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関東農政局

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4.水不足の深刻化

大井川平野の近代

   江戸時代の新田開発を通して、かつて大井川の氾濫原が広がっていた平野には、見事な水田地帯が形成されていきました。しかし、新田が増えれば増えるほど必要な水は増加します。この地の開墾は、水の確保が追いつかなくなるほどのものでした。さらに、平野の土壌は、元々水がしみ込みやすく、水田は「ザル田」(ザルのように水を通してしまう水田)と呼ばれるほど大量の水を必要とします。開墾により水が足りなくなるのは必然でした。

  また、大井川では戦国時代から堤防建設をはじめとした治水が繰り返されてきましたが、大井川の氾濫を完全に防ぐことはできません。洪水が起こる度に開墾した田畑は水に浸かり、水門や用水路は甚大な被害を受けることになります。農民たちは、水不足に苦しみながら、洪水からの復旧作業にも多大な負担を強いられました。

  明治以降、大井川平野では、新たな開墾というよりは、江戸時代までに開墾された農地の改良、つまり水門、用水路の改修や排水路の整備に力が注がれています。しかし、水不足に対する抜本的な対策とはなりませんでした。農民の苦闘は、昭和22年に着工した「大井川農業水利事業」が完工されるまで続くことになります。


小笠地域の疏水計画

  一方、江戸時代に数多くのため池が築かれた小笠地域の水不足も深刻でした。日照りが続くと、ため池の水は干上がることも度々だったといいます。そんな時、農民たちは近くの神社に出向き雨乞いの神事を行いました。16か村、100人に及ぶ農民が、手に鉦(かね)や太鼓を持って壮大かつ厳かに雨乞い行列を行ったこともあったほどです。明治に入り交通の便が発達すると、水神信仰のご利益がある三重県の多度神社(たどじんじゃ)(旧桑名郡多度町(くわなぐんたどちょう)、現桑名市)まで雨乞い祈願に出かけたこともありました。

  元々、ため池は、安定した水源を持たないこの地の農民たちが、少ない水を一滴も無駄にしないようにと造ったものです。ため池が増えても余裕は無く、常にぎりぎりの水で農地を営んでいたのでしょう。

  水不足の解消――農民たちの切実な願いに対し、明治に入って一大計画が出されます。掛川市の実業家、山崎千三郎による「大井川疏水計画」です。この計画は、大井川から水を取り入れ、小笠地域まで導こうとするもので、途中、幾筋も流れる小河川には水路橋を架け、牧之原台地にはトンネルを掘って水を通すという壮大なものでした。しかし、これだけの事業には当然、莫大な費用がかかります。私財をなげうってまで実地測量を行った山崎の計画は、結局、幻に終わってしまいましたが、その夢は時代を経て「大井川農業水利事業」として実現することになります。


※画像をクリックすると拡大します。(JPG:106KB)
山崎千三郎の大井川疏水工事測量図


「大井川農業水利事業」については、 事業に至る経緯  2.非願の事業-国営大井川農業水利事業をご覧ください。



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