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関東農政局

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4.水秩序の崩壊【農と歴史】

人口の増加がもたらしたもの

   江戸時代までは、大都市や商業地、港町を除けば、どこの地域でも農地の広さと人口はだいたい比例していました。食料がなければ人は住めないので、農地が増えないと人口も増えないということになります。

   ところが、この両地域には、他の原因で人口が増えるという特殊な事情がありました。

   佐原(さわら)地区は利根川(とねがわ)の瀬替えにより千石船(せんごくぶね)の行き交う商業港として発展し、小江戸と呼ばれるまでに都市化したこと。

   九十九里浜(くじゅうくりはま)では、江戸時代から塩の製造やイワシの地引網漁業の隆盛などで人口が増えていきます。特に、イワシの肥料は近畿を中心に需要が高まったため、紀州(和歌山県)の漁師が出稼ぎに来るようになり、やがて年間操業のため定着し人口が激増します。すでに元禄以降、人口は昔の12倍となり、ある記録によれば九十九里浜には漁師の家が4万戸(約24万人)あり、大漁の日には「江戸の火事場に似たる事あり」と記されています(『経済要録』)。両地域とも労働力の需要に加え、新田開発への拍車がかかりました。

   しかし、イワシ漁には周期があり、数十年にわたって不漁が続いたりします。製塩業も他の地に奪われ、製塩の燃料として必要であった低湿地の杉林も不要になり、ますます新田開発が進んでいきます。

   一方、明治31年(1898)、成田・佐原間に鉄道が開通すると舟運は衰退の道をたどり始め、佐原の町も大打撃をこうむります。

   こうした人口の増加が、もともと遊水地であり泥沼のような低湿地を無理やり開発させる要因ともなったのです。

 

水バランスの崩壊

   同じ頃、利根川の改修に大きな変化が訪れます。明治の中ごろから終りにかけて、舟運が衰えると、河川改修は洪水対策のため、川幅を広げ堤防を高めて護岸工事をほどこすという工法に変わっていきます。

   さらに昭和の始め、利根川の支流河口に逆流を防ぐための水門が造られました。これにより利根川からの洪水を防ぐことは可能になりましたが、大須賀川(おおすががわ)など支流の水が行き場を失い周辺の農地にあふれ出ます。昭和11年、大須賀川と小野川の水があふれ利根川沿岸の水田3,200haの1/2が水をかぶり約700haが収穫ゼロ、400haが平年の半分以下という大被害が起こっています。

 
大須賀川の湛水

    九十九里平野では、地引網漁業による人口の激増やイワシ漁業の不安定化が、この条件の悪い平野においてますます水田拡張がなされるという事態を生むことになります。この開墾も最初は問題もなく進行していきますが、間もなくこの平野の抜き差しならない矛盾となってあちこちで問題が発生するようになります。後発の新田は、ほとんど元は池沼であったような低湿地に造られます。ところが通常こうした池沼は、上流では排水池として、また下流では用水溜まりとして利用されていました。様々な条件を出して開田しても、何年に1回かは訪れる大渇水や大雨に際しては、矛盾はそのまま敵対的な関係に変わり、各地で激しい水ゲンカが発生するようになります。 

 要するに、必要な用水の絶対量を上回る水田が開発され、用水と排水をめぐる水の秩序が崩壊してしまったことになります。

 

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