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農林水産省

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明日をつくる ~東日本の復旧・復興に向けて~(3)

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豊穣な大地を取り戻し 子どもたちの笑顔があふれる村へ

宮城県石巻市 株式会社宮城リスタ大川



震災からの迅速な復旧と、未来を見据えた営農を目指し村の被災農家が協力して誕生した宮城リスタ大川。
「かつての活気を取り戻したい」との思いを胸にスタートしました。

地図画像
平成10年度からほ場整備事業をスタートし、稲作農業の生産性向上を目指してきた宮城県石巻市の大川地区。整備事業がほぼ完了していたところに震災が発生し、津波によって農地の大半が壊滅的な状況に。人的にも大きな被害が出ましたが、早期の営農再開を目指して株式会社宮城リスタ大川を設立、大槻幹夫さんが代表に就任しました。


地域営農と農村の復興を
社長の大槻幹夫さんの写真

社長の大槻幹夫さん。震災を機に以前からの懸案だった法人化を実現し、早期の営農再開に結びつけた


20代の若手社員の写真

20代の若手社員も入社し、菊栽培などの作業に精力的に取り組んでいる


コンバインの写真

被災地域農業復興総合支援事業を活用し導入したコンバイン。他にトラクター、田植機(乗用型)などの機械類、菊栽培のハウス建設も同事業を活用した


法面の草刈り作業の写真

多面的支払交付金で取り組む法面(のりめん)の草刈り作業


収穫を待つ実った稲を見つめる大槻さんの写真

復旧した農地で、収穫を待つ実った稲を見つめる大槻さん。完全復旧まではまだ時間を要するが、確かな手ごたえを感じている



復興のために法人化を決断 稲作とともに菊栽培を導入

石巻市の北東部に位置し、北上川の下流右岸に広がる水田地帯。一部の農家では畜産の複合経営も行われていましたが、ほとんどが小規模な稲作農家という状況に加えて、現役世代の高齢化も深刻になっていました。

地域の中核農家が減少する中、合理的で持続可能な営農のために平成10年からほ場整備事業がスタート。目標集積率61.1%を掲げて生産基盤の整備を進めてきました。

ところが、事業の完了を目前にしていたところを津波が襲い、整備された農地のほとんどが浸水してしまいました。

農機具もすべて流され、皆が途方に暮れる中、”これまで先祖が大切に耕してきた農地を何とかしてよみがえらせたい”という強い覚悟と使命感を抱いた大槻幹夫さんは、それまでなかなか進められなかった法人化を決断。地域の営農の復興を目指しました。

「震災前にも法人化への指導があったのですが、それぞれの任意組合から理解を得られず、実現できずにいました。しかし、この未曽有の大災害からの復旧・復興を進めるには、さまざまな支援が受けられる法人化が絶対に必要。われわれにはそれしか道が残されていなかったんです」 と語る大槻さん。任意組合の理解を得て、ついに法人化に踏み切りました。

稲刈りの写真 24年から農地の復旧工事をスタートし、25年5月23日に農業生産法人・株式会社宮城リスタ大川が誕生。農地が海水に沈んでから3年、農地の集積がゼロというところから、26年には164haで営農が再開できるようになり、水稲は55.4ha作付けしました。


稲作だけの経営に限界を感じていた大槻さんは、この地区で35年以上にわたって菊栽培に携わってきた大槻稲夫さんと協議を重ね、土地利用型の稲作と労働集約型の菊栽培を経営の柱にすることを決意。

84aの施設園芸ハウスを建設して菊栽培をスタートさせ、育った生花は石巻市や仙台市の市場で販売しています。

「菊は天候に左右されず、値崩れすることもありません。ただし、スタートしてまだ1年なので不慣れな点も多いのが実情です。もっと社員が熟練してくれば、生産効率を上げることも可能だと思っています。社員の給料も上げていきたいので、早く目標の1年あたり2.5回の収穫を実現したいですね」

秋彼岸の出荷に向けハウス内で育つ菊の写真

秋彼岸の出荷に向けハウス内で育つ菊。生産50万本、1年あたり2.5回の収穫が目標


菊の選別機の写真

新たに導入した菊の選別機。仙台市や石巻市の市場での販売を足掛かりに地域の特産化を目指している


稲の刈り取り作業の写真

復旧した農地で4年ぶりに行われる稲の刈り取り作業


復興に取り組む写真

法人として周年雇用を目指しつつ、一丸となって復興に取り組む


秋刈り取られた籾が運ばれる北上地区共同乾燥調製貯蔵施設の写真

秋刈り取られた籾が運ばれる北上地区共同乾燥調製貯蔵施設(北上カントリーエレベーター)。平成25年9月に運用開始、3,000tの貯蔵能力を備え、水田500ha分のコメの乾燥、貯蔵ができる


先祖が残した大地を守り、子どもの歓声を取り戻す

すでに70歳を超えた大槻さんですが、若い人たちと一緒に日々復興に取り組む姿に、衰えは見られません。

「かつて、このあたりは冷害による飢きんが続き、人口が半分になった時代もありました。しかし、当時の村人たちが遠くまで足を運んで移り住んでくれる人を必死で集め、村が潰れずに済んだのだそうです。その事実を知った時、先祖が残してくれたこの土地を、未来の子孫へと残していきたいという使命感のようなものが生まれました」

農地を守り、雇用の創出を目指す大槻さん。

震災で学校が被災したため、現在、この地域の子どもたちは大幅に減りましたが、 「長い年月がかかっても、こうしてコツコツやっていくことで、徐々に人が戻ってきてくれたらと思いますね。そしていつかは、また子どもたちの明るい歓声が響きわたる村になることを願っています」



文/中山斉(フリート)  写真提供/水土里ネットみやぎ、宮城県東部地方振興事務所