
百太郎溝取入口旧樋門
百太郎溝旧水路の取り入れ口の樋門に使用されていた主な石材で、昭和35年4月、球磨南部利水計画改修工事のため、取り除かれたもので、現在の場所に復元されました。凝灰岩で作られ、高さ5.8mの石柱に全長9.5mに及ぶ、後方の渡し石等を主材としています。
樋門の構築年代は明らかではありませんが、鎌倉時代からかんがい用水計画がなされ、1680年代(江戸時代初期)といわれています。農業水利事業にかかわる文化遺産として貴重なものであります。
旧水路取り入れ口は、現在の取り入れ口より、約200mメートル下流に構築されていました。
現在では、球磨川左岸の雑木林の中に、旧水路の跡が認められます。
今から約320年前・・・・1680年相良頼喬公の頃、暴風雨や洪水が多発し、米価が騰貴するなどしたため、主食米増収のため開田の必要に迫られていました。
百太郎堰構築の計画は、球磨川の水を取り入れ多良木町・岡原村・免田町・上村を経て錦町まで、本流だけで18km、かんがい面積1500ha余りに及んでいます。この本流の工事はおそらく、鎌倉時代にはじまり、何度も受け継がれ、子供から老人まで一丸となって協力して、人力の限りを尽くしたと言われています。
第一期工事から第五期工事までにわたっています。
第一期工事は、現在の取り入れ口から、多良木町の鴨までで年代は推定出来ません。
第二期工事は、免田町の築地まで延長した工事で、延宝8年(1680年)に完成しています。
第三期工事は、上村の農民によって元禄9年(1696年)から翌年にかけ免田川まで延長されました。
第四期工事は、宝永元年(1704年)に、錦町一武の原田川まで掘り進みました。
第五期工事は、寛保3年(1743年)に、錦町西村まで延長され新田が開発されました。
このように、百太郎溝は多数の農民によって、長い年月をかけ、完成されたものであります。

| 1.場所 | 熊本県球磨郡多良木町大字多良木字百太郎 |
| 2.名称 | 百太郎溝取入口旧樋門 |
| 3.事業主体 | 不明 |
| 4.管理主体 | 百太郎溝土地改良区 |
| 5.建築年月日 | 1680年代 |
| 6.目的 | かんがい用 |
| 7.規模 | 高さ 5.8m 長さ 9.5m |
| 8.その他 | 昭和36年7月18日町指定史跡 |
百太郎溝の名前の由来
名前の由来については、いろいろな説があります。
百太郎という人が、自分の設計で作った堰が、洪水で壊れたので責任を感じて自殺したとか?
あるいは、百太郎という農夫が人柱になって、大水のたびに壊れていた堰を、立派に成就させたとか?
中には、これらの説は実では無くして、一種の伝説であって信ずるに足らぬ事だと、一笑に付する人もありますが、球磨郡郷土読本には、下記のように記載されています。
『堰構築も、幾度となくおこなわれたが、洪水期を迎えると、ひとたまりもなく崩壊し、ただ人々の失望を深めるにすぎなかった。
ある時、庄屋の夢枕に水神様が立ち『袴(着物)に横縞のつぎをあてた男を人柱にたてよ』とのお告げがあり、百太郎がその犠牲となり、大石柱の下に生き埋めされることになった』と記されています。