2.中世(鎌倉時代~戦国時代)阿波 (あわ)は南海道(なんかいどう)と呼ばれ、奈良は吉野川を経て紀州、淡路(あわじ)とたどる海路でした。また、都が京都に移ってからは上り9日、下り5日(『延喜式(えんぎしき)』)とあります(上りの日数が多いのは荷物を積んでいたため)。ちなみに 讃岐(さぬき)へは上り12日、下り6日。したがって、阿波と 畿内(きない)は古くから深いつながりがあり、国の神社であることを示す式内社(『延喜式』)の数も、讃岐24社、 伊予(いよ)24社、土佐21社に対して阿波は46社と群を抜いています。 それはともかく、公地公民制はほころびを見せ始め、各地で荘園が造られ始めます。荘園によって藤原氏をはじめとする貴族が国政を握るようになり、地方政治は乱れていきます。地方豪族は武士を雇って土地を守りますが、その武士が力をつけ、武門の総領たる源氏・平氏の戦いを経て、鎌倉幕府が成立します。しかし、荘園体制はそのまま存続され、人々は従来の国司、荘官といった朝廷の支配下にありながら、幕府から派遣される守護、地頭の支配をも受けるといった二重体制となり、いさかいの火種は温存されたままでした。この地域には、麻植(おえ)、阿波、名東(みょうどう)、勝浦、海部(かいふ)などに地頭が置かれていました。 蒙古(もうこ)の襲来(しゅうらい)をきっかけに幕府の力は衰え始め、後醍醐天皇を中心とする武士の勢力が結集し南北朝時代を迎えます。やがて、足利氏が天下を治め、阿波は細川氏の支配するところとなります。細川氏は足利一門(あしかがいちもん)の出であり足利義満(あしかがよしみつ)の補佐役も勤めるなど、阿波を中心に勢力を誇った有力な守護大名でした。 応仁の乱後、下剋上(げこくじょう)の世となり、第十代将軍足利義稙(あしかがよしたね)は、管領( かんれい )細川高国(ほそかわたかくに)の専横をいきどおって阿波に移り、上洛(じょうらく) を企てますが果せず1523年、阿波で没します。しかし、義稙はこの地に明治まで続く一門の血脈を残しています。 こうした政治的な動乱が続いた中世ですが、吉野川流域では荘園によってどれだけの開墾がなされたのでしょうか。このことを示す資料は残念ながら残っていませんが、『拾芥抄(しょうがいしょう)』(鎌倉時代)、『節用集(せつようしゅう)』(室町時代)によれば、阿波国(あわのくに)の水田は5,245ヘクタールと記されており、平安期と比べると2,000ヘクタールほど増加しています。しかし開発の大半は南の穀倉地帯・那賀(なか)郡であったと思われます。にわかには信じられないのですが、資料上、この徳島平野には中世の頃でさえ2~3,000ヘクタールほどしかなかったことになります。 しかし、12世紀の終わり頃には二毛作が一般化し、13世紀になると、 阿南(あなん)市から出土した室町時代の古銭2万6千枚が示すように、商品経済が著しく発展し、あちこちで市が開かれるようになります。この地の荘園では、畑作による換金作物の栽培でも充分にやっていけたのかも知れません。 いずれにせよ、細川氏も戦国の梟雄(きょうゆう)三好長慶(みよしながよし)に圧されて力を失い、三好氏は細川氏の居城であった勝瑞城(しょうずいじょう)を拠点に畿内まで勢力を拡大しますが、長慶亡き後、衰弱し、土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏に滅ぼされます(1582年)。 しかし、その三好氏は、阿波に大きな遺産をもたらすことになります。 藍作(あいさく)です。もともと、阿波における藍の起源は阿波忌部氏にさかのぼるといいます(平安時代)。『兵庫北関入船納帳』(1445年)でも、藍が阿波から摂津(せっつ)の港に荷揚げされた記録も残っています。戦国時代になると、武士の鎧(よろい)の下に藍で染めた着物を着るようになり、藍染めの需要が一気に高まります。1549年、 三好義賢(みよしよしかた)が上方から青屋四郎兵衛を呼び寄せ、すくも(藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った技術を定着させ、三好氏の拠点であった勝瑞では、すくもづくりが本格的に行われるようになります。 こうして、長宗我部氏に代わって阿波に入った 蜂須賀(はちすか)氏は、明治の中期までこの地最大の財源ともなった「阿波の藍」を発展させることになります。 【写真】足利義稙の墓(阿南市西光寺) 写真提供:那賀川町立歴史民俗資料館 【写真】勝瑞城跡 関連リンク |
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