1.古代(弥生時代~平安末期)阿波(あわ)は古代、粟(あわ)の国と呼ばれていました。南の阿南(あなん)市あたりが長(なが)の国で、大化の改新の時、両国が合併し阿波国(あわのくに)となりました。 ところで日本にはもうひとつ阿波の国がありました。千葉県房総半島の南端、安房(あわ)の国です(『国造本紀(こくぞうほんぎ)』には房総半島が「阿波」と記載されている)。四国の粟国は忌部(いんべ)(斎部)氏が開いた国とされています。忌部氏は中臣氏(なかとみうじ)と並ぶ由緒正しい部族でしたが、次第に中央では力を失い、四国へ渡って粟の国を開拓したとあります。その後、忌部氏は黒潮に乗って房総半島に進出し、安房(阿波)国を建てたらしく、安房国(あわのくに)一之宮である安房神社(千葉県館山市)にも四国の阿波からの由来が記されています。 余談ですが、安房は良質の麻がたくさん茂っており、総(ふさ)(麻を示す古字)の地がやがて上総(かずさ)、下総(しもうさ)の国名となったといいます。阿波の吉野川中流の南岸にも麻植(おえ)郡、西麻植(にしおえ)、麻植塚(おえづか)、忌部や忌部山といった地名があります。阿波の忌部氏は大嘗祭(だいじょうさい)(天皇即位の神事)に麻や木綿を献上したと言う記録が多く残っています。粟、麻、木綿など、いずれもいわゆる畑作作物です。 一方、隣の讃岐国(さぬきのくに)は古事記にも「飯依比古(いいよりひこ)」の名が記されているように、古くから米の産地でした。讃岐一之宮といわれる田村神社もその名が示すとおり水田との関わりが深く水神様を祀ってあります。 『和名抄(わみょうしょう)』(平安時代)によれば、香川県(讃岐)の水田面積は18,647ヘクタール、対して徳島県(阿波)のそれは3,414ヘクタール(このうち 那賀(なか)郡の水田が半分以上を占めていたと思われる)。ちなみに香川県の面積は約1,883平方キロメートル、徳島県は約4,146平方キロメートル。阿波は、讃岐の2倍以上の広さでありながら、水田面積は5分の1以下しかなかったことになります。後にこの両国の農業のつい近年まで続く地形的宿命のようなものが、すでに神話の時代から予感されていたのでしょうか。 大化の改新後、公地公民制が敷かれ、条里制が施行されます。阿波国は652年に戸籍を作ったとされていますが、吉野川沿いはおびただしい数の洪水に襲われており、条里制の痕跡を探すのは不可能でしょう。 やがて貴族や寺社が荘園(私有田)を持つようになると、この公地公民制は有名無実となりますが、これまで荒地であったところも開発されるようになります。阿波の荘園は、約60あったといわれ、富田荘(とみだのしょう)(春日神社)、津田別納(春日神社)新島荘(にいじまのしょう)(東大寺領)、名東荘(みょうどうのしょう)(後宇多院(ごうだのいん)領)、萱島荘(かやしま)(石清水八幡(いわしみずはちまん)領)一宮荘(皇室領)勝浦荘(高野山(こうやさん)領)、観音寺荘(仁和寺(にんなじ)領)などの名が見えます。荘園に関する記録では東大寺に生糸などを貢いでいたとありますから、開発されたのは畑地が多かったのでしょう。 記録によれば、800年頃からは綿の栽培が始まったとされ、麦作も奨励されています。しかし、米はやはり農民の夢でした。当時、阿波の国司であった山田古嗣(やまだのふるつぐ)は積極的に水利事業などに取り組み、現存する旧池田町の古池、旧土成(どなり)町の浦池(うらのいけ)などを築いたことが伝えられています。 一方、吉野川の洪水に関する最古の記録は886年。洪水が記録されるということは、とりもなおさず人家や田畑が被害を受けたということですから、この時代、吉野川の沿岸や下流地域に、小規模な水田が拓かれていたのでしょう。 【写真】阿波忌部氏が拓いたとされる安房一之宮・安房神社(拝殿) 写真提供:安房神社(千葉県館山市) |
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