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岩手県/盛岡市南部地域他 [鹿妻穴堰物語]

鹿妻穴堰の絵図面
鹿妻穴堰の絵図面

遙かなる地を拓いた水 鹿妻穴堰

現在の盛岡市の南、奥羽山脈と北上川、雫石川に囲まれた地域は、平坦な地形と恵まれた水利により先進的な農業が展開されると共に、その豊かな田園風景を求めて、住宅地としても発展している地域です。

このあたりの農業を支える水利施設は、鹿妻穴堰と呼ばれています。「鹿妻」は、アイヌ語で遙かなる所を意味する「カッツイマ」という言葉がなまって今日の「かづま」になったといわれています。遥かなる所とは、都のあった京都から遥かに遠いところという意味だったのでしょう。

鹿妻穴堰ができたのは1599年、豊臣秀吉が天下を治めていた頃です。今の盛岡市周辺を治めていた南部信直の命を受けた鉱山師、鎌津田甚六が現在の盛岡市北の浦にある大欠山に長さおおよそ六間(12m)、巾一間(2m)のトンネルを通したことがはじまりです。

当時の日本はヨーロッパの国々から「ジパング」、黄金の国と呼ばれていたほど金が多く産出されていたことから、鉱山でのトンネルを掘る技術水準も高く、その技術が利用されました。

この穴堰の完成により、奥羽山脈と北上川、雫石川に囲まれた三角地帯は南部藩内きっての良質米産地としての名が喧伝されることになりました。南部藩では鹿妻堰を藩御用の用水として、鹿妻堰奉行、堰繕普請奉行を任命し堰の運営・改修などを行うとともに、新田の開発を進めました。

その結果、明治44年発刊の「南部史要」では、「水利の及ぶところ極めて広く、その末流数十脈に分る、最も大なるものは上鹿妻、中鹿妻、下鹿妻、新鹿妻の四にして岩手志和両郡に亙り、この水路により畑の変じて良田となれるもの三万石を下らすという」と記載されています。

 

鹿妻本堰分水工灌漑支配反別調査図
鹿妻本堰分水工灌漑支配反別調査図

水の恵みを未来に受け継ぐ 国営盛岡南部農業水利事業

明治維新となり、鹿妻穴堰の維持管理はそれまでの南部藩から農家の人々の手に移りました。明治27年には鹿妻穴堰普通水利組合が設立され、現在の鹿妻穴堰土地改良区に受け継がれています。

鹿妻穴堰の水の恵みを受ける農家の人達は、取水源である雫石川の水源を保護するため、普通水利組合の時代から雫石川上流にある雫石町鶯宿にある水ノ目山といわれるところで、水源涵養林の造成に着手していました。

山に木を植えることによって、降った雨を山の土の中にも貯め、日照りが続くときでも雫石川の水がなくならないように備えています。いわば緑のダムを造っているのです。

その林も今では233haに及び、杉、赤松、桧などの美林を形成するまでにいたりました。

大正末期から昭和初期にかけては鹿妻穴堰の水の恵みに浴していなかった地域で新たな堰の開発構想が持ち上がり、鹿妻穴堰を管理する人々との話し合いにより、盛岡市の稲荷場から煙山の裾野をへて矢巾町に導水する鹿妻新堰が開発され750haの水田が新たに拓かれました。

第二次世界大戦後には、食料増産と農業技術の進歩に対応して、350年の歴史を持つ鹿妻穴堰も取り入れ口を含めた全面的な改修が必要となりました。このため地元農家の要請を受けて、昭和28年から昭和53年にかけて国営雫石川沿岸農業水利事業が始まりました。

この事業により、煙山ダムの新設と頭首工の改築、水路の改修が行われ、近代的な鹿妻穴堰として生まれ変わり、地域の農業振興に大いに貢献してきたのです。

しかし、県都盛岡市の発展に伴い、地域の宅地化が進み生活排水が農業用水路へ流入することから、用水の水質が悪化してきました。また、都市近郊という条件を生かした野菜・果物の生産を振興したいという気運がもりあがりました。このような状況の下、国営盛岡南部農業水利事業が平成元年より着手されました。

この事業により、鹿妻穴堰の水路は生活雑排水から農業用水を守るため、用排分離と呼ばれる水路システムに変更されました。従来は用水と排水が同じ水路を流れていたのですが、きれいな用水を守るため、用水はパイプラインを通じて田畑に導かれ、水路では田畑からの排水路を受けるようにしました。

水の恵みを未来へ伝える盛岡南部農業水利事業は平成10年度に完了する予定です。造成された施設は、次の世代に着実に受け継がれていくことでしょう。

 

鹿妻穴堰頭首工(当時)
鹿妻穴堰頭首工(当時)
 鹿妻穴堰頭首工(現在)
鹿妻穴堰頭首工(現在)

 

地区の営農
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