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中国四国農政局

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    四国東部農地防災事務所

    コラム―麻名用水と板名用水

    吉野川下流域は、気候風土が藍栽培に適していたことに加え、江戸時代に徳島藩が成立して以降、歴代藩主が藍作を奨励していたため、藍の一大産地となっていました。しかし明治になると、ドイツで化学染料が開発され盛んに輸入されるようになり、次第に藍の需要は減少し、値段も急落します。当時、国が養蚕を奨励していたこともあり、藍作を諦め養蚕を試みる農家も出てきましたが、桑の栽培ができる土地は限られており、また養蚕には多くの労働力が必要でした。このような状況の中で、農家の気持ちは自然と主食である米作に傾いていました。しかし、米作のためには、水が必要でした。

    明治37年(1904年)、名西郡高志村の藍商・武知唯七は、吉野川の水を用水として引き入れ、水稲栽培を行うことを計画します。これに賛同した高志村長・白浦崎太郎とともに、用水事業を行うことを地元住民に提案しますが、費用負担の面などから地元からは強力な反対がありました。そこで二人は、名西郡長であり、土木技術の権威であった井内恭太郎に協力を要請することとします。井内は用水事業の必要性に共感してこれを快諾し、武知、白浦とともに、地元住民に用水事業の必要性を懇々と説明しました。そして、明治38年(1905年)、井内を管理者として、紀念板名用水組合が設立されました。板名用水の受益地域は、阿波市一条地区、板野郡上板町高志地区全域および松島、大山地区の一部、板野郡板野町の一部です。紀念板名用水組合設立時の行政区画では、受益地が板野郡と名西郡にまたがっていたことから、板野郡の「板」と名西郡の「名」をとって「板名」と呼称されることになりました。組合の設立後、明治39年(1906年)に起工、明治41年(1908年)には一部通水が始まり、大正3年(1914年)、宿願の紀念板名普通水利組合の水路が完成しました。

    同じ時期にもう一つの大用水が完成します。麻名用水です。明治38年(1905年)、同じく井内を管理者として麻名普通水利組合が設立され、明治45年(1912年)麻名用水が完成、通水しました。

    【写真】板名用水の取水口・柿原堰

    【写真】板名用水の取水口・柿原堰

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