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関東農政局

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3. 江戸時代の牧と新田村【「農」と歴史】

江戸時代の牧

江戸時代の牧

   戦国時代も後半、関東地方の広い範囲を支配していた北条氏は、下総国(しもうさのくに)を拠点とする家臣・千葉氏に対し、北総台地への(まき)の設置を命じました。平安時代には存在したと考えられる北総台地の牧について、中世の詳しい史料は残っていませんが、この命令から、台地上は未だ農地として開発されていなかったことが想像できます。

   この時設置された牧は、北条氏、千葉氏が豊臣秀吉に敗れ滅亡したことで一時廃れますが、江戸時代に入り再度、整備されました。北総台地の西側には小金牧、東側には佐倉牧が設置されています。それぞれの牧はさらに細かく小金5牧、佐倉7牧に分けられました。佐倉7牧のうち、現在の八街市(やちまたし)には小間子牧と柳沢牧が、富里市には内野牧と高野牧が置かれています。

   牧には馬が逃げ出さないように高い土手(野馬土手)が築かれました。馬は放し飼いにされ、年に一度の「野馬捕り」で数百頭が捕まえられます。捕らえられた馬のうち、数十頭は献上馬として幕府などへ納められ、残りは農耕馬として牧周辺の農民たちに売られていました。

 

 

新田開発の進展

   江戸時代、幕府に近接していた北総台地には、地方のように広い領地を支配する外様大名は置かれず、幕府を支える譜代の小大名や旗本が配置されました。天領(幕府の直轄地)も多く、入り組んだ支配体制だったといえます。この時代は、全国各地の大名が新田開発に力を注いだ時代ですが、大大名の居ない北総台地でも同様に開墾が進められました。当事業地区でも、この時期に新田開発のピークを迎え、八街市では「榎戸(えのきど)」「雁丸(がんまる)」「大関(おおせき)」、富里市では「日吉倉(ひよしくら)」「久能(くのう)」「根木名(ねこな)」など、いわゆる古村(※)とよばれる地域で開墾の記録が残っています。
   これらの地域には、台地上の牧を一部開墾して成立した村もありました。川の無い台地に拓かれた農地は、ほとんどが畑地であったと思われますが、難しかった台地の開発がついに本格化したものと解釈できます。なお、この時代に開墾された北総台地の多くは天領となりました。台地の開発は、おそらく幕府の経済力がバックにあったからこそ進めることができたのでしょう。また台地に刻まれた谷も、この時代には、谷津田として開墾し尽されていたものと思われます。

 ※「古村」と呼ばれる地域の中で、八街市の旧川上地区(用草や岡田など)では、江戸時代以前にすでに村が確立していたようです。

 

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農村振興部設計課
ダイヤルイン:048-740-0541

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