3.近世(江戸時代~明治時代)阿波(あわ)一国を与えられた 蜂須賀(はちすか)氏は、入国早々、阿波の検地にとりかかりました。さぞかし驚いたことでしょう。わずか数千ヘクタールという水田の少なさ。さらに、名に負う吉野川の暴れぶり。江戸初期1659年から幕末1868年までの200年間、この川の洪水は約100回。2年に1度という計算になります。 おそらくまだ当時、吉野川の下流平野はおびただしい数の派流が流れる一大氾濫原だったのでしょう。左図は寛永(かんえい)15年(1639)の絵図の写しといわれていますが、現在の吉野川とは著しく様子が異なっています。 確かに水田が少ないのもうなずけます。この大氾濫原が2年に1度の割で洪水に襲われるとしたら、農民はたまったものじゃありません。特にこの地は台風の通り道ですから、半年かけて育てた稲が収穫できるかどうかは、博打のようなものです。 【図】吉野川下流平野 古絵図(寛永15年(1639)の絵図の写し) 画像をクリックすると拡大します 藩は、以前 三好(みよし)氏が導入した藍作に目をつけました。藍は金食い虫と言われるほど肥料を要します。しかし、洪水に襲われた土地は皮肉にも、土の養分がたっぷりと供給され、肥沃な土地に変わります。しかも、藍の穫り入れは台風が来る前に終わると藍作にとっては都合の良いことばかりでした。 【写真】藍の葉 藩は、南の那賀(なか)川平野を米作地帯として安定的な収入を図ると同時に、吉野川を藍の一大産地として特化するという政策をとります。未墾地であった吉野川や勝浦川下流の三角州地帯の開拓を行い、藍、桑、たばこ、西瓜、南瓜など換金作物の栽培を奨励しています。 やがて、この藍は後に「阿波の藍か、藍の阿波か」といわれるほど阿波の経済を潤す最大の特産品となっていきます。藍商人は阿波大尽(だいじん)などと呼ばれ、全国に鳴り響く豪商として贅の限りを尽くしました。もちろん、藩も潤いました。阿波の 表高(おもてだか)は25万石でしたが、実質70万石はあったと言われています。 今風に言えば多角経営であり、藩としてみればこの政策は推奨されるべきものでしょう。しかし、困ったのは農民たちでした。藩は、藍作のために敢えて堤防を造らなかったとも言われています。2年おきに襲われる洪水の恐怖。さらに、農家ですらお金で食料を買わなければいけない暮らし。また、確かに商人は藍によって巨額の富を得ましたが、生産する農家にとっては大変でした。藍を発酵させるのは重労働。何人も作男(さくおとこ)を雇えるだけの豪農でなければできません。品質を維持するためには大量の肥料を必要とします。儲けも大きい代わりに、借金も背負うという投機的な経営を強いられたのです。 米作りは農民の悲願でした。この地でも、三島泉斉(みしませんさい)による「笹木野(ささぎの)の干拓」、伊沢亀三郎(いざわかめさぶろう)の「住吉新田の干拓」、阿波商人・板東茂兵衛(ばんどうもへい)による「豊岡(とよおか)新田、豊久(とよひさ)新田、満穂(みつほ)新田」など多くの辛酸をなめながら開発した記録が残されています。 【写真】第十堰 また、1672年、藩が 舟運のため吉野川と別宮川(べっくがわ)とつないだため、川は一気に直進し、現在の流れとなりました。もとの吉野川(旧吉野川)の水量は極端に少なくなり、下流の44ヶ村は水不足と海水の 遡上による塩害を被る被害が出てきたことから、旧吉野川への流れを呼び戻すため、1752年に第十堰の建設が始められました。これにより旧吉野川にも流れが戻り、下流の村の水不足は解消することになりました。しかし、第十堰は洪水のたびに修復を繰り返し、その維持・管理は莫大な費用が必要でした。 江戸中期の記録(『町歩下組帳』)を見ると、阿波の水田面積は11,818ヘクタールと中世の約2倍に拡大しています(しかし、くどいようですが那賀郡の開発が大半を占めている)。ちなみに畑の面積は20,439ヘクタール。水田が畑の半分しかないという国は、当時、下野(しもつけ)(栃木)、上野(こうずけ)(群馬)、甲斐(かい)(山梨)などの山国、シラス台地の日向(ひゅうが)(宮崎)、大隈(おおすみ)(鹿児島)くらいのもの。いずれも水には恵まれない国ばかりでした。 四国三郎という天下に名だたる大河川を持ちながら、意のままに米を作れぬもどかしさ。阿波の住人ならずとも、その悔しさは想像できます。 |
お問合せ先
四国東部農地防災事務所
〒779-0105
徳島県板野郡板野町大寺字王子72-2
TEL:088-672-5252