8.農は国の大本なり【第2章「農」の発生】
荘園は、開墾した土地が自分のものになるわけですから、誰もが一生懸命になるはずです。しかし、水田を造るのはそう簡単なことではありません。川から水路を引いてこなければならない。ところが、すでに川の近くの優良な農地はすべて口分田として開発されています。何kmも水路を掘るには莫大な資金と労力が必要になるのです。結局のところ、荘園の拡大も中央貴族や有力な寺社、あるいは地方の豪族しかできなかったのです。
幸いなことに、戦国時代あたりから、城や堀を造る技術が飛躍的に発達しました。この土木技術が大規模な水田開発を可能にしたわけです。戦国大名の多くは優秀な土木家でもありました。武田信玄、加藤清正、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)・・・。彼らが行なった治水(洪水を防ぐ)、利水(水田の水路を引く)の工事は、400年たった今もあちこちに残っています。とりわけ、農地面積の拡大は、どこの大名にとっても最大の課題でした。
豊臣秀吉は天下を統一すると、さっそく検地を行ないました。太閤検地の大きな特徴は、ひとつの土地に1人の農民しか耕作を認めなかった点です。これにより中世の争いの元となった複雑な農地の所有関係がすべて解消され、奈良時代に始まった荘園は消滅します。
そして、政権は徳川幕府に移り、ようやく国土をめぐる争いは終りを迎えます。将軍とはいっても、中央集権とは大いに異なります。幕府の収入は直轄領だけであり、各藩の収入はすべてそれぞれの藩のもの。つまり、幕府は700~800万石の超大藩というだけで、他の藩への警察権も、全国から武士を招集する権利も持たなかったわけです。今でいう、地方分権に近い制度だったと言っても過言ではないでしょうか。ともかくも、江戸期に入るとこれまでの戦乱のエネルギーはほとんど自国を富ますための新田開発に注がれました。それぞれの藩の領主(殿様)は国内の新田開発に力を入れました。江戸前期の100年ほどの間に、日本の耕地面積はほぼ2倍に拡大しています。
ということは、日本のエネルギー生産や富も約2倍になったということですね。
農は国の大本(おおもと)なり ――― 国の発展は、“農”が支えるものである。この考え方は、古代国家から江戸時代、そして明治、昭和を迎えても変わることのない国の原理であったということができます。
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