4.ムラの発生【第2章「農」の発生】
古代でも、米を作るようになってからは弥生時代※と呼ばれます。縄文時代と弥生時代の最も大きな違いは農地があるかないかであると言えます。つまり、弥生時代からは、農地を造って自ら食料を生産したということ。いわゆる「農耕生活」の始まりです。
農地が何を意味するかはおわかりですね。そうです。農地とは、太陽エネルギーを地上で化学エネルギー(食物)に変換し固定するスペースのことです。したがって、穀物を貯蔵するということは、太陽エネルギーを貯蔵するということになります。つまり、自分たちが生きていくエネルギーを自分たち自身で生産し、しかも貯蔵する。これは人間以外の動物たちにはありえないことですね。
これまでは獲物や餌場を求めて移動していたかも知れない集団も、農地を造ればそこがエネルギー生産の場になるわけですから、もうその土地を離れるわけにはいきません。つまり、定住生活となります。もちろん、他の獲物を取るのを止めたわけではありません。特に魚類は主要な動物性タンパク源でした。家畜を飼育していた形跡も見つかっています。しかし、しだいに穀物が主食としての座を占めるようになっていったのです。
日本では、稲、すなわちお米が定着しました。お米は水田で作ります。そして、水田には大量の水が必要なので、川などから水路を引いてきます。その工事には大勢の働き手がいるので、人々は集団で生活するようになりました。稲を植えたり刈り取ったりするのも大勢いた方が効率的です。こうして、人は集団で生活するようになり、“ムラ”ができます。つまり、日本のあちこちに“ムラ”ができ始めたのです。
しかし、ムラの収穫量は、農地の広さによって異なります。貯蔵する量<=富>にも差がでます。いわゆる貧富の差が出てきます。縄文時代には、狩場をめぐるイザコザのようなものはあっても、富を奪い合う戦争のようなものは少なかったらしいのですが、弥生時代になると急に増えてきたのです。
考古学の世界では、「部族間の戦争というものは、世界のどの地域でも、(少数の例外を除いて)農耕社会が成立したのちに現れる」といわれています。ムラの周りには堀や柵を造ったりして敵を防ぐのですが、それでも弱いムラは強いムラに占領されます。占領されたムラの人間は奴隷になったりします。そのムラもまたもっと大きなムラに占領されたりして、だんだんムラは大きくなっていきます。そして、人間が多くなると、大きな工事も可能となるので水田はどんどん増えていきます。
こうして“クニ”が成立するのです。
近年の調査では、米が日本に伝来した時期は縄文時代晩期(紀元前1000~紀元前300年頃)にさかのぼることが明らかになってきました。縄文時代と弥生時代とは、発掘された土器の文様で区別されています。弥生時代は、およそ紀元前300年頃から3世紀までとされ、鉄器の使用や水耕栽培で特徴づけられる時代です。
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