このページの本文へ移動

九州農政局

メニュー

偉人

事務所概要

業務概要

地域の概要

とりくみ

偉人

筑後川情報

主要河川情報

国営事業の概要

キッズページ

各 種 情 報

広報誌

発注・入札情報

災害関連情報

所在地

リンク集

 

    

      偉人の詳細

 

五庄屋物語 草野又六
古賀百工 成富兵庫茂安
田代重栄と田代重仍親子  

 

地域農業に貢献した偉人

五庄屋物語 

筑後川中流域の左岸には、筑後川と並行して耳納連山がそびえ、さらに、この間を筑後川の支流巨瀬川が並行して流れています。巨瀬川と筑後川の中間地帯である中央台地は、河川にはさまれていながら水利に不便な地域でした。

大石・長野両堰と用水路(以下大石・長野用水)の開削を発起したのは、かねてから目前を流れる筑後川の水を何とかして引き入れる工夫はないか話し合っていた、夏梅村庄屋栗林次兵衛、清宗村庄屋本松平右衛門、高田村庄屋山下助左衛門、今竹村庄屋重富平左衛門、菅村庄屋猪山作之丞(いずれも現うきは市吉井町)の五庄屋でした。

大石堰

大石堰(福岡県うきは市)

 

浮羽郡の土地の様子

浮羽郡の土地の様子(JPG:51KB)

その計画とは、水源地を生葉郡大石村(現うきは市浮羽町)長瀬に求め、取水口を設置し、用水路を造成して導水すれば従来の畑は水田となり用水不足の古田にもかんがいが可能となり、この結果離村する農民がいなくなるとともに藩庁の新財源にもなりうるという一石二鳥の計画でした。

寛文三年(1663年)は、大干ばつで農作物は全滅の状態となり、巡視中の郡奉行高村権内に対し、計画の実現を訴えるに至り、そこで同奉行の支持を得た五庄屋は、誓詞血判までして設計書、水路図を作成し、大庄屋田代又左衛門に出願を要請しました。この出願を聞いて事業参加の申し出のあった八ヶ所六庄屋を含めた、同盟十三ヶ村十一庄屋の連署をもって請願書を藩庁に差し出しました。

これに対して、水路敷地の掘削予定地となる十一ヶ村庄屋から「大石村から水路を開削して導水すれば、洪水時に導水路にあたる村は多大な被害を受ける」という反対の申し立てがなされたものの、藩庁から工事の許可が与えられ、寛文四年(1664年)に藩営工事が開始されました。

第一期工事においては長瀬の入り江から下流に向かって溝を掘り、取水口には水量を調節できるように水門が設置されました。ここから、3.6m幅で3km開削し隈の上川へ流し込み、この両者が合流した水を取水できる堰を設け再び取水し、(なお、昭和33年以降隈の上川はサイホンで渡しています)さらに筑後川沿いに1km下り角間村(現うきは市吉井町)で南北の幹線に分岐させ、それより西側においては在来の小溝を拡幅利用するなどして各村へ適宜分水しました。水路延長13.3km、人夫15,259人、潰れ地6.2haで、工事はわずか60日間で完成し、75haにかんがいされるようになりました。

第一期工事の完成により、工事の拡張配水請願が出され、その後寛文五年(1665年)から第二・三期工事が実施されました。寛文七年(1667年)からは、第四期工事として高田村 (現うきは市吉井町)入り江口から筑後川の水を直接取水する工事が完成しましたが、水門の位置が悪く筑後川の洪水により破壊されました。第四期工事は失敗に終わったものの導水請願は後を絶たず、これを満たすためには取り入れ口の取水量を増やす以外解決策がありませんでした。

そこで計画されたのが大石堰で、延宝二年(1674年)に築造され当初75haだったかんがい面積は、貞享四年(1687年)には1,426haに達し、現在は2,227haとなっています。これも五庄屋を中心とした先人の偉大なる業績の賜物であり、今も変わらず地域に恵みをもたらしています。なお、五庄屋は現在長野水神社にまつられています。

五庄屋を祀った石碑

五庄屋を祀った石碑 (長野水神社)

長野水神社の境内

長野水神社の境内(福岡県うきは市)

 

ページトップへ

草野又六 延宝6年(1678)~享保15年(1730)  

今から遡ること約300数十年前の江戸時代、筑後川には新田開発を進めるために、4つの堰が築造された。上流から旧浮羽町(現うきは市)の「袋野堰」、旧浮羽町、旧田主丸町(現うきは市、久留米市)の「大石堰」、旧朝倉町(現朝倉市)の「山田井堰」、大刀洗町にある「床島堰(恵利堰)」である。

いずれの堰も築造から約300~350年の歳を経ているが、今日においても変わらぬ役割を果たしている。

江戸時代、筑後川右岸地区、特に旧三井郡一帯の土地は川面より高く水田としては利用されずに、荒地・荒畑のまま放置されており、わずかな田畑もたびたび干害に襲われ、農民は飢餓に迫られる状態であった。この貧苦の農民を救済しようと生命をなげうって床島堰を築造したのが、草野又六と三井郡の四庄屋(高山六右衛門、秋山新左衛門、中垣清右衛門、鹿毛甚右衛門)であった。

草野又六翁

草野又六翁(1678~1730)

発心公園にて撮影

草野又六は延宝6年(1678)に山本郡蜷川村(現久留米市大橋町)に生まれ、現久留米市草野町小山田の庄屋草野家の養子となった。土木工事の秀でた技術を認められた又六は、久留米藩の命を受け、筑後川中流域の右岸一帯の農業用水開発のため、床島堰の建設に力を尽くすこととなる。

宝永7年(1710)、この年も干天に見舞われ農民の間では、離村、離農するものが多く、鏡村(現久留米市北野町)庄屋高山六右衛門は前記の庄屋達と協議し、同年10月に堰堤築造、水路開設のための請願書を郡奉行に提出した。

この請願は、時の藩主有馬則維(のりふさ)の即決するところとなり、藩は普請総裁判(工事総監督)として又六を派遣して、官山の伐採を許し、銀を貸与して工事に着手しようとした。このことを聞いた筑前(黒田藩)領民11ヶ村代表は、堰堤築造後の洪水時には、筑後川沿岸の筑前領が水没することを理由に工事中止の抗議書を提出したため、工事は約1年間中止された。

その後、高山六右衛門の高良神社での断食祈願等の必死の運動が実を結び、水門口を約二十町(約2,200m)ほど下流に移し、工事に着手した。時に正徳2年(1712)1月21日のことであった。

こうして始まった工事は堰の長さが百七十間(約310m)もあったうえ、この辺は水量も多く、急峻なため、困難を極めた。水を正面から堰止めるのは大変な難工事であり、又六は困り果てたが、母の励ましにより、奮い立ったというエピソードが残されている。

正徳3年2月末に3,500人の人夫が川岸に集められ、俵に詰めた石を数十隻の古船に積み、河川中央にて転覆させ、堰の基礎を築き上げた。その時に用意した俵の数は50万個とも伝えられている。

こうして、不完全ながらも堰止め工事は完成し、河川水が新溝に入り、各村々の水田を潤した。

その後も又六の指揮のもと、修復工事を繰り返し、床島堰と用水路が完成した。30余村の水田にかんがい用水は行きわたり、現在でも約3,000町歩(約3,000ha)の田畑が恩恵を受けている。

恵利堰

恵利堰 (福岡県久留米市、朝倉市)

    床島堰:恵利堰を主要堰とするが、全体を総称して床島堰というのは、恵利堰付近は筑前領との境界にあたるので、筑前領を刺激しないためだといわれている。

【参考文献】
「床島用水沿革誌」~昭和58年9月~
            三井郡床島堰土地改良区
「筑後川五十年史」~昭和51年3月~
            建設省九州地方建設局筑後川工事事務所

偉人四堰位置図

偉人四堰位置図

  

ページトップへ

古賀百工 享保3年(1718)~寛政10年(1798)  

筑後川中流域に位置する朝倉市は、今でこそ肥沃な水田地帯ですが、かつては谷間から湧き出る小川などの水を利用したわずかな水田があるだけで、湿地や原野、凸凹や傾斜の激しい石ころ混じりの砂地が広がる地域であり、農民は度々起こる干ばつに苦しめられてきました。

寛文2~3年(1662~1663)に大干ばつが起こりこれを契機として筑後川から水を引くための用水工事が行われ、翌年には150町歩余りの水田を潤す「堀川用水」が完成しました。それ以降も、改良改造が加えられましたが、水田面積の増加にともない、堀川用水のかんがい能力は限界に達して、堀川用水の恩恵をあずからないところでは、常に干ばつに悩まされることとなり、年貢米も納められない厳しい状況となっていました。

下大庭村(現在の朝倉市)庄屋古賀百工は、解決策として、堀川用水の拡張を藩に願い出ます。事前に提灯やタライを使った高低差等の測量を行い、綿密に練った計画をもって願い出たことから、藩もこれを認め、5年後には「新堀川用水」は完成しました。

百工70才の時、根本的に水害、干害から住民・土地を守るためには、筑後川取入口の全面改修が必要であるとの思いから、筑後川本流山田堰の大改修の計画を立てます。しかし、これにも難題がありました。湿害を被るとして、工事に反対の農民もいたのです。百工は、日夜全力を挙げて説得にあたりました。まさに命をかけてこの事業を実現しようとする百工の思いは藩に届き、ついに1790年(寛政2年)完全な山田堰は完成することとなりました。

百工は山田堰の完成後8年経った寛政10年(1798)81才で亡くなりますが、その生涯は、かんがい工事に全てを尽くしたものでした。

  山田堰

 山田堰 (福岡県朝倉市)

 古賀百工翁の墓

 古賀百工翁の墓 

 

ページトップへ

成富兵庫茂安 永禄3年(1560)~寛永11年(1634)   

 

成富兵庫茂安は、現在の佐賀市鍋島町に生まれ、堤防、井樋、用水路、ため池など100数カ所の事業に携わり、佐賀の農業用水や飲用水を導くための利水開発や洪水防止の事業を進め、治水の神様と呼ばれました。茂安が築造した施設の中で、日本最古の取水施設とさ れているのが「石井樋」です。

約400年前、佐賀城ができた頃、佐賀藩では、生活用水や農業用水として多くの水が使われるようになっていました。

佐賀平野には嘉瀬川という大きな川が流れており、そこから分かれる多布施川を通して佐賀城下に水を運んでいました。多布施川への水は、嘉瀬川に井ぜきを造って流れ込むようにしていましたが、大雨が降ったり台風が来たりすると、嘉瀬川はたびたび大水となり、井ぜきが壊されることもありました。このため、田や畑には、井ぜきからの水の取り入れができなくなり、農民たちは水不足に苦しみました。

そこで茂安は、「嘉瀬川の水を大井手(堰)で止め、『象の鼻』、『天狗の鼻』と呼ばれる突堤で水の流れをゆるやかにし、土砂を沈ませ、きれいな水だけを多布施川に取り入れる」、という仕組みをもった「石井樋」という施設を考え、農民と共に建築しました。これによって洪水被害も治まり、田畑に必要な水量も確保でき、農作物の収穫も安定していきました。

石井樋

 

川上頭首工

川上頭首工(佐賀県佐賀市)

  

ページトップへ

田代重栄と田代重仍親子 

筑後川中流域に位置するうきは市浮羽町北西部の荒野に筑後川の水を引き、田畑を潤そうと吉井町の今から340年程前の大庄屋田代重栄(たしろしげよし)と田代重仍(たしろしげより)親子が私財を投じ完成させたのが、全長約2kmの「袋野隧道」です。

この袋野隧道の開削工事は、寛文12年(1672)6月初旬から開始されましたが、袋野一帯(うきは市三春)の地盤は、筑後川をS字に湾曲させる程の堅固な岩層であったため、百姓や大工のなせる技ではありませんでした。

そこで、重栄は山陽・山陰地方の金山から抗夫や鍛冶屋を雇いツルハシを作らせ、また、金山抗夫数十名がツルハシのみで岩盤に穴を開け、灯りも無い洞窟ではサザエの殻に菜種油を入れ灯火しながらの難工事で寛文13年(1673)3月に完成しました。

この隧道工事で久留米藩より借りた33貫目を使い果たし9貫目ほどに手を出し(総額で現在の5~6億円ほど)、完成したものの思うほどの水量が無かったため、更に数十貫目の私財を投げ打ち、続けて筑後川をせき止める石堰の工事を取水口のある獺の瀬(うそのせ)付近で行いますが、当時の筑後川の水量は現在の3倍とも云われ、また、獺の瀬近辺は特に川底の勾配がきつかったため、重栄は川底に木枠を作り石の流出を防ぎなら積上げるといった工法を考えますが、工夫が顔色を失って誰も川に入ろうとしませんでした。そこで、憤慨した重栄は大竿を水中に立てさせ、自らがそれを逆さまに伝って水中に沈み木枠を作って見せたとのエピソードが残されています。

その後、筑後川の川底に縦横100mを越える石堰が1676年に完成し、くじ取場以西の溝筋は息子の重仍が引継ぎ、袋野用水に係るおおよその工事は1679年に完成したと云われ、今でも200ha以上の田畑を潤しています。

また、当時の百姓たちは重栄の偉業に感謝し、没後、墓の石像を神として、今でも田栄神社で祀られています。

  袋野隧道の内部

袋野隧道の内部(福岡県うきは市)

 

 田栄神社2

田栄神社(福岡県うきは市) 

お問合せ先

北部九州土地改良調査管理事務所
〒830-0062 福岡県県久留米市荒木町白口891-20
Tel 0942-27-2160 Fax 0942-51-3058

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。

Get Adobe Reader