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野洲川がまだ暴れ川で、流路が定まらなかった古代。洪水を避けるために、人々は高台に住み、山からの土砂が堆積してできた肥沃な(低地の)湿地は、耕地として利用されました。氾濫原を流れる無数の小河川からは、古代の原始的な土木技術でも、容易に水を引いてくることができます。野洲川下流部の低地は、農業を営むには、最適の場所であったのでしょう。古代の水田遺構が下流部の各所で見つかっています。
近くの小学生が土器の破片を拾ったことによって、明らかになった服部遺跡からは、20m2から100m2の区画面積でこまかく区切られた弥生時代の水田跡が、合計で約2haも見つかりました。また、右岸の五之里遺跡では、高床式倉庫の跡が見つかっています。甲賀市と湖南市の境の辺りでは、5世紀前半の古墳群(泉古墳群)が発見されています。最近でも、遺跡発見は相次いでおり、平成17年11月に、守山市で古墳時代(3世紀後半)の遺跡が発見されました。これらの発見によって、古代の野洲川流域は、これまで想像されていた以上に広範囲で発展していたことが明らかになってきています。
大化の改新後、公地公民制がしかれ、畿内を中心に全国各地で条里制がしかれます。野洲川下流には、現在でも、規則的に通る道路などに条里制の影響が色濃く残っています。また、野洲市の「五之里」「五条」「六条五之坪」、守山市の「十二里」、栗東市の「十里」「綣の七里」など、小字の地名として条里制の名残りを見ることができます。
しかし、まだ灌漑(かんがい)技術が発達していなかった古代では、条里制を行なってもその土地に水を引いてくることができなかったため、すべてを水田にすることはできなかったでしょう。 |
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ページ上部イメージ写真(左側):「土器」(写真提供:栗東歴史民俗博物館)
ページ上部イメージ写真(背景):「服部遺跡」(写真提供:守山市教育委員会) |
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