農業
contens 古代の「農」 中世の「農」 近世の「農」
1.古代の「農」
 古代の農の中心地は、紀の川の河口に開けた和歌山平野でした。中でも、JR和歌山駅のすぐ東側で発掘された太田黒田遺跡は、弥生初期から中期にかけての大規模な集落跡であり、当時の水田水田3ヶ所やあぜ道、水の取り入れ口も確認されています。また、同時に幅2.3m、深さ1.2mという大きな堀も発見されており、環濠の一部と考えられています。
 この地の豪族は、国名の由来ともなった紀氏(きうじ)。紀氏一族の勢力は、現在の「紀伊風土記の丘」にある岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群(みちくさトリビア参照)でしのぶことができます。この古墳群は5世紀はじめのものとされ、ひとつの丘の上に約700基の古墳が並ぶという大規模なものです。したがって、古代の紀氏は、他の地域のように飛び抜けた力を持つ首長がいたのではなく、多くの部族の首長が紀氏という一群をなしていたと考えられています。このことは後のこの地の支配、例えば戦国時代の雑賀一族も同じような構成であり、この地の気質、伝統的な風土のようなものとして特徴づけられるのかも知れません。
 伝統的風土といえば、紀伊の国は奈良時代から蚕糸が盛んであったらしく、「続日本紀」にも、生糸を産出する12国のひとつとして名が上げられています。この蚕糸は時代を超えて受け継がれ、明治には綿ネルやメリヤスとして一世を風靡し、現在の大和紡績へとつながっています。

日前神社と若宮用水
  日前神社と若宮用水
  また、紀伊国の"一の宮"とされる日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮の由緒は古墳時代にさかのぼるらしく、この和歌山平野一帯を潤す宮井用水(みちくさトリビア参照)を奉るものであったといわれています。宮井用水は今も現役の水路ですが、昭和の発掘調査では古墳時代の初期のものとされる大溝が発見されました。この水路は幅7〜8m、深さ3〜5mという巨大なものであり、当時、すでに全国のどこにも引けを取らない大規模な水田開発がなされていたことが証明されました。
 大化の改新後の条里制分布を見ると、紀の川の中流域におけるわずかな平地にも、条里制がしかれていたことが分かります。
紀の川沿いの条理制(定本 紀ノ川・吉野川より)
紀の川沿いの条里制(「郷土出版社 定本 紀の川・吉野川」より)
ページ上部イメージ写真(左側) 「金製勾玉」「弥生土器 脚付無頸壺」「袈裟襷文銅鐸」
写真提供:和歌山市立博物館
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