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湖北は、渡来人の文化が入ってくる北陸からのルート上にあり、畿内のどこよりも早く大陸の先進文化が伝わってきたものと思えます。
古代の「農」は、まだ水路を引く技術が未熟だったため、まずはじめに水の引きやすい湿地帯で稲を育てていたようです。また、川が山から平野に出たあたりの扇状地では、素朴な水路を利用した水田も造られていました。
昭和49年に発見された大海道遺跡は、ちょうど高時川が平野に出たところにあります。大きさは四方300mにおよび、竪穴式住居や高床式住居など約300戸もの大集落が存在していたことが分かりました。同時に木製の鍬(くわ)などが見つかり、道具による開墾も進んでいた様子がうかがわれます。
大和政権が確立し、大化の改新により公地公民制がしかれます。それに伴って全国の各地に条里制が実施され、この平野もすみずみまで碁盤の目に区切られました。湖北の条里制の跡は、昭和になって圃場(ほじょう)整備が行なわれるまで残っていました。また、口分田、十里、七条、八条など条里制にちなんだ集落名も多く残っています。
しかし、この条里制ではすべて水田化されたわけではなく、荒地や林地、畑なども混じった不完全なものでした。この平野が本格的に耕地化されるのは荘園が登場するようになってからでしょう。 |
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| ページ上部イメージ写真(右側):「大海道遺跡」(写真提供:(社)びわこビジターズビューロー) |
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