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4.足尾銅山がもたらしたもの【「農」と歴史】

足尾千軒と呼ばれた町 

 ところで、この地域には農業水利の歴史を語る上で欠かせない出来事があります。江戸時代以降、農業と並んで地域の繁栄に貢献した産業、「足尾銅山」です。

 足尾銅山は、1610年(一説には1550年)に発見され、まもなく幕府直轄の銅山として運営が開始されました。足尾代官には岡登用水を開削した岡上景能(おかのぼりかげよし)が任命され、銅山経営に手腕を発揮します。開山当初300トンほどだった生産量は、1668年以降、一時1,500トンにまで増加。銅山は幕府の財政を支える重要な産業となり、足尾の町は、「足尾千軒」と表されるほどの発展を遂げました。

 幕末から明治初期にかけて、一時期の衰退はあったものの、1877年に古河財閥の祖であり実業家の古河市兵衛が経営に着手したことで、銅山は更なる発展を遂げることとなります。

 古河市兵衛の経営手腕は見事なものでした。経営着手直後、幾本もの大鉱脈を掘り当てることに成功します。産出量はわずか数年で当初の何十倍、何百倍にも膨れ上がり、ついには日本の銅生産量の1/4を誇る東アジア一の大銅山となりました。

 

足尾銅山鉱毒事件

 誰しもが足尾銅山による繁栄を喜んだことでしょう。しかし、その急激な発展の影には、大きな問題が潜んでいました。日本初の公害問題としても有名な「足尾銅山鉱毒事件」です。鉱毒は銅の精製過程で排出されたもので、付近の環境に甚大な被害をあたえました。

 1885年、渡良瀬川の鮎が大量死したことにより事件は表面化します。直後、渡良瀬川から取水していた上流部1,200haの田畑が、鉱毒の影響で数年間収穫不能に陥る事態に見舞われてしまいました。

 そもそも、鉱毒は問題が表面化する以前から近隣の山々を蝕んでいたのでしょう。鉱毒の影響で上流部の山林は荒廃し、禿山となった土壌から大量の土砂が流出。土砂は下流部(現在の足利市あたり)に堆積し、大規模な天井川を形成します。天井川は大雨の度に氾濫し、田畑は広範囲にわたって鉱毒の海と化しました。

 下流部の邑楽(おうら)地域では、明治から昭和30年頃までの約90年間に、35回もの洪水被害に見舞われたと記録にあります。中でも、明治23年、同29年に3度起こった大洪水は、各地に大きな被害を引き起こしました。

 被害は田畑や人家だけにとどまりません。河川に設けられた取水堰は、いわば自然の猛威にさらされる最前線の施設です。洪水の度に、や水路は破壊され取水もままならず、多額の修復費用の負担を余儀なくされました。

  

田中正造の闘い

田中正造

 田中正造は、その生涯を足尾銅山鉱毒事件にささげた人物としてあまりにも有名です。

 国会議員(1891年当選)だった田中は、国会で鉱毒被害の実情を訴え続けます。各地で大衆を前に熱弁も振るいました。農民は田中をリーダーとして足尾銅山の停止を求めて立ち上がります。

 1900年、複数の逮捕者を出すこととなった川俣事件を契機に田中は議員を辞職しますが、その後も各地で精力的に演説を行いました。また、当時は死罪にも値するといわれた天皇直訴も試みています。田中の身を挺した活動は農民の心をうち、銅山停止運動は更なる盛り上がりを見せ、ついに政府をも動かすまでに至ります。

 鉱毒予防令や鉱毒被害農民への免税措置が発令され、さらには、渡良瀬川遊水池の造成や河川の改修工事などの治水対策がなされました。しかし、政府の対策は抜本的な鉱毒の根絶に至りませんでした。また、免税措置により選挙権をなくすものが出たり、遊水地が活動の拠点であった谷中村に造られたりなど運動への圧力も続きますが、田中はそれに屈することなく死ぬ間際まで活動を続けました。

 田中は運動資金を集めるための旅先で亡くなっています。自らの財産は全て使い果たし、少しの食糧と数冊の本のみが、死ぬ間際の田中に残されたものでした。しかし、生涯のほとんどを農民へとささげた田中は、多くの農民に愛され、葬儀には数万人もの参列者が訪れたといいます。

 

鉱毒問題の終焉と新たな問題

 田中正造や農民らによって行われた粘り強い運動のかいもあり、鉱毒被害は次第に弱まり、洪水の被害も減少していきました。しかし、問題のすべてが解消されたわではありません。大正、昭和となってからも、荒廃した山々からの土砂の流出はやむことはありませんでした。上流から流れ出る土砂の影響により、河床変動が激しくなった下流部では、各地で取水もままならない状態が続きました。昭和に入ってもなお、東毛(とうもう)地域の人々は不安定な水利状況のもとでの苦しい農業経営を余儀なくされたのです。

 それだけではありません。前述したように、水利施設は自然の猛威にさらされる最前線です。幾度となくこの地を襲った洪水は、施設老朽化の進行を早めたのでしょう。中には著しい老朽化から、その機能を果たせなくなった施設も出始めました。ついには、各所で干ばつの被害が起こるなど、事態は深刻化していきます。

 こうした状況が解消されるのは、昭和の国営事業「渡良瀬川農業水利事業」まで待たなければなりませんでした。

  渡良瀬川農業水利事業については、「事業に至る経緯 2.昭和の大事業―国営渡良瀬川沿岸農業水利事業」をご覧ください。

 

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