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東海農政局

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濃尾用水の歴史(濃尾用水拾余話)

濃尾用水拾余話(のうびようすい じゅう よわ)

新濃尾農地防災事業所では、濃尾用水に関する余話(こぼれ話)を10話まとめた冊子「濃尾用水拾余話」を作りました。
ここでは、そのテキスト版を紹介します。

濃尾用水拾余話

【目次】

  

第一話 平安歌人の用水 ~大江用水~ 

昭和初期の大江用水

昭和初期の大江用水。約1000年を経た現在も宮田用水として大きな役割を果たしています。
(写真提供:水土里ネット宮田用水)

やすらはで  寝なましものをさ夜ふけて
かたぶくまでの月を見しかな

百人一首でも名高い赤染衛門は、紫式部や清少納言とともに平安中期を代表する女流歌人です。彼女は、尾張国司であった夫の大江匡衡(おおえまさひら)とともに尾張の国へ三回も赴任しています。匡衡は藤原道長に重用された一流の漢学者であり、歌人としても名を残しています。

彼が尾張の国(当時の役所は今の稲沢市)に赴任したのには、厄介な背景がありました。

前任の国司である藤原元命(ふじわらのもとなが)が水路の改修費を着服したらしく、洪水や飢饉時に何も手を打たなかったとのことで、郡司や農民が元命の停任を求める嘆願書を出しています。その後釜として赴任したのが匡衡でした。

彼は、その争議の根源は用排水の不備であるとして、当時、木曽川の支流であった河川を改修、今の江南市宮田から水を引き込み、一宮市、稲沢市を南下し、蟹江川となって伊勢湾に流れ込む一大用水を作りました(1001年) 。ここで初めて利水・治水の便を得られた農民は、この業績を称えて「大江用水(現在は宮田用水)と名づけたとあります(『宮田用水史』)。

真偽は定かではないとする説もありますが、当時すでにこの地方には大規模な灌漑用排水路の工事が行われていたことは確かなようです。

彼は「今年、洪水に遭い大旱に遭う、国衰ふとも治術少し」と熱田社願文に書いています。また、この地でこんな歌も詠んでいます。

しずが男の  種干すという春の田を
つくりますだ(真清田神社)の神にまかせん

農民の怠慢を嘆いた歌のようですが、いずれにしろ匡衡は農業施設に熱心な官吏であり、また「尾張学校院」を建設するなど、都の文化を伝えた赤染衛門ともども尾張での足跡は大きく、在地豪族に大江氏を名乗る者も出ています。

現在も、国府宮市松下には、赤染衛門ゆかりの場所に、二人の歌を詠んだ歌碑公園が造られています。
さて、話はこの大江用水の頃に戻ります。


当時の尾張平野は、今とは似ても似つかず、やや大袈裟に言えば木曽川の一大氾濫平野でした。匡衡も嘆いているように、ほぼ毎年のように洪水や大干ばつが繰り返され、古書にも「去んぬる文永年中(1264~75年)、炎旱日久しくして(中略)美濃・尾張殊に餓死せしかば、多く他国へと落ち行きける」(『沙石集』)などと尾張の惨状が描かれています。

尾張平野ばかりではなく、美濃も木曽川の一大氾濫原野でした。濃尾平野の歴史の大半は、木曽川との戦いの歴史でもありました。

第二話 木曽三川の宿命 ~今も続く地殻変動~ 

濃尾平野の鳥瞰と東西断面図

濃尾平野の鳥瞰と東西断面図

貝塚爽平他『日本の平野と海岸』
(岩波書店)より転載(一部加筆)

 

各河川の流量平均値
(流域100平方キロメートル当り)

各河川の流量平均値

(m3/sec)

資料)伊藤安男「輪中地帯とその特質」岐阜県博物館『輪中と治水』より。数値は建設省データ

 

木曽川河口の右岸にある長島温泉の湯は、地下1000~1600mから汲み上げられています。この湯は数百万年前に形成された東海層群という地層(左図参照)に閉じ込められていた湖の水が温められたものであると言われています。

この東海層群は、名古屋東部の台地や猿投山方面で隆起し、木曽川の河口(西側)方面では沈降するという傾斜した地殻運動を今も続けているらしく、濃尾震災(明治24年)の前後10年では、東の各務原台地では77cmの隆起に対して、西の揖斐川左岸では30cmの沈降が生じています。

現在は1年間に1~2mm程度のゆっくりしたペースですが、いずれにせよ、この地殻運動が木曽川や長良川を西へ西へと追いやり、養老山脈に沿って流れる揖斐川と三川が合流するまでに至ったというわけです。

加えて、三川ともわが国の主要河川では突出した流出量を持っています。

流域100平方キロメートル当りの年間平均流量では、三川とも利根川の2倍以上(左図参照)。この三川が合流しては堪りません。この平野は古代から日本でも有数の洪水常襲地帯でした。ようやく水害が減少するには、明治の木曽川下流改修工事まで待たねばならなかったのです。

しかし、大江匡衡の頃の木曽川は河道定かならず、犬山扇状地あたりから七筋ともいわれた派流が尾張平野を乱流し、平野は文字どおり氾濫原として毎年のごとく氾濫を繰り返していました。

ちなみに、この木曽川は木曽山地との物資交流が意識されるまでは、鵜沼川、尾張川、美濃川などと呼ばれていました。

藤原道長の無量寿院建立(1019年)の頃から木曽の美林が注目され始め、伊勢神宮の用材としても利用されるなど、この暴れ川は、農業用水よりもむしろ木材の搬送路として価値を高めていったと推察されます。

その後、天下を掌握した豊臣秀吉は、木曽を自分の蔵入地とし、木曽の山と川の一元的支配を図りました。彼は1594年、木曽川の改修工事を行い、ほぼ現在の流路に固定します。

大阪城や淀城の建設で木曽ひのきの需要が急増し、輸送力の強化が必要になったためでしょう。木曽川という名称が固定するのは、この頃からだといわれています。

やがて政権は徳川に移り、家康はこの秀吉の蔵入地をそっくり自分のものにします。

そして、家康は、濃尾平野の歴史を一変させる、とてつもない大工事を施したのです。

第三話 御囲堤(おかこいづつみ)の功罪 ~美濃の不文律~ 

御囲堤と輪中分布図(明治改修以前)

御囲堤と輪中分布図(明治改修以前)。木曽川、長良川、揖斐川の流れが錯綜し、輪中のかずは80余りあった。(出典:水資源公団他『木曽川水利史』)

家康は尾張を自分の直轄地とし、九男徳川義直を尾張藩主にします。

そして、伊奈流川普請(かわぶしん)の元祖・伊奈忠次に命じて造らせたのが、犬山から木曽川河口にいたる約50kmの巨大な堤防、通称「御囲堤(おかこいづつみ)」でした。名のとおり、尾張平野を木曽川左岸沿いにぐるりと堤防で囲んでしまったわけです。我が国の治水史上特筆すべき連続堤といわれています。

慶長13年(1608)からわずか2年で完成。そして、木曽木材の大量運搬によって名古屋城や城下町の建設がはじまり、それまで尾張の中心であった清洲を町ごとごっそり移転させました(「清洲越し」)。

いわば、近世の大都市・名古屋は、この「御囲堤」とともに誕生したことになります。

もともと尾張は、木曽川の氾濫原が造った肥沃な大平野です。洪水さえこなければ、これ以上農業に適した地はないと言ってもいいでしょう。

しかし、家康の意図は、やはり木曽材運搬路の確保にあったようです。大阪城が陥落すると、木曽の山々と木曽川右岸の要衝である美濃四群を義直に加増し、さらにその後、美濃十三群も尾張領としています。これにより木曽ひのきの伐採から運搬、他の領地からの運材や通船に至るまで、尾張藩による木曽川の独占的支配が可能となりました。

さらに、この堤防は巨大な砦として、西国大名に対する強固な防衛線としての役割も持っていました。東海道はこの御囲堤と木曽川で完全に分断され(橋も無かった)、明治に至るまで、尾張より西国への往路は、桑名と熱田を結ぶ「七里の渡し」しかなかったわけです。

さて、このように「御囲堤」は、徳川政権の強化、あるいは尾張62万石の確立に絶大な役割を果たしました。
しかし一方で、この「御囲堤」の建造は、木曽川右岸、つまり美濃側における悪夢のような300年間の始まりでもあったのです。

約9000平方キロメートルという広大な流域と日本有数の流出量を持つ木曽三川は、河口近くにおいて養老山脈と御囲堤の間、わずか数kmの狭窄部に閉じ込められてしまったのです。まるで漏斗の出口のようなものです。

さらに美濃側には、約300年にわたって、誰が言ったとも知れぬ史上名高い不文律(ふぶんりつ)が伝承されてきたのです。

曰く、「美濃の諸堤は、御囲堤より低きこと三尺たるべし」

第四話 国内無類の輪中地帯 ~水との死闘~ 

 

表*:御囲堤の建造(1609)
**:宝暦治水工事(1755)
資料)伊藤安男「輪中地帯とその特質」(岐阜県博物館『輪中と治水』)より
表については、「往昔以来木曽川流域洪水年月被害形況」「岐阜県治水史」「岐阜県災異誌」「愛知県災害史」より伊藤安男氏の作成。

 

美濃側の堤防は、尾張側より約1m低くせよ。この差別的治水策を実証する資料の類は見つかっていません。

しかし、左の表が木曽三川をめぐる状況を物語っているのではないでしょうか。

前述した地殻変動のせいで、この三川の河床は木曽川が最も高く、ついで長良川、揖斐川と低くなっています。

木曽川の流れは、南進するあたりからすでに長良川、揖斐川と入り乱れて、それぞれの支派流が錯綜し、あたかも荒いレース網目のような模様を呈しています。

そして、これらの川に囲まれた島とも中洲ともつかぬ土地がいわゆる輪中地帯。明治の頃にはその数80余り、面積にしては約1800平方キロメートル、今の大阪府に匹敵する広さでした。

各々の輪中は周りを堤防で取り囲み、それぞれの島の水防・水利共同体を形成していました。このような例は、国内外を問わずほとんど類を見ないといわれています。

輪中が形成されたのは江戸時代初期、当然のことながら、「御囲堤」の後、急増しています。いわば「ミニ御囲堤」ということになります。

そして、この輪中地域の開発面積が増えれば増えるほど遊水地や河道は狭められ、さらに水害が増すといった悪循環を繰り返していくことになります。また、山からの土砂が年々河道に堆積し、次第に輪中内より河床の方が高くなっていったのです。
輪中内の農民は絶えず悪水(田の排水)に悩まされ続けました。悪水の停滞によって作物は根腐れを起こし、せっかく開発した新田も耕作不能な低湿地と化していきます。

そして、いったん破堤すれば、言うまでもなく輪中の中は生地獄と化しました。その生地獄が御囲堤ができてからの300年間(1600~1900)に298回も繰り返されたことになります。

 
堀上げ田と潰れ田

輪中地域独特の景観である「堀上げ田」と「潰れ田」。湿地帯では地下水位が高いため、沼の土を短冊形に掘り、田に積み上げた。積み上げられた田を「堀上田」、彫ったクリーク状の池沼は「潰れ田」と呼ばれていた。(岐阜県博物館『輪中と治水』より転載。撮影は河合孝氏)


水屋建築

水屋建築。水害から家屋を守るため高い石垣を築いている。輪中地域の代表的な建築。もっとも、こうした家を持っていたのは豪農クラスである。一般の家では避難用の船を軒先に吊していた。(岐阜県博物館『輪中と治水』より掲載。撮影は河合孝氏)

第五話 藩直営・宮田用水 ~水奉行制度~ 

昭和初期の宮田用水

昭和初期の宮田用水
(写真提供:水土里ネット宮田用水)

 宮田用水の幹線水路網

宮田用水の幹線水路網

 

水路の改修工事風景
 水路の改修工事風景。洪水のたびに取水口が破壊され、修復には莫大な費用と労力が要求された。特に、般若用水の取水口は通算4度も位置を変えている。(写真提供:水土里ネット宮田用水)

「御囲堤」の築造は尾張側でも大きな混乱を招きました。それまで尾張平野に流れ込んでいた木曽の派流、五条川、青木川、野府川などが締め切られ、それらの川に依存していた約5000haの水田が水源を失うことになります。

そこで、伊奈忠次は、堤防の完成とともに大野村に杁(いり:堤防に造られた水門)を設置し、平安以来の大江用水につなげました。そして、上流の岩手村にも杁を造り、般若川を般若用水として整備します。さらに、その後、新般若用水なども整備されました。

しかし、木曽川は河道の変動が激しく、絶えず澪筋(雨のないときでも水が流れている川筋)が変わったり、杁付近に土砂が堆積して取水が困難となります。やがて大野杁は宮田村の宮田西杁へ移り、般若用水も水量不足のため、宮田村に取水口(東杁)を設け、新般若用水を開削しました。ここに現在の宮田用水の原型が完成されることになります。

「寛文覚書」(1670年)によると、当時の宮田用水は、335村、水利施設2170ヶ所、用水と交差する橋は大小とりまぜて747に達するという広大な範囲を潤していました。

また、数十年後には後述する木津(こっつ)用水や新木津用水が開削され、これらの用水は、旧河道や排水路などと組み合わされ、1世紀におよぶ様々な軋轢、調整を経て、複雑な水利ネットワークが形成されていきました。

これらの用水はすべて尾張藩が建設し、分水管理も藩が運営していました。これは幕府直轄の見沼代用水(関東平野の大用水)とともに日本では例の少ない藩主直営の用水でした。

注目すべきは、藩の初期に「水奉行(みずぶぎょう)」という制度があったことです。江戸時代の地方支配は、郡奉行→代官→庄屋という構造となっていましたが、水奉行は、郡奉行の上座に位置する重要職であり、強い権限を持っていたようです。

藩直営の用水とはいっても、広大は尾張平野を潤すにはとても水量が足りず、また、当時は素堀りの土水路ですから漏水も多く、いたるところで水不足が生じていました。これらの紛争を解決する水奉行には大きな権限が与えられたものと推察できます。

したがって、水利体制が確立される1700年代に入ると、水奉行は閑職化していき、代わって水利普請などを担当する「杁奉行」が新設されています(1724年)。

また、各用水の要所には、「水役所」なるものが設置され、雑草の繁茂など平素の水管理と見回り、水位の変化や洪水時に備えた対策、用水不足等の調整、田植えから稲刈りまでの情報管理といった、現在の土地改良区とほとんど同じ仕事をしていたようです。

この「水役所」の事務は、明治後、愛知県庁土木課が引継ぎ、明治14年の水利土功会まで継続されました。現在は同じ仕事を土地改良区(水土里ネット)が行っています。

尾張藩は、たびたびの緊縮財政に見舞われたにもかかわらず、四公六民という年貢徴収率を変えず、明治にいたるまで農民からの年貢の増徴を行っていません。そのせいか、尾張は、百姓一揆の発生していない地域として有名です。

もともと土地が肥沃だったこともあるでしょうが、こうした藩による緻密な水管理がその豊かさを支えてきたと言ってもいいのではないでしょうか。

第六話 木津用水と入鹿池 ~六人衆の功~ 

 

入鹿池全景

入鹿池全景。池の左側が堰堤。その上が明治村。写真:『入鹿池史』より転載)

  

木津用水路の取水口

木津用水路の取水口
(写真提供:水土里ネット木津用水)

 

 昭和初期の木津用水

昭和初期の木津用水。五条川との分岐地点。(写真提供:水土里ネット木津用水)

 

木津用水取水口付近の修復工事風景

木津用水取水口付近の修復工事風景(写真提供:水土里ネット木津用水)

 

尾張藩の豊かさを決定付けた要因として、もうひとつは新田開発があげられるでしょう。

江戸時代の初期には、どこの藩も新田開発に力を入れていますが、尾張藩の新田石高は丘陵地の開発と海面干拓をあわせて実に約30万石。大藩の石高に匹敵する途方もない量です。

宮田用水の整備によって、領内の水利網は一応の完成をみましたが、まだまだ尾張平野東部の小牧原一帯には広大は未開の洪積台地が残されていました。

その口火を切ったのが入鹿池の築造による1000町歩余りの開田です。

提唱したのは江崎善左衛門(ぜんざえもん)など地元の郷士(戦国浪人)六人衆。彼らは入鹿村の地形に注目し、四国の満濃池に匹敵する巨大なため池の築造を計画し、藩に開発願いを出します。藩祖・義直は鷹狩にことよせてこれを検分し、許可すると同時に藩の開拓事業として強力な援助を与えることになりました。

しかし、工事は杁とは比較にならないほど難しく、とりわけ「棚築き」と呼ばれる最終工事の締め切りに苦労し、やむなく河内の国から堤防造りの巧者・甚九郎を呼び寄せて工事にあたらせたそうです。

余談ですが、その工法は堤防の締め切り場所をできるだけ狭め、そこへ松の木でできた仮橋を渡して油を注ぎ、さらに松葉や枯れ枝を敷いた上に大量の土を盛り上げ、最後に橋に火をつけるというもの。橋が燃え落ちると同時に、その上の土盛も落下し、締め切りは完了するという仕組みです。

堤の長さは約180m、高さ約26m。甚九郎の功を称えて「河内屋堤」とも呼ばれていました。

入鹿池は明治の初期に大決壊を起こしましたが、現在も現役であり、農業用ため池としては、満濃池にほぼ匹敵する日本第二位の貯水量を誇っています。

入鹿池によりこの地域の開発が進み、この同じ六人衆は今度は、木曽川からの取水を計画します。

犬山の東、木津村にて木曽川堤に杁を築き、幅3.6m、長さ11kmの大用水・木津用水(1648年)の開削です。この用水による当時の新田開発高は46000石余りと記されています。

さらに彼らは、1664年、この木津用水を途中で分水し、東方面の台地を潤す延長約15kmの新木津用水を開削します。新田高は8600余石。

六人衆の事績には目を見張るものがありますが、『木津用水史』では、こんな興味深い考察も見られます。これらの新田開発は、すべて義直を中心とする藩の構想であったが、当時幕府の隠密政策を慮(おもんばか)って、民衆の主導になる事業としたというものです。

同用水史は、土佐藩を例にあげ、彼らと同様の功績を上げた家老・野中兼山すら幽閉せざるをえなかった土佐藩の悲劇を述べています。確かに当時は、城を築けば大工の棟梁を斬り、治水土木の責任者には詰腹を切らせて秘密の漏洩を図った時代でした。

六人衆は当時から開拓の功労者として、六本の石柱となって入鹿池のほとりにたたずんでいます。

 

さて、尾張藩の新田開発の最たるものは、なんと言っても海面干拓でしょう。

名古屋市の熱田区、港区、中川区、南区の一部、さらに弥富町、十四山村、飛島村、三重県の木曽岬町といった広大な区域は、すべて江戸時代の干拓によって生まれた大地です。その面積は約5000ha(児島湖の干拓で有名な備中池田藩の干拓面積に匹敵)。

藩直営の熱田新田(500ha)では、用水として名古屋市内を流れる庄内川から引いてきています。しかし、庄内川は流域面積が狭く用水量が不足するため、木津用水の流末を庄内川に入れることを狙って計画されています。

このように、庄内川以東の干拓は、木津用水を通じて木曽川の水を渇水の補給水として確保しています。また、庄内川以西の干拓地では、宮田用水系の流末と関連した用水を使用しています。

いずれにせよ、名古屋港近くの干拓地が、はるか数十kmも北にある宮田・木津の恩恵を受けているわけです。これはこの地域の水利ネットワークがいかに緻密であったかを物語っていますが、同時に、尾張は木曽川の恩恵を余すところなく享受してきた地域であったとも言えるでしょう。

一方、木曽川の右岸、つまり美濃の輪中地帯では、尾張とは全く対照的な歴史を歩んできました。

一本の川の右岸と左岸でこれほど歴史に違いのある地域は、他のどこを探しても見当たらないのではないでしょうか。

第七話 壮絶・薩摩義士 ~三川分離の苦闘~ 

昭和初期の木津用水

木曽三川公園千本松原にある治水神社。総奉行平田靭負が祭神。また、工事の犠牲者となった薩摩藩士80余名も境内の治水観音堂に祭られている。昭和13年、地元の人々によって創建された。

木津用水取水口付近の修復工事風景

宝暦治水、油島締切堤の跡。旧堤防の跡には、薩摩藩士が植えたという千本松原が並木を作っている。左が長良川、右が揖斐川。

 

我が国の治水史上最大の悲劇と呼ばれる宝暦治水。

家老・平田靱負(ゆきえ)を総奉行とする薩摩義士約350名の壮絶な闘いぶりはあまりにも有名です。

当時の文献では第一期工事は、堤の切所・崩所・欠所の築立、堤上置、外腹付、内腹付、洩水(えいすい)切返し、猿尾(川の勢いを弱めるために設けられた細長い小堤)欠所築立、上置、砂浚え、蛇籠、柵、石堤、まき石、根杭等・・。

第二期は、大榑川(おおくれがわ)の洗堰、油島の締切堤防、洲浚え、切広、堀割、猿尾築立、猿尾継足、籠猿尾、水刎杭出、堤上置、腹付、蛇籠、まき石、築流堤、砂留、埋立、砂利留、圦樋普請、悪水堀、投渡橋、田畑堀上堀等(いずれも当時の用語)。

工事は美濃141ヵ村、尾張17ヵ村、伊勢35ヵ村におよび、修理した堤防の延長は実に112km。

宝暦四年(1754)二月に着工し、同五年五月に完成。これだけの工事をわずか一年と一ヶ月で成し遂げたとあります。想像を絶する過酷さだったといわれています。

それだけに犠牲もまた激しいものでした。切腹した者51名。赤痢により157名が倒れ、病死33名、かかった費用約40万両(現在の金額で約300億円)。

木曽川史上、空前絶後の大工事。川と人間の死闘といっても過言ではないでしょう。

幕府は木曽三川の工事で都合、16回の「御手伝普請」(幕府が他の藩に命じて請け負わせた治水などの工事)を全国の大名に命じています。

しかし、木曽川と揖斐川の水位差は約2m。三川を分流しないことには、その根本的解決は望めなかったのです。大榑川の洗堰と油島の締切堤防。この難工事に挑んだのが、薩摩義士の宝暦治水でした。

「御普請所  御めでたく成就  御検分滞りなく相済み(中略)まずは頂上の儀に存じ奉り候」。家老・平田靭負はそう国許に書き送ると、自ら腹を切り、52歳の生涯を閉じました。

この工事によって恩恵を受けた村は329ヵ村におよんだとされています。しかし、様々な輪中間の利害関係から完全な分流とまではいかず、上流では、大榑川の洗堰によって長良川の水位が上昇し、逆に水害が増した地域も出ています。

岐阜県の柳津町では、畑繋(はたつなぎ)堤の史跡も残されています。

長良川の水位が上昇したにもかかわらず堤防の築造が認められなかったため、親子三代にわたって徐々に畑を土盛し、ついには畑と畑を繋ぐ延長1.6kmの堤を造ったというものです。今もこの堤防の跡地には、村のために戦った4人の義人と、命を賭して築造を許可した名奉行・酒井七左衛門を奉る畑繋堤神社が建っています。

他にも、輪中の各地に残された悲話は、数限りなくあります。

徳川御三家筆頭・尾張藩62万石。対して右岸は小藩入り乱れて、最大の大垣藩が10万石(大垣輪中)。

三川の狭窄部には、川の水ばかりでなく、封建時代の濁流も渦を巻いていたようです。

第八話 美濃側の決起 ~羽島用水の建設へ~ 

羽島用水の旧水路

羽島用水の旧水路
(写真提供:水土里ネット羽島用水)

県営羽島用水の旧頭首工

県営羽島用水の旧頭首工。昭和41年に撤去された。(写真は『羽島用水のしおり』より転載)

 羽島用水・水神神社

濃尾用水完成後の昭和52年に建造された羽島用水・水神神社。
(写真は『羽島用水のしおり』より転載)

木曽川右岸に設置された羽島用水の取水口

木曽川右岸に設置された羽島用水の取水口。

(写真提供:水土里ネット羽島用水)

明治に入ると、この地域からは木曽川の地下水が吹き上げるように激しい治水論が沸き起こってきます。寺の住職高橋示証(じしょう)は詳細な調査を踏まえて『木曽川筋治水ノ儀ニ付建言』を上奏、庄屋・片野万右衛門、山田省三郎、金森吉次郎らは私財を投げ打って治水に取り組み、「治水共同社」も設立しました。

政府は、オランダ人技師のデレーケに調査を依頼し、ようやく明治20年から木曽川改修工事が始まります。狙いは言うまでもなく三川分流でしたが、濃尾震災や日清戦争などもあり、完成は大正元年(1912)にまで持ち越されました。着工から25年をかけた大事業でした。

これまで洪水の恐怖に脅えるばかりで、木曽川から水を引くなどとは思いも及ばなかった美濃側の農民でしたが、ここにいたってようやく「木曽川は岐阜県の川であったことに気付づき」(『羽島用水』)、大正14年、利害の対立していた輪中同士が総会を開き、木曽川からの導水を図る県営羽島用水事業を実施する運びとなりました。

それまで輪中の上流地域では、ため池や旧木曽本流であった境川から乏しい水を塞き上げたり、中流地域では水源もなく掘抜井戸や堤防からの浸透水に頼るといったありさまでした。

取水口を巡って宮田用水との確執もありましたが、昭和4年に着工、同7年には水路延長11kmの大用水が完成するに至りました。

「ここに幾世紀かにわたり多くの人命財産を奪われ、鬼畜の如く恐れ恨んだ木曽川の水が、今、黄金水にも等しい恩恵に浴する農民の歓喜は、まさに涙ぐましい光景であった。」(『羽島用水』)

しかし、それも束の間のことでした。洪水に代わる新たな厄難が、今度は上流からやってきました。

第九話 水利の第再編 ~工業化社会との軋轢(あつれき)~ 

犬山頭首工の堤帯工事風景

犬山頭首工の堤体工事風景(昭和33年頃)

 

完成した犬山頭首工

完成した犬山頭首工

 

平野

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (C)Product/Geoscience Agency / ARTBANK / image((承認番号 平9総使 第53号より一部転機)

「時あたかもまれに見る全国的大旱魃に際会し、(中略)営利会社は重ね重ね理をつくしての懇請かつ協約を無視して、突如新設ダムを締め切り、以来4昼夜にわたり、ほしいままに断水をあえてし、濃尾平野百万石の美田を涸渇せしめ、独り十数億立方尺の水をろう断する破天荒の暴挙を敢行したのである」(『宮田用水史』)

大正13年8月、木曽川に全国で最初のダム式発電所(大井発電所)が完成し、同発電所は、同月16日から木曽川の流れを止め、ダムの貯水を行ったのです。

これが工業社会との水をめぐる軋轢の始まりでした。

 

小牧あたりの台地では昔から桑園が広く分布し、尾西地方は日本有数の綿作地帯でした。これを利用した織物業は、尾張のいわば伝統的産業であり、大正から昭和に入ると、一宮を中心とする毛織物業は全国生産の4割を占めるまでに成長し、愛知は一大繊維織王国を築くことになります。

工業化は、当然のことながら電力開発を伴います。木曽川の豊富な水量を狙って発電ダムの建設ラッシュが始まりました。そのために木曽川の水位は、毎日4、50cmも変化し、農業用水の取水に甚だしい支障を来すようになったのです。加えて、上流からの土砂の流出が止まり河床はどんどん低下していきます。各用水とも、取水口や導水路の修理に莫大な労力と出費を強要されました。

農業と工業の川をめぐる深刻な対立は次第に激しくなり、その調整には数十年を費やしています。

飛騨川と木曽川が合流する地点には、均等放流を図る今渡(いまわたり)調整池(昭和14年)も建設されましたが、満州事変から太平洋戦争へと戦局が拡大するにつれ、電力は戦力として、この調整池すら中京財界が発電を兼ねさせ、均等放流は有名無実となってしまいました。

この問題を解決するためには、数百年に及ぶ木曽川水利の再編と近代化が不可欠でした。

昭和26年、国は木曽川の総合開発の一環として、犬山の地に近代的施設を持った頭首工を建設し、宮田、木津、羽島、さらに下流の佐屋川(さやがわ)用水の各取水口を統合する大規模な計画を立てました。

しかし、300年にわたってお互いに敵視してきた用水です。宮田用水は自費で取水口変更の大工事を行ったばかりであり、佐屋川用水はあまりにも導水路が長くなり過ぎ、また、残り水しかもらえないという理由で撤退。国の再三再四の説得にようやく三用水の合意がまとまったのは昭和29年のことでした。

 そして同32年、犬山頭首工の建設と各幹線水路(総延長43km)の改修を図る大事業・国営濃尾用水農業水利事業がスタートしました(完成は同42年)。

ここに至って、ようやく濃尾平野は、名実ともに「御囲堤」の呪縛から開放されたことになります。

一方、この濃尾用水事業と平行して、木曽川ではもうひとつの超大型プロジェクトが進行していました。愛知用水です。

木曽川から山を越えて延々112kmの水路を引き、知多半島の先端まで水を引く。日本が初めて世界銀行からの融資を受け、アメリカ人技術者の指導のもとに公団事業として行った大事業でした。

木曽川の水が他の流域に流れる―――これも歴史始まって以来のことであり、下流域の農民にとっては忌々しき事態でした。

さらに尾張の干拓地では、186平方キロメートルにおよぶ広大な地域で1mもの地盤沈下が発生するという深刻な事態が発生していたのです。工業化の進展と都市化による過剰な地下水(木曽川の涵養水)の汲み上げが原因でした。

人間社会の変貌は川の流れを変え、川の流れはまた、歴史の流れを変える。濃尾平野と木曽川は、まさに表裏一体であることを教えてくれます。

第拾話 次世代の水利資産 ~新濃尾農地防災事業~ 

新濃尾地区計画概要図

新濃尾地区計画概要図

さて、木曽川と濃尾平野をめぐる歴史の断片をいくつか紹介してきました。

現在、この地では、国営総合農地防災事業が進められています。先の濃尾用水事業が完了してから30年の歳月が流れ、各施設は老朽化による機能の低下が目立ってきました。

犬山頭首工の補修、宮田導水路9.8km、木津用水路3.9km、羽島用水路18.1kmの改修を行っています。さらに都市化によって降雨に対する流出量が増大しているため、大江排水路16.7kmの改修を行っています。

各用水路のパイプライン化(地中埋設)される箇所は、公園や緑道として整備される予定です。

尾張平野は都市化が進行し、かつて命がけで守った水路の存在を知る人も少なくなりました。しかし、約1000年の歴史を持つ大江用水は、今も流れを変えることなく尾張平野を潤しています。

今も木曽川の水は、あたかも血管の如く、この広大な濃尾平野の生命を支えています。

おそらく100年後、200年後も、この川と平野のかかわりは絶えることなく続いていくでしょう。

そして、今現在、私たちの気付かない新たな川の危機が深く進行しているかもしれません。

ひのきをはじめ多くの木材を生み出した木曽の美林は、かつてのような需要は望めそうにありません。山が荒れれば、当然のことながら、その影響は川にもあらわれます。

地球の温暖化や近年の少雨傾向も、予測できない事態を引き起こす前触れかもしれません。

そして何より、農業の衰退は、ひょっとしたら取り返しのつかない事態を招いているのかもしれません。

その危機は、おそらく私たちが木曽川の歴史を忘れた頃やってくるに違いありません。

御囲堤は姿を消しました。輪中の面影も今では探すほうが難しくなってきました。宝暦治水の堤防跡には、薩摩藩士が涙ながらに植えたという千本松原が美しい並木を作っています。

1000年に渡り営々と先人が築き上げてきた、この平野のかけがえの無い水利網。

遺すべきではないでしょうか――――次世代の濃尾平野に。

大江排水路
大江排水路(宮田用水)


羽島用水路
羽島用水路

木津用水路
木津用水路

参考文献

『宮田用水史』宮田用水普通水利組合

『宮田用水史・新編』宮田用水土地改良区

『木津用水史・改組編』木津用水土地改良区

『入鹿池史』入鹿用水土地改良区

『蘇北排水改良』岐阜県蘇北普通水利組合

『羽島用水改良』岐阜県羽島郡中部普通水利組合

『畑繋堤に関する郷土誌』羽島用水土地改良区

『木曽川水系農業水利誌』(社)農業土木学会

『岐阜県耕地事業沿革史』岐阜県経済部

『岐阜県土地改良史』岐阜県農政部農地計画課

『木曽川用水史』水資源開発公団・愛知県・海部土地改良区

『輪中と治水』岐阜県博物館

『尾張の大地』吉川博

お問合せ先

新濃尾農地防災事業所調査設計課

電話:0586-47-7720

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