さらに詳しく 源頼朝と千葉氏
古くは「玉の浦」と呼ばれていた海岸が「九十九里浜(くじゅうくりはま)」になったのは源頼朝(みなもとのよりとも)に由来すると言われています。頼朝の命により、古代の1里である6町(1町は109m)ごとに矢を立てたところ、99本になった(約60km)との伝承です。
そのエピソードが示すように、房総半島は源頼朝の鎌倉幕府成立において大きな役割を果たしました。鎌倉幕府のあった三浦半島と房総半島はわずか10kmの距離。千葉氏や三浦水軍の味方を得た頼朝にとって房総半島は自分の庭のような存在だったのでしょう。
将門の乱の後、この地は藤原一族が国司となって管理しましたが、国司に恭順を示した平氏一門はさらに土地を開拓し、寺社に寄進する形でその地の支配を強めていきました。
当時は白河法皇の院政期で、房総の平氏たちが各郡や荘の名を苗字に変えていった時期。この中の一党に千葉氏がありました。千葉氏は平氏の分流ですが、中世、この半島の武将として名高い千葉氏が歴史にあらわれるのは下総(しもうさ)の初代守護・千葉常胤(ちばつねたね)からでしょう。
1180年、頼朝は伊豆で挙兵しますが石橋山の敗戦で千葉常胤を頼って安房(あわ)国に逃れ、反撃に転じました。その後も常胤は、頼朝の絶大な信頼を得て、下総の守護としてゆるぎない地位を築きます。千葉氏は鎌倉幕府の名門へのし上がり、以後、室町時代まで権勢を誇ったのです。千葉一族は分家しながらも全国各地で勢力を伸ばし、陸奥相馬(むつそうま)氏のように明治時代まで生き残った家系もあります。
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