、また世界の人たちがああ、それねという、その両方があるよというところが大事なことだろうと思っています。

    ここのところで、両方をしていく、例えば過去の人たちが、本の中にも入れたんですけれども三品料理。いわゆる名づけのときは三品料理、この辺では出していたんです。そして、志摩の方に行くと、「みてびき」というんです。みてびき出すんやって。どういうことかなっていろいろ聞いていくと、1つの原則があって、三品料理、五品料理、七品料理という言い方と、志摩の方ではみてびき、ごてびき、ななてびきってだんだん料理が多くなってくる、華やかになってくるんですね。結婚式なんかのときに、もらいにいく人が向こうで、お嫁さんの家で振る舞いが出る。それがごてびきだと、そのごてびきを持ってかえってきて、これでいこうと。本当の結婚式のときにごてびきにするんですね。そうするとみんな同列になるんですね。家のどうのこうのというのはなしで。ごてびきしたら恥ずかしいこともないし、誇れる、それでいいんだ。そういう原則が幾つか日本のハレ食の中には決めてあって、豪華であればいいという世界ではないという世界が、案外この三重県は、この地域それぞれ言葉が違うんですけれどもあるんですね。

    これは先生、あいさんぎ(愛三岐)、特に研究をされてみえて、どうですか。ちょっと変な振り方をしました。

    〇印南氏

    ちょっとお話の趣旨とずれるかもしれませんけれども、実は今回、4番目のところに年中行事というのが書かれているのがあります。実は今、年中行事というのはものすごく衰退しているんです。例えば皆さん方の家庭でもそうですけれども、正月以外にほとんど行事というのはないはずです。お盆だって最近しない家、いっぱいあります。

    ですから、反対に言うと、先ほど私が今度の和食を通して自然環境とか日常生活という話をしましたけれども、ぜひこういう機会に、もし登録されれば、もう一度自分ところの家の年中行事というものを振り返ってもらいたい。振り返るときにやはり、最も年中行事で大切な食べ物というのは旬の食材ですので、そういった旬の食材というものを通してその地域の季節感だとか風土だとか、あるいはそういう中で、どうしてその年中行事というものが行われなければいけなかったのかというふうな、そういった生活のメリハリといいますか、そういったものを行事食を通してぜひ考えていただきたいと。

    だから、この年中行事との関わりというのは、恐らくそういうふうな意図の中で、皆さん方が旬とか儀礼とか、例えば先祖であるとか地域であるとか、そういったものについて非常に希薄になっているということをもう一度考えさせるためのテーマではないかというふうに私は思っております。

    〇大川氏

    確かに原点回帰の時代でしょうね。その辺、村林先生が一生懸命、さっきから話しているのはそこへいくのかなと思いながら、ちょっと先生、一言。

    〇村林氏

    そうですね。それで、フランス料理が日本料理の盛りつけになっていたんですよね。お皿が、昔はフランス料理は真ん中にどんとして、メーンディッシュはボリュームがあってというのが、まさしく今は日本料理の前菜風に、それが有名な一流のレストランになってきて。ある意味でいいものはとっていかなあかんなということで。だから、日本の誇れる文化なんですね。

    先生、今日、国際コンクールのメンバーの代表2人を連れてきたんですよ。まだ優勝していないんで拍手したらだめです。それで、佐野っておとなしい子なんですけれどもいろいろ思いがあって、今の若い子はという言い方せんで、僕らがちゃんと教えていないもんで出来ないんですね。だから、何にもない白紙からやから、ここにおる方は一生懸命身近におる子供たちにこれから教えることになるから、大事なこととか、これは外しておいてもいいなちゅうことをどんどん教えてくれるからいいと思うんです。佐野が今度国際コンクールに挑む姿勢というのをちょっと聞いていただいて。

    〇大川氏

    佐野君、よろしく。その姿勢の辺も含めて。

    〇佐野氏

    今度の9月にある国際料理コンクールという大会で、横の岡本と一緒に出場する佐野と申します。国際料理コンクールは世界大会なので、一応作るのはフランス料理なんですけれども、その中でも今年は日本で開催するということもあって、日本の技とかちょっとした技術を生かしたようなフレンチを作りたいなということを岡本と一緒に考えました。

    それで、その中でニンジンを、日本のなっきり包丁という包丁で桜にむくんですけれども、そういう技術というのはフレンチとかでは多分あまりしないと思うんで、国際料理コンクールで、世界中の高校生や世界中の人が集まる機会があるので、そういう機会があればまた世界の高校生たちとかに、自分たちの日本の文化とかそういう桜にむくむき方とか、出汁のとり方を教えていけたらいいなと思います。

    〇大川氏

    おお、格好いい。拍手。佐野さん。私もちょっとつけ加えたいということある。

    〇岡本氏

    さっき佐野が言っていたように、自分たちは夏休みに東京のフランス料理のお店に研修に行かせてもらって、そこで自分たちはずっと、村林先生が和食の専門の先生なので、学校では和食を中心に勉強していきているんですけれども、そのような有名なフランス料理のお店で研修をさせてもらって、日本料理にはないフランス料理のよさを知って、今回の国際料理コンクールもフランス料理を主にしようと思ったんですけれども、やはり相可高校で今年は開催されるので、日本らしさを取り入れたいなと思って、この桜型にむくニンジンだけではなくて、肉の周りに米粉をうって肉を焼いたり、飾りつけにはなほじつを使ったり、そうやってちょっとずつ日本のよさも取り入れて、今回の国際料理コンクールで日本の、和食のよさを伝えていけたらいいなと思います。

    〇大川氏

    ありがとう。さっき名前を間違えてごめんなさい。岡本さんでした。本当にもう一回2人に拍手をお願いしたいと思います。頑張ってください。今日、ずっと先生方の話を伺っていて思うんですけれども、家できちっと伝えるのが非常に難しくなってきた。そういう中でもう一遍教育で、こういう村林先生みたいな人に会えるか会えないか。これは小学校、中学校、高校を通じてですよ。94~95%の人は会えないんですよね。だけど、やはり基本、基本、基本、面倒くさいけど、多分かなりうるさいだろうと思うんだけれども、その辺をきちんと、日本の精神も含めて、やはり家も、それから我々大人がそれを言い続けて、そのかわり我々もしなくてはなりませんけれども、そしてこの無形遺産登録とあわせていくという時代が大事な、日本にとってのこれからにつながっていくじゃないかなって思うんですね。

    会場の皆さんの方で、何かちょっと聞きたいなとか、これ言うときたいよということがもしあれば。手が挙がりました。あそこに行ってください。

    〇来場者

    どうも。フルドノと申します。名古屋から参りました。今日は和食ということで、ちょっと忘れられているものという観点で、いろいろなプレゼンテーションをいただいたんですけれども、これからどういうふうにやっていったらいいのかというようなアイデアとか思いを教えていただけたらばなと思っています。

    といいますのは、私、海外で仕事をする機会がございまして、体を壊して帰ってくるんですね。体重が増えてしまったりだとか。やはり食文化がだいぶ違うと。一番困るのが脂の食文化。その脂ってさんずいではなくて、脂肪の脂の食文化のところから帰ってくると、体調が壊れてしまっている。子供にどういうものを食べさせていきたいのかということを考えた中で、じゃあ、家庭の和食というのはどういうふうにあるべきなのかなということを、今日は考えさせられました。

    今日はいろいろなお立場の方が見えるので、そういうお立場によってこんなことが出来るのではないかという、こういうことをちょっとずつでも改善出来ないかという、そういうアイデアがあるんではないのかなと思いまして、これからどんな和食を目指したらいいのかということを、ちょっとコメントをもらえればなと思っております。

    〇大川氏

    どんな和食を目指したらいいか。さあ、どこへ飛びましょう。何か目があってしまったんですけれども、村林先生。

    〇村林氏

    僕、息子と一緒に海外旅行に行くんですけれども、息子は日本に帰ってくると、コンビニのグラタンを最初に食べます。それがほっとすると言うんです。僕はそうめんを食べるんです。そこの違いで、やっぱりどうしたらいいですかって、大人からの押しつけなんですよね。だから、毎日食べているものを和食型にしていくのか、適度に洋食を取り入れて、日本型の食事にしていくかの違いで。

    だから、アメリカなんかに行きますと、本当にびっくりするようなお年寄りの方がバーガーキングを食べているんですよね。ポテトチップス食べて、コーラーは1リットル飲んでおるんです。それが悪かということではないんです。だから、あまり食べ物は強制したらあかんのちゃうかなと思います。和食が一番という考え方は絶対だめです。やはり和食は負けています。フランス料理が世界で一番の料理です。中国料理が一番です。それは僕たちの体、風土の持って生まれたDNAが日本料理を好きにしているだけで、そういう固定観念を持ったらだめかなと、極論ですけれども僕は思っております。

    〇大川氏

    喫茶店で、毎日行っている喫茶店で、そこのコーヒーが自分のベースになっていくんですよね。食事もそうですけれども家のベースをどうするかというので、その子たちのいわゆる変化が、将来が変わってくるようにも私は思うんです。ですから、お父さんなりお母さんなりが、自分の家の食事のベースをどこへ、味も含めて、油ものも含めてですけれども、ふだんどうやって育てていくかというのが非常に大事にこれからなってくるだろうと。そうしないと、これは雑談しているときに出たんですけれども、食べ物、何もかも甘くなってくる。ミカンまで何もかも甘いのがいいんだというような世界になりつつあって、やっぱりそういう流れの中で、家でこれが基準よというのを育てていくということが非常に大事になってきたように私は感じております。先生、何か。

    〇印南氏

    要するに味というものも、食事もこれは全て文化ですから、これは後天的なものですので、ですからどういう育て方をされたか、どういう育ち方をしたかによって、それぞれの人の食事の嗜好というのが変わって、決まってくるわけですね。

    もう一つ、やはり忘れてはいけないのは年齢だと思うんです。だから、若い人と青年とお年寄りが同じものを食べられるわけがない。ですから、そういう中でそれぞれの工夫を、年齢にあった工夫とか、家族構成にあった工夫であるとか。それは先程おっしゃったように強制は出来ません。ただし、家庭の味というのは何らかの形で、記憶に残るような形で何かこれはというふうなものがあった方が多分いいんじゃないかな。

    私なんかも最近、学生なんかのおせち料理の話を聞くと、みんな買ってくるんですね。だけど、煮豆だけはおばあさんが作るとか、そういうのがとってもその家の正月を迎える、正月らしい、その家らしい私は1つの慣行としてすばらしいなと思ったことがあります。

    〇大川氏

    ありがとうございます。だんだん時間が少し延長させていただいておりますけれども、たってきました。

    私自身は、もう一つ、日本のいい部分というのは「いただきます」という言葉です。あれは動物、植物、全ての生きている命をいただいて、そしてつないでいく。我々のエネルギーにしていく。そこがあるんです。ですから、それがこの日本の場合は米飯食も減ってきましたけれども、どこへ残っているかというと、例えば伊勢神宮で年号が変わったときに、天皇が伊勢神宮へ見えます。あれの一番のイベントは何かといったら、新穀を食べるんです。先祖の霊が宿っておる新しいお米を食べることによって、次を継承していくというような考え方があって、生きている全ての命をいただいて、「いただきます」から最後は「ごちそうさま」で終わる。ここのところ、お箸の置き方にしろ、何かにしろ面倒くさいですけれども、設営してくれた人の何もかもそこに、また応えながら食べる人も応えていく。そういう日本の文化というのが和食の中にはあります。

    地域によってそれぞれ、この地域は本当に、先ほど飛騨の先生が言われたみたいに、一山越えると違うんよって。みんな、いろいろなものがある地域、この東海地区というのはある地域です。これを1つにまとめるんじゃなしに、それぞれの地域の文化と伝承された歴史で育まれたもの。もう一遍そこを我々大人がしっかり見つめ直して、それを次の世代にきちんと伝えていく。そういうことによって今のお父さんではないですけれども、自分の家の食の文化もどう確立していくのと、そこを考えていく時代に入ったかなと思っております。

    まとめになりませんけれども、今日はご清聴ありがとうございました。パネラーの皆さん、ありがとうございました。お礼申し上げます。

    〇司会

    ありがとうございました。和食文化の伝承はまず家庭から、家庭の味をいま一度見直すときがやってきたような気がいたします。皆さんもご家庭に帰られましたら、お話の方を一度なさってみてはいかがでしょうか。そして、岡本さんと佐野さんは9月のコンクールの方に出られるということですので、日本の技を生かしたすばらしい料理づくりを頑張っていただきたいと思います。

    それではいま一度、どうぞ大きな拍手をお送りください。ありがとうございました。それでは、これをもちまして、和食文化“再考”シンポジウム『再発見!「和食」文化の魅力』を終了とさせていただきたいと思います。本日は大変お忙しい中、ご参加いただきましてまことにありがとうございました。さて、お帰りの際に、受付でお渡しさせていただきましたアンケート用紙、そして参加証並びにアンケート調査票、こちらは受付付近のスタッフ、待機させていただいておりますので、スタッフへお渡しいただきますように、どうぞよろしくお願いいたします。

    大変お忙しい中のご出席、誠にありがとうございました。お忘れ物などございませんように、お席周りをいま一度ご確認いただきまして、お気をつけてお帰りくださいませ。本日は誠にありがとうございました。 

    お問い合わせ先

    大臣官房政策課食ビジョン推進室
    担当者:武元、橋本
    代表:03-3502-8111(内線3104)
    ダイヤルイン:03-6738-6120
    FAX:03-3508-4080

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