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関東農政局

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2.荘園の発達と治水の始まり

荘園の発達

  奈良時代の半ば、新たに開墾した土地の私有が認められるようになると、公地公民制は事実上崩れていきます。貴族や寺社、有力な地方豪族などはこぞって開墾を進め、私有地を拡大するようになりました。この私有地がいわゆる「荘園」の始まりです。

  大井川平野の荘園を知ることのできる史料は多くありませんが、相良庄(旧相良町(さがらちょう))や初倉庄(島田市初倉)、益津庄(藤枝市西益津)といった荘園があったことが分かっています。これらはもともと「郷(里)」、つまり公地公民制の下で成立した村々だったらしく、はっきりした成立年代は不明ですが、平安時代末から鎌倉時代には荘園化していたものと考えられます。この時代の大井川平野は、未だ大井川の乱流地帯でしたが、数多くの洪水が繰り返されるうち、いくつもの小高い自然堤防が形成されていきました。この地の荘園開発は、まず、こうした自然堤防を利用して進められ、時代が進むにつれ大井川の氾濫原にまで及ぶことになります。

  武士の起源は、荘園を守るために武装した領主たちだったともいわれています。中世と呼ばれる鎌倉時代から戦国時代までの約400年間は、武士による戦乱の時代でしたが、これは荘園、つまり農地を巡る争いだったともいえるでしょう。

 

治水の進展

  中世も末、戦国時代になると、諸大名は、洪水から国を守り安定した年貢を確保するために、大河川の治水対策を積極的に展開していくようになります。その背景には長い戦乱の中、築城技術や石垣技術といった土木技術が格段に進歩したことがありました。

  この時代、甲斐国(かいのくに)(山梨県)から駿河(するが)、遠江(とおとうみ)の両国まで進出していた武田氏により、大井川は「聖牛(せいぎゅう)」や「出し」といった治水対策が行われました(さらに詳しく「出し」・「聖牛」と「舟形屋敷」を参照)。また、その場所は特定できませんが、大井川以外でも武田氏は「藤枝堤」といった堤防を再興した記録があり、平野の各地で洪水対策をほどこしたことが分かっています。

  武田氏が没落した戦国時代末期には、駿河国(するがのくに)に中村一氏(なかむらかずうじ)、遠江国(とおとうみのくに)に山内一豊(やまうちかつとよ:注)が入り、両氏の協力のもと「天正の瀬替え」と呼ばれる大井川初の本格的な治水工事が行われています。1591年に行われたこの工事は、大井川の流路を変えるため、牛尾山(大井川平野の扇状地が開ける辺りに位置)を切り崩し、強固な堤防を築くという大事業でした。この時に造られた堤防は「一豊堤」とよばれ、現在でも残っています。

  江戸時代に入っても、田中藩主・水野監物忠善(みずのけんもつただよし)の「千貫堤」に代表されるように、治水対策は続けられます。大井川平野の新田開発は、江戸時代に入り本格化していきますが、その基礎には、これらの治水対策がありました。

注 : 「やまうちかずとよ」とする読み方もある。

天正の瀬替え推定図


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