宮城県/栗原市築館周辺 [伊豆野堰物語]
伊豆野原を拓く水 伊豆野堰
今から約350年ほど前のちょうど「栗駒高原駅」あたりが「伊豆野原」と呼ばれていた時代のことです。そこはまだ草木が深く生い茂る野谷地※でした。その荒野に堰※※を掘り、迫川の水を導いて見渡す限りの美田に改良した人々がいました。仙台藩二代藩主伊達忠宗、その命を受けた奉行古内主膳重広、測量をした仙台藩きっての土木家川村孫兵衛、そしてこの工事に動員された今は名も知られないたくさんの人々です。 さて、藩命を受けて測量にきた川村孫兵衛は、昼間は寝て夜になると仕事にとりかかったといわれます。起点と終点にそれぞれ提灯がひとつ立ち、その提灯の火を上げ下げして行ったり来たりさせ、それからその間に多数の提灯を並べ置き換えて、それを何度も何度も繰り返し用水路の勾配を測ったといいます。 このように苦労したものの、出来上がった水路に十分水が流れないので、工事の監督をした加藤甚兵衛が捕えられました。加藤甚兵衛は牢舎にあって水路の途中に滝をつくることを考えつき、意見を述べて牢を出され、現在の堀口(志波姫町)に大滝を造りました。滝をつくったところようやく水が流れ出し皆歓声をあげて喜んだと言われています。 この大滝は現在の水路に今も残っています。 この堰は伊豆野の新田開発が目的であったことから、伊豆野堰と呼ばれ、正保年間に4年間の歳月を要して全長五里十一丁(21km)、二千町歩余の水田に灌漑する施設として造られ、一万五千石(2,250t)の収穫が得られたと記録されています。 以来、伊豆野堰は今日にいたるまで伊豆野原一帯の栗原郡迫町、築館町、志波姫町、若柳町の水田2,260haに農業用水を送り続けています。 |
伊豆野堰の江払い |
昭和57年に改修された大滝 |
※野谷地:萱、葦等が茂っている原野
※※堰:本来は、河川水を堰上げて用水を取水しやすくする井堰くのこと転じて井堰で取水する用水全体のことをいうことがあり、伊豆野堰とは用水全体のことをさしている。
伊豆野頭首工(現況伊豆野堰)
先人達の想いを未来につなぐ栗原の里 迫川上流農業水利事業
栗原の里を潤しつづけた伊豆野堰の水を守る仕事は、苦労の連続でした。かんばつで水が足りないときには、番水により全ての水田に水が均等に配られるように堰の水を管理し、洪水のたびに流されることを心配した台水門、吉渕水門。
地域の農業が発展していくためには、そのような施設を近代化することが必要でした。かんばつの時も心配なく水が利用でき、また洪水の時も安心して取水できる水門につくり変えることが望まれました。
そして、地元農家の熱い期待に応えて、昭和51年国営迫川上流農業水利事業が着工されました。今、伊豆野堰は迫川本川を堰止め近代的な頭首工※として生まれ変わり、かんがい用水の安定確保のために荒砥沢ダムが完成し、さらに小田ダムの建設が進んでいます。
また、国民に安定した良質な食料を供給するために大区画ほ場整備を中心とした農業生産基盤の整備が必要となっています。
さらに自然に恵まれた栗原の里の田園風景は、地元の人のみならず都会に住む人のやすらぎといこいの場として国民共有の財産として受け継がれています。
そのために伊豆野堰の水路を流れる水は、むかし、今、そして未来へと流れていくことでしょう。
※頭首工とは:
湖沼、河川などから用水路へ必要な用水を引き入れるための施設。普通、取水位を調整するための取水堰、取入れ口およびそれらの付帯設備から構成される。
伊豆野頭首工 |
吉渕水門 |
川村 孫兵衛長崎においてヨーロッパの学問を習得した技術者。当時の測量技術では取入れ口からの高低差がつかめなく、闇夜に提灯を用いて川筋を決めるなど、5年の歳月をかけ苦心の末にほぼ現在の形に完成させた。 加藤 甚兵衛伊豆野堰開削の指揮役を務めた。莫大な賦力と幾多農民の血と汗によって完成させ、現在の栗原耕土と呼ばれ「ささにしき」、「ひとめぼれ」の穀倉地帯を形成する礎となった。 |
田園風景 |
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