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関東農政局

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事業に至るまでの経緯(一期事業)

地域の概況

   三方ヶ原の戦い(※)でも知られる三方原台地は、近くに天竜川や浜名湖といった豊富な水源があるにもかかわらず、高台まで水を供給する手段がありませんでした。このため、古来より慢性的な渇水に悩まされる地域で、極めて水の便も悪かったことから、入会の採草地(※)としての利用がなされてきました。

金原明善(肖像画、写真?).jpg
   明治時代に入ると、江戸幕府滅亡によって職を失った旗本などが新天地を求めて三方原に移住してきたため、開墾が進み、茶の栽培が盛んになってきましたが、相変わらず水の確保には難渋していました。当時、天竜川下流域の治水に大きな貢献を残した金原明善が、1896(明治28)年に天竜川から三方原に用水を引く構想を立てましたが、具体的な計画策定までには至りませんでした。その後明治時代後期には茶の価格が暴落し、農業は一時衰退、大正、昭和期にかけては浜松飛行隊第7連隊や、高射砲第1連隊など、陸軍の軍事施設が多く設置されました(現在の陸上自衛隊浜松基地)。

金原明善記念館(外観).jpg
   第2次世界大戦後には食糧難を背景に、再び入植者たちがやってきました。しかし、台地という地形状況から用水の確保が困難な状況が続いていたことに加え、洪積台地と呼ばれる、水はけは良いが強酸性で、農業には不適という土質でした。このため、大部分の農家は不安定な生活を余儀なくされていました。




金原明善の肖像画(上)と浜松市東区にある明善生家・記念館(下)

(※)三方ヶ原の戦い:1573(元亀3)年1月25日に、現在の浜松市北区三方原町近辺で起こった合戦。武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人との間で行われ、家康は大敗、浜松城へと逃げ帰ったとされる。
        
入会の採草地(いりあい の さいそうち):「入会」とは、集落や村民などの共同体が、一定の主として山林等を共同所有し、“きまり”や“おきて”といった慣習に従って共同利用を行うこと。「採草地」とは、牛馬の飼料や田畑の肥え草、屋根用のカヤなどを刈り取る採草地。

☛ 【参考】金原明善の貢献 ~実現しなかった水路~

三方原土地改良事業に至る経緯

(参考)佐久間ダム.jpg   戦後、こうした状況を鑑みた農林省は、深刻な食糧不足を打開するため、国から旧陸軍用地の払い下げを行い、また、復員軍人や近隣農家の二、三男などに新規の農地開墾を促しました。静岡県では既に中部地域において大井川を水源とする大井川用水の建設に着手していましたが、これに加え、1948(昭和23)年に「国営三方原開拓建設事業」(1948~1960年)を開始しました。
  その当時電源開発が佐久間ダムと秋葉ダムの建設を進めていたことから両ダムに水源を求めることとなり、1954(昭和29)年の「天竜奥三河特定地域総合開発計画」の中で三方原用水の水源を天竜川とすることが位置づけられました。そして秋葉ダムの完成後、1960(昭和35)年より「国営三方原土地改良事業」を開始。約10年の歳月を掛けて1970(昭和45)年に完成しました。これによって台地には農業用水が供給され、不毛の地とされてきた三方原台地は、茶・野菜などの一大産地へと変貌を遂げることとなりました。                   (写真は佐久間ダム)
また、1967(昭和42)年には西遠工業用水事業が完工、ホンダやスズキ、ヤマハ発動機など、浜松市周辺の工業地域への工業用水の供給が開始されました。さらに、1989(平成元)年4月1日より、東海道新幹線や東名高速道路の開通などで人口が急増していた浜松市の上水道需要に応えるため、遠州広域水道事業の運用が開始されました。これら事業により、現在でも三方原用水は、上水・工水との3者区間、工水との2者区間を通りながら、各地区の受益者に水を届けています。

☛ 【参考】静岡県中部地域での取組 ~国営大井川用水土地改良事業~

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お問合せ先

三方原用水二期農業水利事業所
〒430-0926
静岡県浜松市中央区砂山町350-5
浜松駅南ビルディング11F
TEL:053-540-4333 (代表)