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関東農政局

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さらに詳しく  仁科氏と小笠原氏

  安曇族に代わって、平安末期より約500年にわたって安曇野(あずみの)地方を統治したのは名族・仁科氏(にしなうじ)。仁科氏の祖先は、大和朝廷に深いつながりのあった畿内の阿部氏という説が有力視され、阿部氏も蝦夷(えぞ)征伐の命を受け、木崎湖(きざきこ)周辺に拠点を置いたと考えられています(木崎は蝦夷に対する柵が置かれたところを意味する地名という)。

  長野県大町市に館を築いた仁科氏は、大町に京都風の町割を敷き、近くには貴船神社(きふねじんじゃ)、北野天満宮(きたのてんまんぐう)など京都の社を配します。安曇野一帯には、高瀬川(たかせがわ)、木舟、定光寺、小倉、室町橋、吉野、大原といった京都を連想させる地名が多く、これも仁科文化の名残でしょう。

  一方、松本平(まつもとだいら)では、中世を通して信濃(しなの)と最も深い関係を持つ武将・小笠原氏(おがさわらし)が台頭してきます。全国で最も早く武士出身の国司が誕生(1185年)したのは信濃とされていますが、その初代信濃守(しなのかみ)が源氏の加賀美遠光(かがみとおみつ)です。遠光の子孫が小笠原氏となり、中興の英主といわれる貞宗(さだむね)が松本市の井川城に居館を構えて筑摩(ちくま)郡の拠点としました。

  その後、小笠原氏は有名な「大塔(おおとう)合戦」で敗退しますが、再び信濃の守護職に復帰。しかし、内紛が絶えず武力による闘争を繰り返します。通常、戦国時代は応仁の乱から始まるとされていますが、その兆候を20年前のこうした信濃の抗争に求める識者もいます。

  余談ながら、礼法の「小笠原流」は、この小笠原氏がまとめたものです。小笠原氏は江戸時代にも一時松本藩主となりますが、改易されて、最後は小倉藩主(九州)として生き延びています。

  仁科氏は常に朝廷側に身をおいており、小笠原氏に破れ、その支配下についたにもかかわらず衰えることなく、武田信玄(たけだしんげん)は自分の五男・盛信(もりのぶ)を仁科氏の養子にしています。盛信の子供も徳川の旗本として江戸期を生き延びています。



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