4.近代(明治~昭和時代)明治17年(1884)、吉野川のあまりの暴れぶりに、明治政府はオランダから招請した治水技術者ヨハニス・デレーケを派遣します。デレーケは、吉野川の下流から 三好(みよし)郡の上流部までくまなく踏査(とうさ)。支流だった別宮川(べっくがわ)を吉野川の本流とするほか、第十樋門の新設や堤防の設置を柱とする治水計画を提出しています。特に彼は砂防の必要性を強調しました。翌18年には曽江谷川(そえだに)の茶園嶽が大崩壊。これを契機に国は吉野川における直轄の砂防工事に着手します。これは近畿の淀川砂防と並び、わが国最初の砂防事業でした。 明治30年代(1897~)、ドイツからは化学染料が、インドからは安い 藍(あい)が輸入され、あれだけの隆盛を誇った 阿波(あわ)の藍は衰退の一途をたどります。 江戸末期、すでにこうした事態を予見した人たちがいます。 藍師(あいし)の後藤庄助と庄野太郎です。後藤は、食料の安定した供給体制を築く事が必要と考え、藍の畑作から水田中心とした農業経営への転換の必要性を訴える『吉野川筋用水存寄申上書』(1850年)を建白し、吉野川北岸の北山用水路と南岸用水路の必要性を説いています。その後、庄野太郎が『芳川水利論』(1865年)を著します。これはその当時は無視されますが、明治になって麻名(あさな)用水と板名(いたな)用水として実現されることになります。両用水の取水口として建設されたのが、今なお現役の「柿原堰(かきはらぜき)」でした。また、豊岡茘敦(れんとん)も、明治初期に治水と利水を分離し、吉野川の北岸を潤す大用水の計画「疎鑿迂言」を 建白(けんぱく)していますが、これは夢のような計画であり、実現を見るのは戦後を待たねばなりません。 一方、旧吉野川流域では、大正12年(1923)、海水の 遡上(そじょう)による塩害の防止を強化するため、吉野川本流から旧吉野川へと流れ込む水量を調節する第十樋門が建設されます。また、遡上する海水を防ぐためのゲートとして、今切川(いまぎれがわ) 樋門、旧吉野川樋門がそれぞれ昭和11年(1936)、昭和24年(1949)に建設されました。以後、農民たちは、樋門を操り「三湛二落」(3日間取水、2日間排水)といったこの地域特有の水管理を行うことになります。 さて、時代は戦後の高度経済成長期を迎えます。農業近代化のための農地整備、農業用水の確保はもとより、発電、新産業都市、上水道や工業用水、そして道路網の整備・・・。日本中に、開発の波が押し寄せますが、四国は遅れていました。発電用のダム、そして工場を誘致するにも水がいります。吉野川総合開発は、“大きな果実”吉野川の水を、愛媛、高知、そして、香川にも分配しようというものでした。しかし、下流の徳島県ですら利水もままならぬことはすでに述べました。また、 銅山川(どうざんがわ)分水(徳島から愛媛への分水)でもその解決に百年を要しています。 昭和23年(1948)に始まる吉野川総合開発案は、農業振興、本四連絡橋、新産業都市、工場誘致など、時代の激しい脈動と、各県の浮沈をかけた駆引きに揺れに揺れました。瀬戸内沿いの 山陽道(さんようどう)は日本の国土軸ともいわれた経済の大動脈。そのすぐ隣にありながら、四国は吉野川という「大きな果実」を背負い、政・財・官とも必死の努力を尽くして、なお身動きできない状況が長く続くことになりました。 そしてついに、昭和41年(1966)、高知県の 早明浦(さめうら)などに巨大なダムを建設することで事態は解決します。早明浦ダム近くで高知県に、愛媛県には支流銅山川から分水、香川県には池田ダムから長さ8キロメートルに及ぶトンネルを掘り導水する香川用水が造られることになりました。そして、徳島県には7,000ヘクタールを潤す夢の北岸用水が吉野川北岸事業として完成することになるのです。
このため、吉野川総合開発では、昭和45年(1970)に基本計画を変更し、旧吉野川、今切川の河口に、樋門に変わる新たな河口堰を建設することを決めています。昭和49年(1974)に完成した今切川河口堰、同50年に完成した旧吉野川河口堰は、以来、両河川への海水の遡上を防ぎ、安定した農業用水を確保してきたほか、洪水調節の役割をも担い続けてきました。 【写真】板名用水 写真提供:全国土地改良事業団体連合会 【写真】旧吉野川潮止樋門 写真提供:独立行政法人水資源機構 旧吉野川河口堰管理所 【図】吉野川北岸農業水利事業計画概要
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