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関東農政局

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大利根用水地区の歴史

大利根地域の生成(九十九里平野)

九十九里平野は、海流が搬送してきた漂砂(ひょうさ)の堆積と砂州・砂丘の発達により浅海(せんかい)が何度にもわたって囲いこまれ、その内部が潟(かた)となり、沼沢地(しょうたくち)と化していったものといわれています。その特徴として、いくつかの砂丘列と湿地列とが並列した地形を呈しています。
九十九里海岸は、わが国でも有数の美しい弓形の砂浜であり、その名もかつて源頼朝が石橋山の戦いに敗れて、伊豆から房総に逃れたさい、一里(約650m)ごとに矢を立てていったところ九十九本を要したという故事に由来するといわれています。

大利根地域の生成(椿海の干拓と干潟耕地)

地域の北部に位置する干潟耕地は、江戸時代の初期までは椿海(つばきのうみ)と呼ばれる潟湖(周囲が陸地化して取り残された浅い湖)でした。
椿海の干拓は、関ヶ原の合戦(1600年)からしばらく経った元和年間(1615~1623年)に江戸幕府に請願したことに始まったといわれています。その後、干拓を試みた人は何人もいたと伝えられていますが、寛文8年(1668年)伊勢の人で幕府の大工棟梁・辻内刑部左衛門によって着手され、同人が病没後は女婿・善左衛門が高僧鉄牛禅師の助力を得て、現在の新川を開削し、宝暦11年(1671年)当時2,741町歩の耕地が造成されました。その後この地は、更に開発が進み干潟八万石と呼ばれる大水田地帯となりました。

大利根用水のあゆみ

九十九里沿岸の低湿砂丘地は、かつて塩場として、あるいは地曳・揚繰の漁場として利用されていましたが、やがて、これらの衰退とともに農地としての開発が進められてきました。
用水源は、地区内河川の背後流域が小さいため、上流部ではため池や惣堀(そうぼり)を設け、また、下流部では河川を堰止めるなどにより用水を確保してきました。しかし、これらの施設の改廃が進むに従い、しばしば干ばつに見舞われるようになり、特に大正13年の干ばつを契機として利根川からの引水が九十九里沿岸農民の切実な宿願となりました。

お問合せ先

利根川水系土地改良調査管理事務所大利根用水支所
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