2.悲願の事業―国営大井川農業水利事業
事業の起こり
戦後の大井川には左岸に9つ、右岸に3つ、合計12の水門が設置され、それぞれ用水路が引かれていました。しかし、これらのほとんどは江戸時代に起源を持つものだったため、構造も古く、渇水時はもちろん、通常の取水も困難な状態に陥っていました。
農民たちは、水門まで水を導きやすくするため、大井川に「牛枠(うしわく)」や「川倉(かわくら)」といった水の流れをコントロールする構造物を設置し、また、用水路を掘り下げ、水を引き込む努力を行います。しかし、これらの努力も一度、川が氾濫すれば無にかえってしまうものです。水不足への抜本的な対策と水利施設の近代化は、この平野の悲願となっていきました。大井川平野の農民たちは、切実な水不足を県や国に訴え続けます。大井川用水改良事業期成同盟会、大井川用水普通水利組合といった組織を作り陳情を繰り返しました。
ちょうどその頃、日本では、水利用や洪水対策などについて、個々の川にだけではなく、水系全体で考える「河川総合開発」への取り組みが始まろうとしていました。特に戦後は食料増産が急務となり、全国の主要水系では調査が始められました。
こうした情勢も影響したのでしょう。大井川平野の農民たちの想いは、ついに実を結ぶことになります。昭和22年、農林省(現農林水産省)は、加古川(かこがわ)、野洲川(やすがわ)、九頭竜川(くずりゅうがわ)、そして、大井川の4水系で大規模な灌漑事業を実施することを決定しました
川倉が設置された堰のイメージ
小笠地域への用水決定
国営大井川農業水利事業は、当初、大井川に設けられていた12か所の水門を1か所の近代的な頭首工に統合し、新しい用水路を造り、大井川平野まで水を送る計画でした。
しかし、水不足は大井川平野に限ったことではありません。小笠地域もまた、江戸時代以来、ため池に依存した不安定な農業に苦しまされてきました。さらに、この地域は、昭和21年に大干ばつに見舞われます。大井川平野での用水計画が動きはじめると、小笠地域でも水不足解消への動きが本格化していきました。農民たちは、大井川平野同様、切実な水不足の状況と新しい安定した水源の必要性を訴え続けます。小笠用水施設期成同盟も発足し、県や国に対して、度重なる要望、陳情を繰り返しました。
こうした活動の結果、昭和25年、小笠地域は正式に国営大井川農業水利事業の事業地区へと組み入れられることになります。明治22年、山崎千三郎によって計画された「大井川疏水計画」以来、この地域の農民たちにとっては60年越しの悲願でした。
事業の概要
大井川農業水利事業は、計画が決定した昭和22年度から着工します。水路橋やトンネルによる導水には、当時の最新技術も導入されました。それでも、現在のように機械が発達していなかった時代に、人力に頼る部分も多かった工事は様々な困難に遭遇したようです。事業は22年間にも及びました。
大井川サイホンの工事風景
昭和43年度に完成を迎えたこの事業では、用水の取り入れ口を、最終的に中部電力が管理する川口発電所に併設して設置しました(※)。この川口取水工は、大井川平野の扇状地が開けるところから7kmほど上流に位置し、水はトンネルを通して島田市神座(かんざ)に設置した分水工まで送られ、大井川平野、小笠地域のそれぞれに分けられます。
大井川平野・小笠地域への水を分ける神座分水工
大井川平野に水を送る幹線水路は、赤松幹線・向谷幹線・志太(しだ)幹線・榛原(はいばら)幹線・瀬戸川幹線の5本に分岐し、島田市や藤枝市、焼津市(やいづし)など平野全体を潤します。一方、小笠地域に水を送る幹線水路は、水路橋で大井川を渡り、牧之原台地をトンネルで通した後、菊川右岸幹線・掛川幹線に分岐し、掛川市や菊川市を潤します。
なお、小笠地域では、菊川にも頭首工が建設され、菊川左岸の平野へ水を導くことになりました。この菊川左岸幹線は、菊川右岸幹線と同様に遠州灘(えんしゅうなだ)に面した畑作地帯まで延び、畑地かんがいの水源にもなっています。
この事業によって、江戸時代から続いた大井川平野、小笠地域の水不足は解消されることとなりました。大井川用水の水は、その後、本来の農業用水はもちろん、防火用水や親水目的にも利用されるようになり、地域の大切な資源となっています。
当初取水工は、大井川左岸の赤松付近を予定していましたが、小笠地域への送水が事業に組み込まれたこともあり変更となりました。また、当時の大井川には既に発電用のダムが多数建設されていたため、大井川からの直接取水は見送られ、川口発電所が発電後に放流した水を取水することとなりました。
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