約560年間の新田開発(現在の干拓)により、現在の地形が作られた
今から750年前(室町時代)から米の増産をめざして、海や沼を開拓して新田開発を始めました。
江戸時代に入ると矢作川の洪水被害を防ぐため、矢作川新川が開削され、河口部の碧南市や西尾市でも新田開発がさかんに行われ、明治時代の後半(1900年代)には今の海岸線のほぼ原形ができました。
約300年間かけて、ほぼ全域に用水が引かれた
この地域で初めてつくられた用水は、江戸時代はじめ(1603年)に開削された占部用水です。以降、矢作川(新川)や矢作古川から水を引く用水の開削が次々と行われ、明治時代の中頃(1890年)には矢作川用水地域のほぼ全域にわたって26ヶ所の用水がつくられました。
水不足と矢作川の河床低下の進行
この地域は、川の水が少ない干ばつ地域でありましたが、そのうえ昭和30年代からの高度経済成長期の建設ブームや伊勢湾台風の災害復興などにより矢作川の砂が大量に使用され、矢作川の河床低下が進行しました。
このため、矢作川からの用水取水が困難となりました。
「矢作川用水」が誕生する
国(農林水産省)は、この地域の用水不足を解消するため、巴川の上流に羽布ダムの建設(昭和38年(1963)完成)を行い、引き続いて、矢作川沿いに分散する28ヶ所の取入口をまとめて取水する堰(細川頭首工)や用水路を新しく作る工事を昭和54年(1979年)に完成しました。
この28ヶ所の用水を統合してできた新しい用水が「矢作川用水」です。
今では、水道用水にも利用され、この地域にとって欠かせない重要な役割を担っています。
|