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農林水産省

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明治150年 イメージ画像

脚気の発生

(ア)「脚気」の症状は・・・

◆全身の倦怠感
◆食欲不振
◆手足のしびれ、足のむくみ… など

脚気になると末梢神経や中枢神経が冒され、足元がおぼつかなくなったりするほか、重症化すると心不全を起こして死に至ることもあります。
※通常、人の膝の下をたたくと足がはね上がりますが(膝蓋腱反射[しつがいけんはんしゃ])、反応しない場合は、脚気の疑いがあります。

明治時代に大流行した脚気は、長い間原因が解明されず、大正時代には結核と並んで2大国民病と言われるほどになりました。

(イ)江戸時代の食生活~「江戸わずらい」の発生

江戸時代、それまで主に玄米を食べていた江戸の人々にも白米食が広がりました。以前は、白米は身分の高い人しか食べられないものだったのです。

ところが、その頃から奇妙な病が流行り始めました。白米を食べる習慣は都市部から広がり、地方ではまだまだ玄米食が中心だった当時、江戸を訪れた地方の大名や武士に、足元がおぼつかなくなったり、寝込んでしまったりと、体調が悪くなることが多くなりました。そんな人たちも故郷に帰るとケロリと治ってしまうことが多かったため、この病は「江戸わずらい」と呼ばれました。当時の明確なデータはありませんが、亡くなる人も少なくなかったと思われます。

のちにわかったことですが、これはビタミンB1不足が招いた「脚気」という病気が原因でした。胚芽部分に多いビタミンB1は、精米で取り除かれてしまうため、白米にするとわずかしか残りません。当時の人々は一汁一菜が基本で、ご飯を大量にとり、おかずの量も数も少なかったこともビタミンB1不足の原因となっていました。

(ウ)明治初期の食生活~都市部での肉食の始まりと変わらない農村部の食事

肉食の始まり

天武天皇が675年に出した肉食禁止令に始まり、将軍綱吉が生類憐みの令を出すなど、日本では何度も肉食を禁止されたため、江戸時代に肉を食べるのは一般的ではありませんでした。

明治に入り、政府は肉食が奨励し、畜産業にも力を入れるようになりました。そんな中、牛肉とネギを味噌や醤油で味付けした料理「牛鍋」を出す牛鍋屋が大流行。しかし、この頃肉料理を食べられるのは上流階級や知識人、都市の一部の人に限られていました。

仮名垣魯文(かながきろぶん)が書いた「牛店雑談 安愚楽鍋(うしやぞうだん あぐらなべ)」の挿絵。
「牛鍋屋」を訪れる人の様子など、当時の世相が描かれています。
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

主食は「かて飯」

江戸時代の食事は、ご飯に味噌汁、漬け物という質素な食事が普通で、主食の占める割合が非常に大きかったと言われています。明治になると主食としては白米が普及し始めますが、当初は都市部が中心で、地方の人々はお米に麦や野菜、雑穀、芋、海藻などを加えた「かて飯」を食べていました。また、相変わらず副食は乏しかったようです。

14都市の主食の比率
「第二次農務統計表(明治14[1881]年)より作成
都市部では、米の比率が高く、6都市で100%の割合を占めています。
地方では米が100%のところはなく、芋や麦、雑穀の比率が高いという結果が出ています。

(エ)明治3年、「脚気」の大流行~脚気が国民病に

原因不明の病気に苦しむ

明治3(1870)年以降、東京などの都市部や陸軍があった港町から「脚気」が流行り始めました。「人口動態統計」や「死因統計」から、乳児まで含めると毎年1~3万人の人が亡くなったと推測されます。

明治10(1877)年の西南戦争でも、「脚気」患者が多発。その原因や治療法を探るため、翌年には、府立脚気病院が設立されました。しかし、この病院ははっきりとした成果を出すことなく、すぐに幕を閉じることになりました。

軍隊で蔓延

当時、経験的に「脚気」が食事で改善することは一部で知られており、皇族も脚気にかかりましたが、漢方医の提唱する麦飯を食事に取り入れ、克服したと言われています。

しかし、明確な科学的根拠が示されることはなく、治療法は確立されていませんでした。特に明治になって誕生した軍隊では、多くの兵士が同じ食事をとることもあり、大勢の脚気患者が発生。亡くなる兵士も多く、大問題となっていきました。

脚気死亡患者は、明治末期から大正時代にかけてもっとも多くなっています。
グラフ出典/糸川嘉則・山下政三監修「アリナミン物語」(武田薬品工業ヘルスケアカンパニー、1998年)

(オ)白米中心の食事が「脚気」を拡大

西洋に対抗するための国造り

江戸時代末期、日本は鎖国を解き、世界への扉を開きました。そして明治政府は西洋諸国に対抗するため、「富国強兵」と「殖産興業」政策を推し進めていきました。

農村の若者が兵隊に

徴兵されたのは多くが農家の若者でした。彼らにとって、軍隊での最大の魅力は1日6合の白米を食べさせてもらえることでした。

白飯摂取量の比較
平成17年に厚生労働省・農林水産省によって決定された「食事バランスガイド」の基本形において、主食をご飯のみで補おうとした場合の適量から算出。

ところが、白米が食事の大部分を占め、副食が乏しいこの食事スタイルこそが、ビタミンB1不足を招き、軍隊内に「脚気」の患者を増やすことになってしまったのです。「江戸わずらい」と呼ばれるように都市部に多かったこの病気は、この頃から全国に広がり、国民病となっていったのです。

殖産興業~繊維産業の発展

近代的国家を目指す明治政府は、欧米の生産技術や制度を導入し、鉱工業や鉄道、電信等の事業を主導していきました。中でも象徴的なのが官営富岡製糸場です。先進的な器械を使って生糸の生産量を大幅に増やし、輸出量を拡大しました。ここでは全国から集まった工女たちが働き、やがて地元に戻って技術を広めることに貢献しました。こうして製糸業は全国に広がり、1890年代、繊維産業の輸出に占める割合は50%以上になりました。

給食制度の始まり…脚気になる工女も

当時の記録によると、富岡製糸場では、朝、昼、夜の3食が提供されていたそうです。これが働く人を対象とした初めての給食制度だと言われています。白米を中心とした給食は、当時としては恵まれていたと言えますが、田舎で雑穀を食べていた工女たちに脚気の症状をもたらすというマイナス面もありました。

広がる桑畑と食生活の変化

最盛期には、農家の4割が養蚕を営んでいました。製糸業が盛んになるに従って、蚕の餌となる桑の葉が必要になり、それまでビタミンB1の補給源だった雑穀畑が次々と桑畑に変わっていきました。また、経済の発展により、農家の人々も貨幣収入が得られるようになり、白米を食べる習慣が広がっていきました。

これらの要因により、都市に多かった「脚気」が国全体に広がってしまったのです。

明治から大正時代にかけて、桑の作付面積拡大に反比例して、ひえ・あわ等の雑穀の面積は縮小していった。
「日本村落史 講座-生活III、食生活」(野本京子、1991年)より作成

お問合せ先

食料産業局企画課

代表:03-3502-8111(内線4354)
ダイヤルイン:03-6744-7179
FAX番号:03-3508-2417

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