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中国四国農政局

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    四国東部農地防災事務所

    5.主な文化遺産

    藍(あい)商屋敷・奥村家住宅 十三棟

    江戸時代から明治40年代(1907~)にかけて、 阿波(あわ)の経済を支え続けたのは藍づくりでした。 藍住(あいずみ)町一帯は、その中心地として栄え、白壁(しらかべ)に囲まれた壮大な藍師(あいし)の屋敷が立ち並んでいたといいます。阿波の藍づくりは、明治の末には、輸入の化学染料に押され衰退していきましたが、今でも藍住町では、盛時を偲(しの)ばせる藍師の屋敷をあちこちで見ることができます。中でも阿波藍の最盛期を想像させる壮大な屋敷が「奥村家住宅」です。

    現在の奥村家住宅は、屋敷と資料館を合わせて「藍の館」と呼ばれています。奉公人部屋、葉藍(はあい)の寝かせ込み作業を行った寝床、贅(ぜい)を尽くした西座敷、北・中・南の各土蔵(どぞう)、湯殿(ゆどの)・便所など十三棟を残しており、県の文化財にも指定されています。屋敷内には、資料館も設置されており、藍作(あいさく)農具や古文書などを展示しているほか、藍染めを体験することもできます。

    【写真】奥村家住宅

    【写真】奥村家住宅

    写真提供:(財)徳島県観光協会

    霊山寺(りょうぜんじ)

    徳島は、四国八十八ヶ所霊場参り(遍路(へんろ))の巡礼地としても知られていますが、鳴門(なると)市にある竺和山(じくわさん)・霊山寺は、この第一番札所です。四国八十八ヶ所霊場参りは、 弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい) ゆかりの巡礼で、平安時代、かつて四国を修行の場とした大師が入定した後※、修行僧らがその足跡を辿って旅を始めたことが始まりといわれています。

    徳島県には四国八十八ヶ所のうち、二十四か所のお寺があり、十七番寺までが吉野川流域平野にあります。春ともなれば、霊山寺を起点に「同行二人」と書いた菅笠(すげかさ)姿のお遍路さんをあちこちで見かけることができます。このあたりは室町時代の細川氏から戦国時代の三好(みよし)氏、蜂須賀(はちすか)氏にかけて、阿波の一大拠点であり、早くから交通路がひらけていたため、遍路の往来も盛んでした。

    なお、西国(さいごく)三十三ヵ所観音霊場(かんのんれいじょう)、熊野詣(くまのもうで)、善光寺(ぜんこうじ)参りなど、同様の巡礼は、江戸時代ごろから庶民の間で流行するようになったといわれています。「遍路」や「お遍路さん」は、四国八十八ヶ所霊場参りだけを指す名称です。

    即身仏となるまで行う真言密教の究極的な修行のひとつ。

    【写真】霊山寺

    【写真】霊山寺

    写真提供:(財)徳島県観光協会

    徳島城

    徳島城は、徳島市の中心部、JR徳島駅のすぐ北側に位置し、国の史跡に指定されています。室町時代、阿波を治めていた細川氏によって築かれた小城が原型といわれ、元々は渭山(いのやま)城(猪山(いのやま)城)と呼ばれていました。その後、戦乱の時代に入ると、城主はしばしば入れ替わり、1582年に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が四国統一を果たすと、その部将が入城しています。

    現在の地に徳島城を築いたのは、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)(蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)の子)です。家政は1585年の豊臣秀吉による四国征伐(せいばつ)で勲功(くんこう)を上げ、阿波を与えられました。ただちに築城にとりかかった家政は、翌年には壮大な城を完成させています。以後、徳島城は、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となりました。

    徳島城は、明治5年(1872)に取り壊され、現在は徳島中央公園として整備されています。復元された鷲(わし)の門を入ると、大手門(おおてもん)の枡形虎口(ますがたこぐち)と、この城最大の太鼓櫓(たいこやぐら)の石垣が現れます。城内に徳島城博物館があり、徳島城の復元模型を見ることができます。

    【写真】徳島城

     【写真】徳島城

    お問合せ先

    四国東部農地防災事務所

    〒779-0105
    徳島県板野郡板野町大寺字王子72-2
    TEL:088-672-5252