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野洲川流域は、慢性的な水不足であったことと、上中下流域で地形的特徴が異なっていたことが重なって、様々な灌漑(かんがい)方法が取られてきました。上・中流部では、古くから河川灌漑のほかに、山間の小河川をせき止めてため池を造り、用水を確保してきました。野洲川本流から離れている地域は、自然降雨だけに頼る天水田のところもあったようです。前述したように、扇状地末端や琵琶湖湖岸の地域は、湧水に頼って、はねつるべや竜骨車を使って人力で水を確保していました。
この重労働も、大正時代に入って動力揚水機が導入されると軽減されます。しかし、石油や電気を必要とする動力揚水機は、農家の負担を増加させる要因にもなりました。また、水量の不安定な湧水池では干ばつが起こり、地下水の水位が下がると、取水もままならなくなります。揚水機の導入だけでは抜本的解決には至りません。野洲川流域の根本的な水不足の解消は、戦後の国営事業を待たなければならなかったのです。 |
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時代が昭和に入ると、琵琶湖周辺では、犬上ダムや琵琶湖の内湖干拓など、いくつかの事業が行なわれ始めます。古くから水不足に悩まされ続けてきた野洲川流域でも、水利体系を一体的に整備しようという機運が高まり、事業計画段階へと入ります。尋常ではないほどの数多くの井堰を抱えた複雑な水利慣行と、縦横無尽に通された細かな水路は、大規模な事業を行なうに当たって、綿密な計画を要したものと思われます。
野洲川農業水利事業計画は、野洲川上流にダムを築造し大量の水を確保し、中流部の水口と、扇状地の扇頂部にあたる石部、上流部に土山合同井堰・佐山頭首工を築造するというものでした。地元住民の強い要望と、国の政策が一致したことにより、ついに、野洲川ダムが昭和14年に県営事業として着手されます。昭和19年には、ダムの仮締め切り、トンネル工事まで完了しましたが、第二次世界大戦による戦時非常措置により工事を中止せざるを得ませんでした。 |
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