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地域の歴史

地域の成り立ち

(江戸時代末期)
江戸時代の北方地方絵図

中津山地区においては、縄文時代前期(約7,000~5,500年前)のものとみられる「樫崎(かしざき)貝塚」が発見されており、この頃の生活の跡が確認されています。また、この地域に集落が形成されたのは、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757年)に始まった桃生城築造の頃と推測され、北方からの異民族であった蝦夷(えみし)の襲来に備えた桃生の柵の建設に従事するため多くの人々が定住したことが、奈良・平安時代の数多くの遺跡から明らかになっています。

その後、時代の移り変わりとともに、奥州(おうしゅう)藤原(ふじわら)氏、鎌倉幕府によって桃生郡の地頭(じとう)に任命された山内(やまのうち)首藤(すどう)氏、山内首藤氏を倒した葛西氏、豊臣秀吉の家臣であった木村氏、伊達氏などによって治められ、江戸時代には伊達藩黒沢氏が地域一体を支配します。伊達藩は街道(旧・気仙道)の整備とともに北上川の改修工事やかんがい用水の整備、航路の確保などを積極的に行なってきました。

このような整備が進むとともに、次第にこの地域一帯は、陸上や水上の交通の要衝としても発展を遂げました。

また、この地域の農業は縄文~弥生時代(紀元前10世紀中頃~3世紀中頃)から行われていたものと推測されますが、北上川がもたらした肥沃な土壌と相反するかのように、流域や支流近くの農地はたび重なる水不足や水害に見舞われ、決して農業に適した土地柄ではありませんでした。このような状況を改善するために、江戸時代に伊達藩が行なった治水事業を先駆けとして、昭和初期からは地元農家の強い要望も反映し、地域と国が一丸となって、近代的な用水や排水の整備及び、ほ場整備に取り組んだことが、現在この地域を宮城県を代表する農業地帯へと発展させた要因となっています。

歴史的な出来事

江戸時代 仙台藩の三大飢饉

  • 宝暦の飢饉(1755)
  • 天明の飢饉(1783)
  • 天保の飢饉(1833)

明治22年 中津山大谷地悪水騒動

明治33年 水争い傷害事件

明治43年 未曾有の大洪水 (受益地が浸水被害)

明治44年~昭和9年 北上川開削工事 (下図 黄色 部分)

大正8年 大干ばつ (大正10年寺崎・倉埣揚水機場設置)

北上川開削図面

現代までの経緯

古川(現・旧古川排水路)から追波川に注ぐ水流は、地域住民にとっては湛水被害を引き起こす元凶であり、古川の排水改良は地域住民にとって、長い間の悲願でした。

そこで、時局匡救事業[じきょくきょうきゅうじぎょう=世界恐慌をはじめとする不況下、農山村を救済することを目的とする土木事業を主とする旧・内務省の政策。

1932年(昭和7年)~1934年(昭和9年)実施。]により、後谷地第1排水機場を1934年(昭和9年)度に設置しましたが、1931年(昭和6年)、飯野川可動堰がすでに竣工されていたことで、北上川の水位が高くなっていたことから、技術的、また経済的理由により追波川へ排水するほか方法はありませんでした。

しかし、後谷地第1排水機場を設置してからも、なお古川の氾濫は治まらず、何度も湛水被害は地域を襲い、大きな被害をもたらしていたことから、県営用排水改良事業中津山地区[1953年(昭和28年)~1969年(昭和44年)度]によって後谷地第2排水機場、鶴家排水機場及び旧古川排水路を設置し、これまでの湛水被害から土地を守る計画を推進してきました。

地域の著名人とその功績

初代仙台藩主の伊達政宗[だてまさむね 1567年(永禄10年)~1636年(寛永13年)]公は、北上川から石巻港に至る運河のための水路整備と北上川の水害を防止するため、家臣の川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし 1575年(天正3年)~1648年(慶安元年)]に河川改修を命じました。孫兵衛重吉は、工事の設計や現場監督だけでなく、工事資金の捻出や年貢を少なくするように藩に掛け合ったりもする優れた人物でした。

工事で働いている人たちは、親身になって自分たちの身を案じてくれる孫兵衛重吉に応えるように一生懸命に働き、改修工事は見事完成しました。この事業により、北上川・江合川・迫川の水流は安定し、水はけも良くなったことで、仙台平野北部の新田開発は急速に進みました。

 

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中津山農業水利事業所
〒986-0101 宮城県石巻市相野谷字飯野川町159-1
電話:0225-62-8730
FAX:0225-62-8734

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