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農林水産省

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宮崎県宮崎市

交流会の概要

開催日
平成17年1月29日(土曜日)
主催
農村振興局、九州農政局、宮崎県、水土里ネット宮崎
開催場所
宮崎県宮崎市 宮崎県総合博物館「民家園 旧黒木家」
語り部等参加者数
平野啓子氏(コーディネーター)他6人(うち土地改良関係者 1人)
傍聴者数
約50人(主な職種:語り部関係者、学校関係者、国・県・改良区関係など)
 
語り部交流会の様子
語り部による語りの様子
語り部交流会の様子
語り部による語りの様子

語り部の概要

氏名 語りの概要
活動実績等
(職業、職歴)
佐伯厚子 【田堀りじいどんとガッパ】
米良のカッパは「カリコボーズ」と云い、夏場は「水神さん」として、冬は「山の神」として自然を守る精霊として住んでいるとされている。それで、民話もかっぱや「カリコボ-ズ」にまつわる話が多い。お話しは人に雇われ新しく田を掘る仕事をしている田堀じいどんが山へ茶摘みに行ったとき、多数のかっぱにからかわれたり、まつわりつかれたりして病気になり、このことから山で仕事をする時にはお供えをするようになったという話
創設3年目で、西米良村で毎年5月実施される「山菜まつり」12月の「語り部フエスタ」が大きな活動。その他、西米良村で開催されるイヘ゛ントや温泉館・キャンプ場にみえられたお客様を相手に語ったり、小学校に行って語ったりしている。姉妹都市の熊本県菊池市とお話しの会という会を通じて交流を図っている。
高尾日出夫 【久兵衛井堰】
天保3年(1832年)川南村猪ノ久保の河野久兵衛は、私財を投げ打ち、村の人々の協力を得ながらローソクや松明の明かりでノミやツルハシを使い、数カ所の隧道を掘り、約15町(2000メートル)、幅3尺(約1メートル)の水路を3年かけて完成させた。測量機器もなく高低差も少ない難工事であった。この水路は約30町歩の水田を潤し、今も修理しながら利用されている。久兵衛は明治2年4月5日、72歳で没した。土地の人々はこの事業を称え、水路を「久兵衛井堰」と呼んで感謝しているという話
地元で農家をしながら、川南教育委員、川南文化連盟会長を務められ、子供たちに川南の史述を忠実に伝えたいと思い、機会ある毎に子供たちを中心に活動。12月には川南の歴史散歩辞典をつくり、川南町の学校に配布、子供たちに読んでもらっている。
竹原由紀子 【寒天】
幕末の頃、薩摩藩は500萬両の借財を抱えていた。その財政建て直しの策として、山之口町の永野という山中にて観点密造がなされた。調所笑左衛門と8代浜崎太平次の共同計画は藩を救い、貿易・運送・造船の三大事業をなした。
今でもその後は残っており、地域の住民の強い協力心と団結力は新農村を生み出し、豊かな自然の中で活かされ見事な里である。
都城語り部「おかしむじ会」代表
宮崎語り手の会会員
語り部(方言)11年目
テレビ朝日「語れ、山姥」30分番組出演、宮崎市立図書館、都城市立図書館にて、「語り」定期的に実施、年間69~72箇所、2~100歳までの人を対象に活動されている。後継者の育成にも力を入れている。(大人・児童問わず)
寺原重次 【半ぴどんと大阪どん】
宮崎市の頓知者半ぴどんは百姓であるが、怠け者で家の仕事は嫁女に任せ、自分は毎日村中を出歩き勝手に人の世話をやき、持ち前の頓知とユーモアで村人を笑わせて回った。反骨精神旺盛で権力を傘に威張る武士や、貧乏人をバカにする金持ちなどには徹底的に反抗した。しかし、そこは得意の頓知で丸く包み、相手が怒るにも怒れないよう仕組んでいた。村人たちも絶妙の頓知で弁当は食われ、銭は取られの被害者だが、むしろ村人の代弁者として尊敬していた。今回の話は大阪商人をとんちでやり込める話
平成12年に宮崎県語り部の会として創設。平成12年から西米良村の語り部と連携して春の山菜祭りや12月の「語り部フェスタと夜神楽の夕べ」を続け、平成14年から、民家園にて毎月第3土曜日の13時から語り活動を始めた。そのほか県立盲学校への語り活動、県内の語り部との交流や語り部の会の支援活動などを行っている。
土肥清三郎
【岩熊井堰用水路】(「出北用水と監物さま」と関連)                     宮崎県内最大の井堰で、完成してから270年経った今でも、地元出北の住民は、先人の恩を永く忘れぬため、出北に藤江監物、江尻喜多右衛門の2人を祀る観音堂を建て、毎年旧暦の8月18日に慰霊祭を行っている。井堰はその後、幾多の改修と昭和8年(1933年)及び昭和46年(1971年)の大改修により、現在の姿に完成した。その大改修等に実際携われた時の苦労話や体験談の話。(90歳:大正3年生まれ
大正3年生まれ、90歳。当時、自らもこの施設や農地を守ってこられた苦労話などを、若い人や次世代に伝え、先人たちの偉業や苦労話、また施設や農地への思いを感じて頂きたいと思っている。
吉田千鶴子 【出北用水と監物さま】
享年9年(1724年)延岡藩主有馬氏の家老藤江監物は藩の財政建て直しと農民を救うため、財政窮迫を理由に反対する重臣たちを制して、五ヶ瀬川に井堰をつくり、出北へ用水を流す工事に着手。工事が長引き藩財政が圧迫されたこととかねてより監物に対して快く思っていなかった反対派の誹謗により、罪状をこしらえられ日之影村の舟の尾に投獄された。入牢後半年て牢死したが、井堰や用水路は、後継者(江尻喜多右衛門)により3年後完成した。農民は偉功を称え、守り神として観音堂に両人を祀るとともに日之影の墓所にも参拝し、いまでも毎年出北と舟の尾で慰霊祭を開催し感謝の意を尽くしているという話
本年4月に宮崎県北地区に創設した会(会員16名)。20年程前から「ひみこの会」という歴史の勉強グループをつくり、主に郷土の歴史を学習する。10年前からは「城山カ゛イト゛ホ゛ランテイアの会」の発足に寄与して活動。今後、(ア)延岡の歴史に関する色々な先賢の方々のこと、(イ)ふるさとに伝えられている民話、(ウ)平和の大切さの三項目を主眼として、語り伝えていきたい。

(職業等は開催当時のもの)

意見交換の概要(主な意見等)

  • これからの「語り」を伝える、拡げて行くのは子供たちである。「西米良の語り部の会」には3年前より子供の語り部を育てている。それぞれが子供独自の「語り」で、方言で語っている。本当にかわいいし、すばらしい。行政もこれからは子供に目を向け支援してほしい。
  • 昔は「語り部」という職業もあり、親から子へ語り伝えると意もある。すばらしい素材を見たとき、誰もがそれを誰かに伝えたいと思う。そう言う役割を自分らもやっていきたい。
  • 日本の美しい風景が残ることは、大変大切だと思う。元々何も手つかずに美しいものもあるが、人が関与しての美しい風景と言うものもたくさんある。人間との関わりの中で美しさ風景を保つと言うことが大変大切なのではないかと思われるし、木の心、水の心、田畑の心、そこで携わってきた人達の心を伝えることって大切だと思う。
 

寺原重次さん

「子どもの民話語りを学校教育に取り入れる」

昔は祖父や祖母がいろりを囲んで孫に昔話を語ったり、父や母が寝物語で子どもへ語ったりしたものだが、今は祖父も祖母も別居している世帯が多い。母も忙しく、子どもも学校の宿題や塾通いに追われて、家族での昔話の伝承は成り立たなくなっている。
そこで私たちは県内に先駆け、平成12年4月に語り部の会を結成して、子どもからお年寄りまでを対象に多くの昔話を語り伝えてきた。それでも話を聞く人はあっても語り継ぐ人はごくわずかである。そのことについて私がふと思い当たった経緯を少し話してみたい。
我が家には平成4年に女児の内孫が誕生した。この子が3歳になったころ、文字は読めないがそこに描かれた絵を見ながら片言で自分流に語り始めた。意味の通じない語りではあるが、その嬉しさから家族で褒めながら話をきいた。
これと平行に私は、いろりの代わりに毎晩この子にお風呂の中で宮崎弁の昔話を語り始めた。お風呂の中は一対一になれるので幼児でも集中して聞いてくれる。私がこの子を抱いてゆっくり湯船に浸ったとたん「おじいちゃん、今日のお話しは?」と要求するようになった。
そのうちこの子は3歳で短い宮崎弁の昔話を語り始めた。そして私から聞いた話を息子夫婦に片言で自慢そうに話し始めた。それから小学生から中学生になった今も私と二人でときどき語りをすることがある。
私は平成3年3月に教職を退いた。その最後の勤務地は中学校から小学校で終わりたいと決め、宮崎市立宮崎西小学校に転任し、ここで9年間過ごした。初めの3年は担任があったが、残りの6年間は5・6年の音楽と理科の専科となった。これがきっかけでその日の授業の終わりには必ず昔話を一話語ることとした。子ども達は大喜びで「先生今日の話は何ですか?」と心待ちにするようになった。
そのうち子ども達の何人かが、その日の昔話を親に語っているということが連絡帳でわかってきた。そこで気をよくした私は、「今までは親が子に語る昔話だったが、これからは子が親に語る昔話をみんなでやってみよう」と提唱した。子ども達もこれを受けて私が退職するまでの6年間続けた。
さて、私たち語り部は平成13年12月には、宮崎市から車で約2時間の山間部、西米良村小川地区で第一回の語り部フェスタを行った。
(私が以前小川中学校で3年間過ごした地である。)この時、隣の地区の西米良村立越野尾小学校の小野由紀美先生が語りについて大変興味を示されたので、私もつい「子ども達に語らせてはどうでしょうか。」と言った覚えがある。その後、私は西米良村役場の要請で時々であるが、2年間私は語り部養成講座に西米良村村所の役場へ通うこととなり、途中の越野尾小にその都度立ち寄った。
友人の教頭先生から子ども達の語りについての様子を尋ねた。「小野先生の熱心な指導で子ども達はメキメキ上達し、12月の語り部フェスタには出演できそうですよ。」との返事だった。その言葉どおり平成14年12月の第2回語り部フェスタでは、二人の子どもが西米良の話を地元の方言で、しかも情感を込めてゆったりと語ってくれたのには、会場から万雷の拍手が鳴りやまなかった。そのうまさとかわいさに涙する人々もたくさん目についた。
縁とは不思議なもので、私は平成14年宮崎市立小戸小学校の野添和洋先生の依頼で演劇クラブの指導をしてきた。その野添和洋先生が平成15年4月に西米良村立村所小学校に赴任してきた。この4月、私の語り部講座が西米良村役場であったのを機会に村所小に野添先生を訪ねたら、宮崎西小学校で一緒に勤務した西富哲也先生が新任校長として着任していた。この村所小の二人の先生方も子どもの語りには高い関心を持っておられたので、同じ村内の小野由紀美先生の存在は良い刺激になったと思う。小野先生は平成16年3月には延岡市へ転勤となり、その翌年、平成17年3月には越野尾小も廃校となった。
平成17年4月からは越野尾小の児童も村所小に編入され、野添先生が子どもの語り指導を引き継がれた。越野尾小で語ってきた二人の子達は村所小の子ども語りのお師匠さんとなって活躍中で、野添先生の話では、今年は11人の子ども語りが西米良村小川の語り部フェスタに出演されるそうである。じっと見守る野添先生と西富校長の笑顔が目に浮かぶ。
これらの経緯から想像できることは、子ども達の記憶力は当然ながらとても優れていることである。彼らは教師から言われた方言や顔の表情、語りの情感、速度、テンポや間に至るまで時間はかかるが全部覚え込んでくれる。最近国語の音読が復活されたことも嬉しいが、子ども達が民話を暗記し、その民話のもつ物語を自分なりの表現で語れるようになったのを知った時、子どもの持つ可能性のすばらしさに感動した。学校現場で今まであまりやらなかった分野ではなかろうか。これからの民話語りは私たち高齢者のものと限らず、若い世代が語ることで、全国各地に残る民話も・方言も伝承文化として立派に永存されるのではなかろうか。


語り部による子ども伝承会の概要

吉田千鶴子さん

平成17年7月から(財)伝統文化活性化国民協会の助成を得て「民話を語るこども教室」を開講。現在、10名の子どもの語り部誕生。
平成18年3月には、200名近い聴衆の前でこどもと会員の民話を語るイベントを成功させた。また、主に県北の民話を主題にした「民話かるた」を作製(115部)し、貸し出し業務に踏み切った。

竹原由紀子さん

「霧島山のページ」、「おたこさあの民謡」

http://otakoyama.com/(外部リンク)

お問合せ先

農村振興局設計課広報G

代表:03-3502-8111(内線5561)
ダイヤルイン:03-3595-6338

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