吉野川・紀ノ川分水の歴史
PAGE NUMBER page1 page2
 
大和豊年米食わず
隠し井戸による水汲みのようす
隠し井戸による水汲みのようす
 このことばは、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年となり、他が豊作であれば大和は干ばつに苦しむ、つまり、大和平野の農業用水の水不足をいいあらわしています。
 もともと少雨地帯であり、大きな河川に恵まれず、水源のほとんどをため池に頼ってきました。(詳しくは大和平野「近世の農」参照)
 ところが、山ひとつ隔てれば、日本有数の大河・吉野川(紀の川)が流れています。しかも、大台ケ原など最も雨の多い流域は奈良県。そこに降った雨のほとんどが紀州(和歌山県)に流れていく。なんとか吉野川の水を大和平野へ引けないものか(分水という)。これが大和平野の農民のかなわぬ夢でした。
大和平野の自然 大和紀伊平野の自然
大和平野への分水計画
吉野川分水普請入費積り書
吉野川分水普請入費積り書
 この吉野川分水計画は、すでに江戸初期(元禄年間)、高橋佐助によって提案されています。寛政年間(1700年代後半)には角倉玄匡(すみのくらはるまさ)による実地調査。また、幕末に立てられた下渕村の農民の分水計画辰市祐興らの分水計画を元に、明治政府が現地調査も行なっています。まさに、吉野川分水は江戸から昭和にいたる300年の間、浮かんでは消え、消えては浮かんだ大和平野の歴史的悲願だったのです。

高橋佐助の奇想天外なプラン
紀州の思い
紀の川
紀の川  
 
 「冗談じゃない」というのが紀州の言い分でした。降る雨は奈良県のものかも知れないが、洪水の被害をこうむるのは紀州だ。
 紀の川(吉野川)は、歴史に名高い暴れ川でした。一年に二度の割で大洪水が和歌山城下を襲い、幾万という人が亡くなっていました。それに紀の川は河況係数が3,740(最大流量と最小流量の割合)と日本一大きい川でした。降れば大洪水、日照れば大渇水。(詳しくは大和紀伊平野「川」参照)
 十万人の農民が鐘を打ち鳴らし庄屋を襲ったという文政6年(1823)の百姓一揆は、干ばつに苦しめられてきた農民の怨嗟が爆発したものです。
「渇水に苦しんできたのは大和だけではない。こちらは、水害と渇水の両方に耐えてきたのだ」。
 大和の悲願、紀州の苦闘。それは永遠に歩み寄ることもできそうにない歴史的矛盾でもあったのです。
紀の川に注ぐ水はたとえ、その一滴たりとも余人の勝手は許さず
和歌山県側、吉野川分水地を実地視察
和歌山県側、吉野川分水地を実地視察
(昭和4年4月18日付大阪毎日新聞)
 奈良県は、明治のはじめになると吉野川分水の代案である宇陀川分水(木津川水系)の計画を立て工事を開始します。しかし、事業半ばで挫折します。
 再び、明治18年には分水の調査計画が県会で議決され、ついで、日清、日露、第一次大戦を経てますます食糧増産の機運が高まるなか、大正4年、大正15年、昭和4年、昭和16年と度重なる提訴運動を繰り広げ、第1次水紛争から第4次水紛争へと展開しました。何としても大和平野へ水を引きたいという悲願、余剰水でも洪水時の水でいいから分けてもらえないかと再三にわたる交渉を重ねますが、いずれも根強い反対、金融恐慌による財政事情等により計画は頓挫しました。しかし、奈良県側も諦めません。反対を唱える紀伊平野の農民の実情を知ることが必要と考え、紀伊の水需給を調査します。その結果、大和平野と同じように、慢性的な水不足で悩んでいることが判明。計画が持ち上がる毎に、ムシロ旗を立てて反対してきた農民の真意が判りました。紀伊平野の農民も大和平野と同じ苦しみを味わってきたのです。
 このことから、「吉野川分水」は、大和だけではなく、紀伊平野の用水不足をも解決する総合的な利用計画でなければ実現は不可能であるという認識に達したのです。
吉野川分水の攻防
 
 
  NEXT