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農林水産省

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各地に残る水土里の足跡

タイトル 場所 概要
サロベツ泥炭地開発と自然との共生に向けて 北海道天塩郡豊富町 サロベツ地域は、長い年月をかけて堆積した泥炭の湿地帯でしたが、戦後の混乱と食料確保の問題を解決するための緊急開拓事業から始まり、直轄明渠排水事業や総合農地開発事業等の実施によって、今日では日本最北の一大酪農地帯に成長しました。
豊穣なる大地を走る大動脈「篠津運河」 北海道江別市、樺戸郡月形町、石狩郡当別町、石狩郡新篠津村 昭和30年に石狩川流域総合開発事業の一環として世界銀行から融資を受け、同31年から篠津地域泥炭地開発事業により造成された用排水路で、ポンプ浚渫船や湿地用ブルドーザーといった建設機械もこのときに開発されました。
荒野を豊穣なる大地に変えた石狩川頭首工 北海道樺戸郡 月形町、空知郡北村(現 岩見沢市) 石狩川頭首工は我が国屈指の大河川石狩川に建設された頭首工で、昭和38年度から篠津泥炭地開発事業で農用地に改良された地域を潤してきました。現在は約300m下流に改築され、平成26年4月より取水が行われています。
世界かんがい施設遺産「稲生川」 青森県十和田市、三沢市、七戸町、六戸町、東北町、おいらせ町 安政2年(1855年)から、不毛の台地であった三本木原台地を開削して造成された人工河川であり、平成26年に国際かんがい排水委員会(ICID・本部インド)より「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
想い一筋、流れは八筋「円筒分水工」 岩手県奥州市(旧 胆沢郡胆沢町) 昭和32年に茂井羅堰と寿安堰の取水口を統合し、当時としては画期的な構造を誇る円筒分水工が完成しました。この石淵ダムと円筒分水工の完成により茂井羅堰がかりの人々と寿安がかりの人々の水争いは解消しました。
伊達正宗が開削した「内川」 宮城県大崎市(旧岩出山町) 旧岩出山町の中心部を流れる内川は、伊達正宗公によって、今から約420年前に岩出山城が築造されたと同時に造られた人工の河川です。内川は水田への用水と城を守る外堀を兼ねた役割を持ち、大崎地域の発展と岩出山を象徴する歴史的施設です。
疏水が潤す緑の大地~地域を守る豊かな水~「田沢疏水」 秋田県仙北市、大仙市、仙北郡美郷町 江戸時代に秋田を治めていた佐竹藩は藩財政安定のため新田開発を奨励。水源確保のため、田沢疏水は 1825年(文政9年)に着手され、1833年(天保4年)に完成した。
約180年前の施設は改修事業により、現在も仙北平野を潤している。
清流と美田をさらに次代へ 山形県鶴岡市大鳥 山形、新潟両県の県境朝日連峰北部の山中に位置する大鳥池は標高1000m、湖水面積0.42㎢、周囲3.5kmの自然湖水で庄内平野南部を流れる赤川の源であり、下流の農用地約10,000haの補給水として旱魃解消に役立っている。
天の時あり地の利あり人の和ありて事の成る「安積疎水・十六橋水門」 福島県耶麻郡 猪苗代町、河沼郡 河東町(現 会津若松市) 安積疏水は、猪苗代湖から用水を取水する国営事業第1号工事です。十六橋水門は、明治13年に構築された猪苗代湖の唯一の吐出口で、建設当時は全国でも指折りの石組みの名人を招いて造られた眼鏡橋でした。その後の改修により現在は石積みの水門となっています。
蛇尾川を横断した英知の五角形・那須疏水蛇尾川伏越 栃木県那須郡塩原町(現 那須塩原市) 明治18年にひらかれた那須疏水は、伏流河川の蛇尾川を伏越でわたり、農業用水を送りつづけました。構造は堅固な石積み。断面は五角形で、現在、塩原町の文化財に指定されています。
九州の石工による明治の遺跡「那須疏水旧取入口」 栃木県黒磯市西岩崎(現 那須塩原市) 明治18年(1885年)に最初の取入口(幅5尺3寸・高さ5尺5寸)が築造された那須疏水の水門は、地形条件から随道出口に設置されました。この構造上の問題と河川の状況によって、取入口はこれまで何回も改修工事が行われてきました。
大田原城の御用水・蟇沼用水旧取入口 栃木県那須郡塩原町(現 那須塩原市) 蟇沼用水は、5ヶ村の飲用水として慶長年間(1956~1615年)に開削され、明和8年(1771年)には大田原城下まで延長されて御用堀とも呼ばれるようになりました。当時の構造は、岩盤をくり貫いたトンネルで取水していました。
四季の花で彩どられる歴史空間「大塩貯水池」 群馬県富岡市 「大塩貯水池」が誕生してから四半世紀。その流れは常に郷土を潤し、農業の場を大いに活気づけてきました。
18世紀から21世紀へ・見沼代用水の恵みは永遠に 埼玉県行田市、上尾市、さいたま市、北埼玉郡 川里町(現 鴻巣市)ほか 見沼代用水は、江戸時代に見沼ため井を干拓し、代わりに利根川から農業用水を供給する施設として、新たに開削された歴史的な農業用水路です。用水路の総延長は約60Kmにも及び埼玉県をほぼ南北に縦断しています。
野火止の台地と人々の心を潤した野火止用水 埼玉県新座市 川越藩主松平伊豆守信綱(のぶつな)は、承応三年(1654)、、玉川の水を分水する権利を得て、多摩郡小江村(現在の小平市)で分水しました。用水は途中で三つの流れに分かれ、農業用水に利用されるとともに飲料水にも使用されました。
自然の力を「養老川西広板羽目堰」 千葉県市原市 養老川右岸の農地に水を引くため、明治18年に完成した木造の堰。木と板を組み合わせた構造が増水時の圧力を軽減し、洪水から堰を守るため1本の支え木を取り外すと、一瞬にして堰が中央から両側に向かって崩壊します。
重太郎(じゅうたろう)棚田 長野県八坂村(現 大町市) 重太郎棚田は、第2次世界大戦末期に勝野重太郎らによって開田されたことから名付けられました。水田を開くことは村人の抱える悲願でした。勝野重太郎は木樋で水路を造り、梨の木・馬落しの両地区に引水して開田を成し遂げたのです。
江戸時代に掘られた水路トンネル深良用水 静岡県裾野市 今から330余年前、浅草の商人友野与左右衛門は、約3年半の歳月と総工費約7,400両、延べ約84万人を投入して、神奈川県の芦ノ湖の水を静岡県裾野市へ導く、水路トンネルを驚くべき技術の高さで完成させました。
千框(せんがまち)の棚田 静岡県裾野市 菊川市の北東部に位置する倉沢地区に、千框(せんがまち)の棚田はあります。框(かまち)は枠という意味があり名前のとおり、”千枚の棚田”を意味します。枚数は約3,000枚、面積は約10haあり、うち田んぼが約3.5ha、茶草場が約6.5haあります。
新潟平野の排水改良 新潟県新潟市、中蒲原郡 亀田町(現 新潟市) 新潟平野は、昭和20年代までは”地図にない湖”とまでいわれるほど排水の悪い地帯でした。人々は雪解け水に肩までつかって農作業を行いました。昭和30年代から進められた排水改良によって、現在の新潟平野は支えられているのです。
祖先が残してくれた農の礎「大明神用水」 新潟県 東頸城郡 松之山町(現 十日町市) 安政4年(1859年)に誕生した大明神用水は、延長が約3.5km。地崩気味のところには箱樋を埋め、隧道を掘り抜いて造られています。明治8年には、改祖以来官有地第2種の指定を受け、明治25年以降は堰組合の管理に移行しています。
水争いを丸く収めた円筒分水 富山県中新川郡上市町 上市川の流域では度々発生していた洪水による取水堰の流出や、干ばつ時には水争いを解決するため、農業用水の合口が昭和26年から取り組まれ、左右岸の分水の公平を保つための円筒形の分水工がつくられました。
急峻な絶壁を流れる「舟倉用水」 富山県上新川郡大沢野町(現 富山市) 舟倉用水は、寛政8年に開削が始まり、文化13年に完工した農業水路です。嘉永3年には、大きな災害を受けましたが、当時、水利開拓技術に優れ「神工」と呼ばれた新川郡大熊村の椎名道三によって数ヶ月で復旧されたそうです。
田畑を潤す憩いの場「桜ヶ池」 富山県東砺波郡城端町(現 南砺市) 桜ケ池は、当時、陸軍演習地の中央に位置し、計画の実現は不可能と思われましたが、人々の熱意により昭和15年に工事が開始されました。戦時中のため、兵役による人手不足と軍の実弾演習により工事は難航しましたが、昭和29年ついに13年の年月をかけて完成しました。
砺波平野をうるおす庄川合口ダム 富山県東砺波郡庄川町(現 砺波市)  大小の用水路が網の目のようにはりめぐらされている砺波平野では、庄川合口ダムの完成前は、12の用水があり、渇水時には、用水をめぐって熾烈な争いが繰り返されました。昭和15年に庄川合口ダムが完成し、安定した水の供給が行われるようになりました。
安らぎと潤いの鞍月用水・大野庄用水 石川県金沢市 1644年頃に改修された鞍月用水の一部の区間は金沢城の外堀に利用されていましたが、防衛上というより、農業用水、水力を利用して油を採るために造られたものでした。大野庄用水は、金沢で最も古い用水で、金沢城築城や木材の運搬、農業用水として利用されていました。
黄金の稲穂を育む日引棚田 福井県大飯郡高浜町 日引地区では古くからつくられてきた棚田と漁港と海により風景明美な景観を形成されています。約200枚の棚田は17戸の農家によって保存・維持されており、1999年には「日本の棚田百選」にも選ばれました。
敦賀運河疋田舟川 福井県敦賀市 疋田舟川用水は、文化8年に大浦~中村の川舟を通すことを陳情し、文化12年幕府ガ琵琶湖疏水計画を小浜藩と協議して、大阪の富商飾屋六兵衛を資本主とし、文化13年敦賀から疋田間に舟川を開削し4ヶ月後に完成した農業水路です。
愛知用水概要図 岐阜県 東南部、愛知県 尾張東部、知多半島、西三河の一部 愛知用水は、かつて「夢の用水」とよばれました。昭和23年、久野庄太郎と浜島辰雄が2ヶ月で完成させた概要図は、首相官邸での吉田茂首相への陳情にも使われ、これを契機に、愛知用水事業は大きく動き出すこととなったのです。
愛知用水の水がめ 牧尾(まきお)ダム 愛知県 牧尾ダムは、愛知用水事業の水源として、昭和32年仮排水路工事を開始、同36年に築堤が完了しました。純工事期間2年8ヶ月という驚くべきスピード施工は、全面的な機械化施工と周到な施工管理、そしてこれを支えた現場担当者の努力の賜でした。
江戸時代の新田開発により誕生した入鹿池(いるかいけ) 愛知県犬山市 寛永5年、鈴木作右衛門、江崎善左衛門ら入鹿六人衆により、入鹿池(いるかいけ)の築造が計画されました。折から新田開発に力を注いでいた尾張藩主の徳川義直に採用され、何度も失敗を重ねた末「棚築き」の工法により、寛永10年に完成しました。
金色の稲穂が田んぼに彩る堤防「黄金堤」 愛知県幡豆郡吉良町 貞享3年、「忠臣蔵」でもおなじみの吉良上野介が堤防を築かせました。堤防は水が漏れないように粘土が使用されるなど今の技術から見てもとても優れたもので、その後、水害がなくなり、金色の稲穂が田を彩るようになったことから、「黄金堤」と呼ばれるようになりました。
殿様の祈りが込められた池「鞍ヶ池」 愛知県豊田市 寛永年間につくられた鞍ヶ池は、完成した時に、寺部藩第3代藩主渡辺半蔵綱公が「池の主になって治めよ」といって自分の「鞍」を池に投げ込み、池の平静さを祈願したことが、池の名前の由来になったと伝えられています。
土地改良事業史に残る産業遺産「大宝排水機」 愛知県海部郡飛島村 大宝排水機場は、明治39年に完成した現存する最古のポンプ場です。当時の大宝排水機の適用面積は百三十町歩で、1反歩平均2斗の増収になったとされています。口径20インチ以上の大型両吸込渦巻ポンプで、全国でも5本の指に数えられる規模のものでした。
立田輪中人造堰樋門 愛知県海部郡弥富町(現 弥富市) この地域は、川・池・沼に囲まれた水郷地帯で、明治時代に立田輪中悪水普通水利組合が、計11の樋門を設置しました。樋門は、第二次世界大戦の頃までは機能していましたが、現在は、立田輪中人造堰樋門(町指定文化財)の他2門のみがその形を残しています。
日本最初のロックフィルダム小渕ため池 岐阜県可児市 久々利川上流に位置する小渕ため池は、、洪水調節・かんがい用水確保を目的に、日本最初のロックフィルダムとして昭和24年に着工され、昭和27年に完成しました。
輪中の水屋 岐阜県 海津郡 海津町(現 海津市) ほか 川に挟まれた低湿地の人々は盛土をして宅地を高くする工夫をしました。さらに屋敷内で宅地より高く盛り土をして、その上に建物(水屋)を建てて水害に備えました。水屋は輪中地帯の歴史を示す独特の景観として位置づけられています。
雲出川河口に穀倉地帯を拓いた雲出井用水 三重県津市 雲出井用水は、西島八兵衛翁が開削した用水路です。土地の高低を測るため、夜間に同じ長さの提灯を立て並べたり、サイフォンの原理を応用するなど、優れた技術と村人たちの血のにじむ努力で慶安元年に完成しました。
川の岩を砕いた石張りの堰「立梅井堰」 三重県飯南郡飯南町(現 松阪市)  立梅用水は、文政6年に拓かれた農業用水です。櫛田川の水を取水するための立梅井堰は、度重なる水害により井堰は流され、現在の井堰は大正10年に4代目の井堰として設置されたものです。下流の「高岩」と呼ばれる岩を砕き石張りの材料にしたとされています。
日本のカナート「マンボ」 三重県員弁郡大安町(現 いなべ市) 江戸時代末期から大正時代に盛んに素掘りされ、現在も多くの水田を潤している「マンボ」は横井戸式地下水かんがい体系で、サハラ砂漠西部から中国のトルハン盆地にかけて存在する「カナート」と同種のものです。
豊かな暮らしを支える巨椋池干拓地 京都府京都市伏見区、宇治市、久世郡久御山町 巨椋池は、昔は遊水池で漁業が盛んでしたが、水害が繰り返され、水質も悪化して人々の生活を苦しめました。優良な農地を求める声が高まり、西暦1933年~41年に干拓事業が行われ、巨椋池は優良農地へと生まれ変わりました。
先人達の智慧と汗の結晶の蓼川井堰 兵庫県城崎郡日高町(現 豊岡市) 円山川から水を引き畑地を開田して、苦しむ村民の生活を改善するため、明治3年に築造された井堰です。当初の構造は、河底の岩の間に生松丸太を渡し、土嚢を積上げる工法で施工し、左岸に船通しを設置していました。
古代の耕地整理が現代に生きている条里水田 奈良県 桜井市ほか大和平野部 水田が四方に碁盤の目状に整然と区切られ、その内側を6等分されている古代の耕地整理の跡で、奈良時代から中世にかけて整備されました。春は麦田、秋は稲田として収穫を迎える頃は黄金色の風景を呈し、大和の条里水田の典型的な景観をみせています。
大和平野を豊かにうるおす「吉野川分水」 奈良県奈良市、大和高田市、大和郡山市、天理市ほか 吉野川(紀の川上流)の大迫ダム、津風呂ダムを水源とし、大淀町の下渕頭首工より取水して大和平野内を流れる水路です。農業用水として導水され、水道用水、地下水涵養、河川の水質改善、地域用水の提供、洪水の軽減など農業以外にも数々の恩恵を与えています。
大畑才蔵の偉業を今に伝える水路橋「龍の渡井」 和歌山県 伊都郡かつらぎ町、那賀郡那賀町(現 紀の川市) 小田井水路は今から約300年前に建設されました。その中ほどに、四十八瀬川を渡る水路橋は「龍の渡井」と呼ばれ、岩盤を利用し中間に1本の支柱も使わずに掛樋を通したことで知られています。現在の施設は大正8年築造の煉瓦造りで、表面は自然石で覆われています。
藤田伝三郎による世紀の大事業「児島湾干拓」 岡山県岡山市、玉野市、児島郡 灘崎町(現 岡山市)  岡山平野の南部一帯は「吉備の穴海」と呼ばれた海でした。明治時代に大阪の豪商「藤田伝三郎」によって大規模な干拓が行われ、終戦後、国営事業に引き継がれて、合計2万ヘクタールもの美田が干拓によって生まれました。
お国とお兼の国兼池 広島県庄原市 正保3年に毎年水害に悩まされていた谷川の水をせき止めて築造されたため池。お国とお兼の人柱により堤が切れることが無くなったことから「国兼池」と呼ぶようになったといわれています。
何百年も続いた水げんかをなくした天神野分水工 鳥取県東伯郡関金町(現 倉吉市) 古来よりこの地では、水番と呼ばれる人が6つの樋門を操作して農業用水の配分を行っていましたが、当時は水もれがひどく、干ばつの年には水争いが絶えませんでした。このため、ため池を拡大して用水を確保するとともに、円形分水工を設置して、水争いがなくなりました。
不毛の砂地を肥沃な農地にかえた高瀬川用水路 島根県出雲市 高瀬川用水路の長さは約11km、当時の松江藩では他に類を見ない長大用水路でしたが、早期完工の厳命により1684年から3年間で完成をみました。斐伊川からの取水口は岩山をくり貫いた水路トンネルとなっており、人力により掘削されました。
全国唯一の石積みアーチダム「豊稔池」 香川県三豊郡 大野原町(現 観音寺市)  豊稔池の堰堤は、全国で唯一のマルチプルアーチダムとして築造されています。築造開始は大正15年で昭和5年に竣工しており、わが国ダム築造技術が草創期にあった時代に、当時の常識を打ち破る画期的なダム形式を大胆に採用しています。
弘法大師ゆかりの日本一の農業用ため池「満濃池」 香川県仲多度郡満濃町(現 まんのう町)  満濃池は、1300年前に造られた農業用ため池です。規模が大きいことや築造の120年後に朝廷から築池別当として派遣された弘法大師(空海)がわずか二ヵ月余りで壊れた池を改築したことなどで有名な丸亀平野一帯を潤す日本一の水がめです。
香長平野の生命を育む山田堰 高知県香美郡土佐山田町(現 香美市) 山田堰は、神母ノ木から小田島にかけて物部川を横断する取水堰です。寛永16年、野中兼山が大量の石材と松材を使い、高さ約1.5mの堰を築きました。兼山が最も力を入れて取り組んだ堰で、試行錯誤の難工事であり、完成までに26年を要したといわれています。
田んぼのSL「朝倉三連水車」 福岡県朝倉郡朝倉町(現 朝倉市) 1663年、筑後川から水を引くため堀川用水が作られましたが、膨大な水を汲み上げるためには足踏み水車では限界があったため、1789年、地域の人々は工夫を凝らし水流を利用した自動回転式の揚水車である三連水車を作り上げました。
築造時の干支をその名に刻む戊申溜池 大分県南海部郡弥生町(現 佐伯市)  明治41年、即ち「戊申」の年に着工されたこのため池は、工事途中、夏台風により築堤が決壊し、死者1名、家屋7棟流失、数ヘクタールの耕地は河原と化してしまいましたが、事態の沈静化と工事再開に努力し、ついに明治44年完工しました。
童話の里に水を引く古後井路 大分県玖珠郡玖珠町、九重町 室町時代に開削された古後井路は、明治32年に取り入れ口隧道が掘削され、昭和11年には堰堤を構築するなど逐次改良されてきました。昭和26年に分岐する山王線水路の大改修を計画し2カ年で完了しました。
拓けゆく大地呉崎干拓 大分県豊後高田市 戦後の緊急開拓事業の一環として、昭和44年に完成した干拓地です。周防灘は瀬戸内海特有の遠浅であり、干潮時には広大な干潟が広がり、古来より干拓適地として知られ、江戸時代に呉崎新田・真玉新田などの干拓地が開発されてきました。
今日も潤う明正井路第一供石橋 大分県竹田市 不毛の原野や雑木林が多く、僅かに点在する水田があるだけの苦しい暮らしを救うため、明治から昭和初期にかけて水路を完成させてかん水しました。石橋は県道と河川を渡る水路橋で、県内最大最長での規模を誇ります。
先人の知恵、円やかな配水「円形分水」 大分県竹田市大分県竹田市 大分県竹田市南部地域の水田用水路の施設として昭和9年に完成した農業用水分水施設です。この施設ができるまでは農業用水の分配で関係者が反目し合い連日のように水争いが繰り返されていました。
先人の心を受け継ぐ農の里「岳の棚田」 佐賀県西松浦郡西有田町(現 有田町) 日本の棚田百選にも選ばれている「岳の棚田」は、平均勾配5分の1という急傾斜地で、法面には堅固な石積みが施されています。石積みの技法は布築、谷築、その他幾通りかの方法が用いられており、現在も地域に継承されています。
文化的景観 石積棚田「蕨野の棚田」 佐賀県東松浦郡相知町(現 唐津市) 急斜面に、五本の指を広げた手のひら状に広がる蕨野の棚田は、江戸時代から昭和初期まで造成されてきたもので、  石垣は当地で出土した自然石を、全て人力で積み上げており、石積み棚田の規模は全国有数です。石積みの景観が優れていることから棚田単体として初めて国の重要文化的景観に選定されました。
鎌倉時代の遺産「百太郎溝取入口旧樋門」 熊本県球磨郡多良木町 百太郎堰構築の計画は、鎌倉時代からかんがい計画がなされ、1680年代に作られたといわれています。人々に何度も受け継がれ、子供から老人まで一丸となって協力し、人力の限りを尽くしたと言われます。
砥用国始以来の大業「柏川井手 」 熊本県下益城郡砥用町(現 美里町)  柏川井手は、砥用町(現 美里町)の南部に位置し、水不足が深刻な石野地区以下数十箇村に用水源を確保するため,急峻な山腹につくられた農業用水路で、現在においても、地域の貴重な農業用施設として活用されています。
通潤橋の手本となった水道橋「雄亀滝橋」 熊本県下益城郡砥用町(現 美里町)  文政14年に完成した水路橋。当時としては画期的な技術で水を橋の上に伏樋させています。築造にあたった石工は岩永三五郎。溶結凝灰岩を使った単一アーチ橋で、通潤橋のお手本になったといわれています。
空を渡る水路、虹の架け橋「通潤橋」 熊本県上益城郡矢部町(現 山都町) 干ばつに苦しむ白糸台地に水を引くため、嘉永7年に築造された水路橋。熊本城の石垣と同じ堅固な石積み技法、逆サイホン水路方式の採用、橋上中央に設置された土砂抜きの放水口など、当時の技術の粋を集めて築造されました。
児玉久右衛門と杉安井堰 宮崎県西都市大字杉安 杉安井堰は、児玉久右衛門が米良川より水を引き、藩の許可を得て、享保5年に水路と井堰造りに着手しました。途中、出資者の変更、工事の妨害、洪水による堰の流失など幾多の問題がありましたが、享保7年に完成し、14町歩を潤しました。

 

 

 

 

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