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OGURAIKE「農」の新しい歴史を刻む国営巨椋池農地防災事業

巨椋池の歴史

03-1歴史 

1.遺跡は語る

市田斎当坊遺跡

   かつて巨椋池が広がっていた地域で、近年の発掘調査によって、市田斉当坊遺跡、佐山遺跡、さらに南の尼垣外遺跡(いずれも久御山町内)など南岸に近接する多くの遺跡が確認されました。特に注目されたのは、現状の地面から4~5メートルも掘り込まれたところ、つまり干拓地と変わらない高さに古代の生活が営まれていたことです。これらによって、巨椋池の歴史的景観に対する漠然としたイメージが少しずつ変わり始めています。古代の水面は思い描いていたよりもはるかに狭く、少なくともいつもこの地に満々と水が湛えられていたわけではなかったようです。水の流れはいく筋にも分かれて一帯を巡り、大きな水害にも周期的に見舞われたものの、最近の発掘成果から考えると、古代のこの地域における常時の水は落ちついていて、比較的安定した生活が営まれていたと推測されます。

 

市田斎当坊遺跡 

2.宇治川架橋

   淀川から遡上して、山城、近江そして大和に分岐するこの地の各所に古代文化が華開きました。周囲を取り巻くように築かれた多くの古墳は、水辺の豊かな生産力に裏付けられたもので、渡来系の人びとの足跡も色濃く残されています。

   万葉の古歌にある「巨椋の入江」という言葉には「三方を山に囲まれた地域」という意味があり、宇治の地名もその地形に由来するようです。また、大和からみて「ウチ」、すなわち政権の所在地であった大和からここまでが勢力範囲内とされたためともいわれています。その時代、大和から北陸・東国へと通じるルートは、まず北へ山を越えて宇治・山科を経て、近江に抜けました。大化2年(646年)には早くも宇治川の渡河点に橋が架けられています。宇治、そして巨椋池が交通の要所として重視されていたことが分かります。

3.平安遷都

阿弥陀堂(鳳凰堂)

   都が大和から長岡京へ(784年)、更には平安京へ(794年)移されるに伴い、巨椋池とその周りは新しい都とこれまでの都である大和との中間に位置することとなりました。そのため、やがて都の人々、特に政治や文化の中心にあった貴族たちは、ここを別業(別荘)を営むリゾートとして注目しました。喜撰(きせん)法師が「我が庵は都の巽(たつみ)しかぞすむ世を宇治山と人は言うなり」と歌に詠んだように、都の巽(南東)の方角にあって、当時の行程で半日と近く、ほど良い距離感にあるこの地は、貴族たちにとって都の喧騒や政争の疲れを癒す絶好の場所と映ったようです。宇治川のまばゆいばかりの風光のなか、詩歌や管弦に興じる彼らは蓮の花咲く頃には流れに沿って巨椋池へと船を進めさせたのでしょう。

   そんな中、藤原頼通は父道長から引き継いだ別業を寺に改め、平等院としました。そこには、現在も残る阿弥陀堂(鳳凰堂)をはじめとする様々な堂宇が建立され、人々を憧れの極楽の境地へと導きました。

 

阿弥陀堂(鳳凰堂)


03-2歴史

イメージ写真(右側):「豊臣秀吉像」(写真提供・所蔵:高台寺)

4.武士の世と戦禍

   平安貴族たちの権勢は長くは続かず、頼通以後、摂関家と天皇家やそれぞれの内部争い、また、両者を巻き込んだ政争は武士の活躍の場を広げ、やがて彼らの台頭を招きました。それは、1192年の源頼朝による武家政権、いわゆる鎌倉幕府の成立として結実しますが、その前後宇治川から巨椋池へと続く流域の要衝もいくたびかの合戦の舞台となりました。

   以仁王、源頼政らが平家打倒のため挙兵した宇治橋合戦、平家を都から追い落とした源義仲を攻撃する源義経軍による宇治川先陣争い、そして、京都公家政権に対する鎌倉幕府の優位を決定づけた承久の乱における再度の橋合戦は世に広く知られており、淀そして対岸の一口(いもあらい)にも戦禍は及んでいます。

源平宇治橋合戦之図(宇治市歴史資料館提供)

源平宇治橋合戦之図(宇治市歴史資料館提供)

5.天下統一と太閤堤

   天下統一を果たした秀吉によって伏見に城が築かれ、政権の中枢とそれを支える都市機能の充実が図られた頃、南に接して巨椋池に分流した宇治川もおおむね今のようなひとつの流れにまとめられ、両岸の堤防が整備されたとするのが、世に言う太閤堤の伝承です。このような大きな河川改修事業は、長い年月をかけて、淀川上下流の住民たちが築き上げてきた努力と成果によるものであり、ここで生きよう、豊かな暮らしを送ろうとした人たちが、基盤整備の最終的な仕上げを天下人の偉業として後世に語り継ごうとしたのでしょう。

古代~秀吉伏見築城以前の巨椋池

古代~秀吉伏見築城以前の巨椋池 

秀吉伏見築城~江戸期の巨椋池

秀吉伏見築城~江戸期の巨椋池


03-3歴史

6.大池の時代

   巨椋池は江戸時代には通常、大池と称されました。大池のまわりは、北岸に伏見の町と向島、東に槙島、小倉、南岸には伊勢田と安田の集落が位置しています。大池の南岸を画してきた堤防がやや北に振りながら西に伸びるその先で東一口(ひがしいもあらい)の集落が途絶えると、迂回させられた宇治川の流れに突き当たります。対岸は淀、かつては真正面に南山城唯一の藩、淀藩主の居城がそびえ立っていました。この大池での漁業は、伏見の弾正町、大池西端の東一口、そして東岸の小倉村、この三者が漁業の「株」を分け持って、このまとまりを三郷と呼んでいました。三郷はそれぞれ一個の町や村として支配を受けるとともに、漁師仲間はそれとは別なかたちで伏見奉行によって管理され、「網役」や付加税の「口米銀」などの営業税を納めました。漁民と周辺の農村は、しばしばその利害の対立のために激しく争いましたが、しだいに漁民の勢いにかげりが見え始めました。

7.巨椋池

巨椋池   宇田   画

   時とともに、この地域はしだいに水面が支配的になっていきます。桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川となるその手前の低地に溢れ出た水が滞留し、やがて常水の地となり、内水面は広がりをみせました。恒常的な水面を人びとは大池と呼び習わしていましたが、巨椋池の呼称はむしろ近代になって通用したもののようです。水面が視界から消え去ろうとする頃からの固有名詞として、あるいは干拓地全体の総称・広域地名として、「巨椋池」が広く用いられるようになったとも言えます。現代人も含め、江戸時代の好事家以降の人びとは、記憶と記録にある水量や絵図、絵画の描写をさらに膨らませて古代の景観のように思い込んでいたのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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