02農業
contens 1.古代の「農」 2.中世の「農」 3.近世の「農」
 
 
1.古代の「農」
弥生遺跡の分布
弥生遺跡の分布
(新修亀岡市史 本文編第1巻p160より)
 弥生時代、亀岡盆地の人々は、扇状地先や段丘など、やや高い位置で暮らしていたようです。桂川の洪水を恐れたのか、それともまだ盆地の多くが湖だったのか。
 初期の稲作は大河川下流の湿地帯で行なわれることが多かったのですが、ここでは山から流れる小川の水を利用した稲作が行なわれていたものと思われます。

 3世紀頃のものと思われる北金岐(きたかなげ)遺跡では、最大幅9m、長さ55m以上の水路(大溝)と水をせき止めるための堰(せき)が見つかっており、当時、すでに高い農耕技術が伝わっていたことを示しています。

 亀岡は、旧国名では、丹波国桑田郡と呼ばれてきました。その由来は、桑の栽培、つまり養蚕(ようさん)が盛んな地であったこと。養蚕を伝えたのは、隣の京都に住んでいた渡来人、秦氏(はたし)といわれています。北からは山陰道を通り出雲氏がやってきました。古代の先進国といわれた出雲国(島根県)から、農業や製鉄の技術が伝えられたと思われます。
条理制復元図
条里制復元図
(新修亀岡市史 本文編第1巻p468より)

 7世紀の半ばに公地公民制が始まると、土地は天皇のもの(公地)となり、亀岡盆地でも条里制が行なわれました。条里制による碁盤目状の土地区画は、今でも地図などから読み取ることができます。右図からは1200年以上前に平地のほとんどが区画され、条里に基づいた開墾がなされたことが分かります。

 都が京へと移った平安時代、隣の丹波国は朝廷にとっては重宝する国だったでしょう。肥沃(ひよく)な土地でつくられたお米は朝廷の財政基盤でしたし、特産物として絹や糸も納められました。距離の近さから、遠国と比べると新鮮な野菜も届けられたでしょうし、農民が年に60日間都で働く雑徭(ぞうよう)も安定して供給できたものと思われます。

ページ上部イメージ写真(右側):「桝塚塚古墳出土の銅鏡(四獣形鏡)」
「北金岐遺跡から出土した土器(亀岡市教育委員会所蔵)」
(新修亀岡市史資料編第1巻より)
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