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東播地方の弥生遺跡は、多くが瀬戸内海沿岸で見つかっています。加古川や明石川の下流域、いわゆる低湿地にあたる場所で原始的な稲作が行なわれていたものと思われます。
その後、川をさかのぼるようにして開墾が進められました。飛鳥時代の607年には、聖徳太子によって加古川の下流部に堰が設けられたといいます。
7世紀の半ばには、公知公民制がしかれ、条里制による土地区画が始まります。加古川はもちろん、東条川、志染川などの支流や明石川でも川沿いの平野に条里の跡がみられます。
一方、印南野台地では条里を示す痕跡が全くみられません。条里制は、すぐには開墾できないような荒地や林地も区画されたといわれますが、水がかりの悪い東播の台地では、行なわれなかったようです。
「野は嵯峨野、さらなり。印南野。交野。狛野……」(枕草子)
これは、平安時代、清少納言が風情ある野原を称えた歌といわれていますが、「野」は、「人の手が入っていない土地」という意味が含まれています。
ただ、7世紀から8世紀にかけて、印南野台地には、「岡大池」と「入ヵ池」が築かれたという記録が残っています。ため池による水田開発が、すでにこの頃から始まっていたのでしょう。 |
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公地公民制は、8世紀の後半になると有名無実と化します。農地の私有化が認められ、有力な豪族や貴族、寺社は積極的に開墾を押し進めていきました。いわゆる荘園時代がはじまります。東播では、東大寺や住吉社、播磨清水寺など、有力な寺社が中心となって荘園の開発が進められました。
東大寺の「大部荘」は、平安以前、加古川の中流部で開墾が始められた大規模な荘園として知られています。条里制と同様、東播の荘園は、多くが川沿いの平野に位置していました。比較的、水利の難しい場所にも進出しているようで、鎌倉時代には、加古川の中流部に堰が設置されていたという記録もあります。
また、この地方は平氏の本拠地であり、平清盛の大荘園も多くありました。大規模な堰の設置は、高度な技術と莫大な費用が必要になるので、有力な中央貴族や寺社しかできなかったものと思われます。
一方、印南野台地をはじめとする東播の台地では、目立った開墾がなされたという記録はなく、荘園もほとんどみられません。中世の有力者にとっても台地の開発は難しかったようです。 |
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ページ上部イメージ写真(左側):「大中遺跡 竪穴式住居」(写真提供:神戸観光壁紙写真集HP)
ページ上部イメージ写真(背景):「加古川の空撮写真」(写真提供:小野市立河合小学校) |
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