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近畿農政局

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地域の和食文化ネットワーク近畿 特別企画「近畿地域の鯖食文化について」寄稿集

     ~地域の和食文化ネットワーク近畿~
              特別企画   近畿地域の鯖食文化について


                                          近畿農政局長  大坪正人                                       

  2013年(平成25年)12月、ユネスコ無形文化遺産に「和食;日本人の伝統的な食文化」が登録されてから8年が経ちます。和食といっても具体的な料理やメニューを対象としているのではなく、登録されたのは和食をめぐる日本の文化であり、それは〔多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重〕、〔健康的な食生活を支える栄養バランス〕、〔自然の美しさや季節の移ろいの表現〕、〔正月などの年中行事との密接な関わり〕という特徴で表されるものです。
  ユネスコの登録以前から、日本食は日本人の長寿や肥満の率が少ない要因として、海外において人気が高まっていましたが、必ずしも食文化としてとらえられていたというわけではありません。東日本大震災以降、 Visit Japan等のプロモーションにより、訪日インバウンドが大きく伸びました。2019年のラグビーワールドカップでは、北は北海道、南は熊本まで各地で開催されたこともあり、観戦に訪れた多くのインバウンドに地方の観光を楽しんでいただいたのは記憶に新しいところです。2025年には大阪・関西万博が開催されます。万博を通じて和食文化の魅力を発信し、また、多くの観光客に近畿地方の魅力に触れてもらえる絶好の機会であり、農林水産省としても可能な協力を行って参ります。
  さて、和食月間に向けた催しのテーマを探していたところ、農林水産省食料・農業・農村政策審議会企画部会食文化振興小委員会の座長をお務めいただいた佐藤洋一郎教授(京都府立大学文学部特別専任教授)から、「郷土料理が定着している地域、すなわち“点”だけでなく、食材が運搬された街道、水路や調理法が伝播した“線”でつないで考えてみたら面白いのではないか」との有益なご助言をいただき、このたび、近畿地域で広く愛されている鯖食文化をテーマにとりあげてみることとしました。ドライブをされる方はよく御承知でしょうが、古くより福井県から京都方面に鯖など魚介類が運ばれた「鯖街道」は、今でもそう呼ばれています。鯖街道のルートはいくつかありますが、いずれも各地域で食文化が発展してきたところです。
  これをきっかけに地元の郷土料理の興りや周辺地域との結びつきに関心を持っていただき、郷土料理への愛着を深める一助となれば幸いです。




  《ご寄稿いただいた方々のご紹介》 ※各執筆者の枠内をクリックすると、寄稿文にジャンプします。
   

                                                                                                                                                                                                       

*テーマ「鯖食文化」についての総括的内容

                       

*「鯖食文化」について、専門的視点から





ー「鯖街道」についてー



  鯖食文化の出発点若狭小浜から京の都をつなぐ「鯖街道」については、「日本遺産  御食国若狭と鯖街道  海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群」(小浜市・若狭町日本遺産活用推進協議会)を参考にご覧ください。
(外部リンク 
http://www1.city.obama.fukui.jp/japan_heritage/ )

*「うちの郷土料理」とは、全国各地で受け継がれてきた地域固有の多様な食文化を地域ぐるみで次世代に継承していくことを目的に、農林水産省Webにて各地域で選定された郷土料理のいわれ・歴史、レシピ等について情報発信しているものです。(「うちの郷土料理~次世代に伝えたい大切な味~へリンク


*****寄稿集**************************************************


■  近畿地方の鯖食文化  ■

       佐藤 洋一郎

          和歌山県生まれ
          京都府立大学文学部  特別専任教授・農学博士
          ふじのくに地球環境史ミュージアム 館長
          和食文化学会 初代会長
          農林水産省食文化振興小員会 座長

鯖寿司
  和食を食材の面から定義すれば「米と魚」の食ということになる。むろん、米は糖質の、そして魚はたんぱく質や脂質の給源となる。大切なのは米と魚が「森川海」の連関のなかで一体的に入手でき、ともに料理されて一つのお皿に載ることであった。寿司はその好例である。近畿地方では、鯖寿司がその代表であろうか。
  若狭湾から日本海側の港に上がった鯖を直ちに頭とワタを取って塩をする(浜塩という)。それを竹製の背負いかごに入れ、複数の運び手がリレーのように荷をつなぎ、峠を越えて京に運んだ。この道が鯖街道である。鯖は「生き腐れ」というほどに足が速い。劣化を塩で食い止めて京の街にやってきた塩鯖を半身におろしてさっと酢にし、さらに酢飯に合わせ棒状にしたのが鯖寿司である。酢が菌の増殖を止めている。そうすることで、鯖寿司は一種の保存食になった。冷蔵庫がなかった時代に、足の速い鯖を日持ちさせ、貴重なたんぱく質を持たせる京の人びとの究極の知恵だったのであろう。

米・酒・酢
  寿司の主役は米である。いまでこそ米はいつでもどこでも簡単に手に入るが、1960年代まではそうではなかった。幕藩体制と米本位制が確立した江戸時代には、米は江戸、大坂、京など都市に集められた。皮肉なことに米を生産する農村の人びとが米にありつけず、都市部の人びとがその果実を甘受した。一説では元禄時代ころの江戸市民は一人一日平均5合(750g)の米を食べていたといわれる。
  米は酒にもなった。江戸時代の京都市内、洛中と呼ばれた地域には300軒を超える酒蔵があったともいわれる。酒造の中心はその後伏見に移ったが、酒造を支えたものは集荷された米と良質の水であった。ちなみに、京都は良質の地下水に恵まれていることでも有名で、発酵食品はじめ水を多く使う食品の製造が古くから産業化されていた。そしてこの豊富な酒の一部が酢に作られた。酢は、江戸時代には友禅染の色止めに使われるなどの消費も多く、市内には多数の醸酢所があったと言われる。その名残りか、今も何軒かの醸酢所が市内にある。江戸時代にはまた、酒粕を原料とする安価な粕酢が生まれた。ここに酢飯が普及する基盤が出来上がったのである。

大阪寿司
  鯖街道は大阪にもあった。香住あたりに上がった鯖は塩をされ丹波をとおって大阪に達した。大阪では塩鯖はへぎ切りされ、箱寿司にされることが多い。ばってらである。そしてこちらは上に酢昆布を載せたものも多い。むろんそうでないものもあるが、大まかにはそのように言ってよいだろう。
  大阪の箱寿司は鯖だけでなく、昆布締めにした鯛、焼き穴子、茹エビ、すり身を加えた玉子焼きなどをそれぞれ載せたものだ。むろん単品でも食べるが、これらを彩りよく合わせるのが大阪寿司の神髄だと思う。
  大阪は食い倒れの街、そして魚の街であった。目の前には大阪湾が広がり、また淡路島や背後に伸びる瀬戸内海の海の幸が台所を支えていた。そこに、鯖や、冬のカニなど日本海の魚が彩りを添えた。居並ぶ魚たちの中にあって決して引けを取らないわけだから、鯖や鯖寿司はうまいのだ。よく、京の鯖はそれよりほか食べるものがなかったから重宝されたといわれることがあるが、おそらくそうではあるまい。うまいから食されたのである。だから、鯖は舌の肥えた大阪人にも受け入れられたのである。

青魚の寿司文化  ―柿の葉寿司とサンマの寿司
  もうひとつの鯖寿司が奈良県から和歌山(紀北地方)にある「柿の葉寿司」である。へぎ切りされた鯖の切り身を載せた一口大の寿司を柿の葉でくるんで作る。柿の葉には強力な殺菌作用があるから、塩と酢で保存性を高めた上に柿の葉でくるむことで保存性を高めたのだろう。最近は鯖のほかに、鯛やあなご、それにサーモンなどのバリエーションがあるがそれらは最近のもので、伝統的には鯖が使われた。そのおこりは明らかではないようだが、一説には紀州の漁民の発明とされる。
  紀伊半島南部にはもう一つ、伝統的な早鮓がある。サンマの寿司である。こちらは秋落ちの痩せぎすのサンマを使った姿鮓で一部はナレズシとしても消費されていた。サンマ寿司は京・大坂に運ばれることもなくもっぱら「地消」されていた。南紀出身の私の祖母は大みそか近くになるとこのサンマを何十本も買い求め、頭とワタを取って塩をし、さらに薄皮をむいて半日酢に漬けたものをすしにしていた。酢は、米酢に柚子の搾り汁を混ぜたものを使っていたと記憶している。冷蔵庫もなかった暖地で、しかしそれは人日の節供(1月7日)の頃まで日持ちがした。
  サンマ寿司は奈良県と三重県の「うちの郷土料理」(農林水産省選定)にもそれぞれ登録がある。案外それは熊野修験の修験者たちによって運ばれたものかもしれない。そして、サンマ寿司の地域は柿の葉寿司の地域と隣接する。京の鯖寿司と紀州・奈良の柿の葉寿司、さらに南紀のサンマ寿司。これら青魚の寿司という共通項を持つ。3者がどのようにかかわりの中で今の姿になったのか。今後の研究がまたれるところである。

おわりに
  鯖は全国各地で食べられる。いっとき「関サバ」が一世を風靡したが、大分県佐賀関や豊後水道を挟んだ対岸の愛媛側にあがる鯖は身が締まった高級魚であった。鯖はまたカツオ同様、「鯖節」にされ、各地で出汁の素材として使われている。独特の風味と強いコクが感じられる。
  鯖は世界中で食べられている。今国内で消費される鯖の相当量はノルウエーからの輸入品である。トルコにはサバのバーガーがあるし、また隣国のギリシアの鮮魚市場にもサバが並ぶ。他の魚種同様、サバもまた資源枯渇が心配されている。アジやイワシとともに大衆魚と言われたサバもいまや準高級魚の扱いである。絶滅危惧種に指定され、あるいは高級魚になって食べられなくなる前に、適正な管理のもと将来にわたって安心して食べられるようであってほしいと念じるのは私だけではあるまい。


                                                        
                         

■  近畿の鯖寿司は若狭対ポルトガルか?  ■

       

門上 武司
         大阪府生まれ
         フードコラムニスト
         株式会社ジオード  代表取締役
         関西の食雑誌『あまから手帖』  編集顧問
         農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」  審査員

  「鯖寿司はハードルがすごく高いです。少し時間をもらわないと店が見つかりません」と、タベアルキストから返信があった。加えて「関西のように割烹店にもうどん屋にもあるというメニューじゃないんです。関西から出店してきた店しか思いつかないのです」とも書かれていた。
  ある月刊誌で連載を持っている。概要は同じ料理をテーマとしての東西対決。テーマはお互い順番に提案する。関西(特に京都)在住の人間にとって鯖寿司は、じつに身近な存在であり、むしろ選択肢が多くて困るほど。だから東も簡単なのであろうと思い「鯖寿司」と投げかけた時のリアクションである。このやり取りを通じて鯖寿司が関西特有の発展をしたのだと理解するに至った。
  京都の鯖寿司は鯖街道と関連が深い。鯖街道は若狭小浜から京都の出町柳まで。若狭でとれた鯖を一塩して京都に運ぶための道路のこと。おおよそ一昼夜かけて京都に運ぶと、ちょうどいい塩梅になり、その脂の乗った鯖を押し寿司にしたのが鯖寿司と言われ、出町柳にある発祥という店もいまも現役で営みを続けている。
  鯖寿司に関わらず寿司は、寿司飯とネタのバランスが大切だと考えている。食べる側はネタに対する意見を言いがちだが、本来は寿司飯の分析をするべきだと思う。最終的には寿司屋を選ぶ基準は、寿司飯の好みだと感じる。関西の寿司は、塩と砂糖と酢が入るのでやや甘いのが特徴であった。だが江戸前の寿司を追求するあまり赤酢を使い、砂糖を入れない寿司屋が増えてきた。しかし、関西の白身(鯛など)にはどうも赤酢という、酢の酸味の強い寿司飯は合わないのではないかと考える料理人が、従来の甘めの寿司飯ではなく、酢もきかすが甘味を若干加える新たな関西風の寿司飯を考え始めたのである、鯖寿司の寿司飯も同じくバランス。それも分厚く脂ののった鯖を受け止める力量が要る。それは酢の力といえる。
  鯖寿司はこのところ変化が著しい。まずは寿司飯から始まった。一般的には酢と砂糖を加えた寿司飯だが、料理人がそこに趣向を凝らした。炒りごまをプラスすることで香ばしさが生まれ、脂ののった鯖との相性がよくなるのだ。次は寿司飯に醤油を混ぜ込む料理人も現れた。これは衝撃であった。これまで酢による酸味とは異なる。色合いも茶褐色。ビジュアル的にもインパクトがある。醤油もわずかだが香ばしさがあり、コクも増す。これが鯖と脂との塩梅がすごく良いのである。
  次なる変化も現れた。炙りという工程が加わった。鯖寿司の表面をバーナーで炙る。すると余分な脂が溶け、かつ鯖に焦げ目がつく。この焦げ目が効果をもたらす。焦げ目はメイラード反応で美味しさを感じさせる。最近は、鯖寿司を一貫ずつ海苔で巻いて手渡すスタイルも多くなった。これまでの鯖寿司の在り方を考え直すという料理人の意気込みが変化に加速をつけたような気がする。
  これは京都中心の動きだと思う。大阪ではバッテラという鯖寿司がいまも君臨である。バッテラとはポルトガルの小船(バッテイラ)の意味で鯖寿司の形が小船に似ているところからのネーミンング。だが最初は鯖ではなく、コノシロが大阪湾で大量に獲れたのでこれを使っていたが、明治以降は鯖が主流となった。しかし京都の分厚い鯖とは姿がいささか異なる。へぎ切りと魚の身をへぐように薄く切る手法である。京都の鯖寿司がこんもりとした形なら、大阪のバッテラは平らとなる。おまけに白板昆布が鯖を覆う場合がほとんど。そしてバッテラはあまり変化が乏しいというのが実感である。
  同じ鯖を締め、押し寿司として成立する鯖寿司だが、この違いは非常に興味深いものがあり、今後の進化と変化をしっかり食べ続けたいと思っている。




■  近畿の鯖鮓  ■

       奥村 彪生

           和歌山県生まれ
           伝承料理研究家・学術博士
           奥村彪生料理スタジオ『道楽亭』  主宰
           大阪市立大学大学院  非常勤講師

  日本全国にある郷土の鮓で多く使われてきた魚は鯖である。21県に及び、近畿が多く占める。鯖鮓とひと口で言ってもその種類は多彩。私が今日まで食べただけでも10種類はこえる。それらをここに紹介する。

1.馴()れ鮓(ずし)(成鮓(なりずし)とも言う)
  塩味をつけた米飯を漬床にした鯖の漬物である。握り寿司であっても正式には漬けると言う。だから、鮓職人が握る場を漬場と言う。食べるカウンターは漬け板だ。
  私は初めて鯖の馴れ鮓を食べたのは若狭小浜である。20年前、名人と称される方の座敷だった。発酵した米飯の乳酸の爽やかな酸味と香りが鯖の濃厚な味に重なって酒杯が進んだ。
  この鯖の馴れ鮓はいつ頃からご当地で漬けていたのか私は知らないが、ルーツは琵琶湖湖畔で漬けられていた鮒の馴れ鮓だろう。
  これとは別に「へしこ(鯖の糠漬け)」で漬けたものもあるが、この方が香りは芳しくうま味も塩鯖より優れていた。いずれも文化財的食品と言える。これら2つは滋賀県朽木村(現・高島市)でも食べたが、どちらが先に作り出したのかは判らない。

2.半馴れ鮓(生成(なまなり)とも言う)
  室町時代の『山科家礼記』にアメノウオ生成とある。大和吉野で杉材の樽や桶の製作が始まるのはこの時代。それ以前は甕(かめ)だった。樽や桶の出現でしっかり重石をして圧()()すことが可能になった。そのお陰で保存性や味も高まった。水分が押しぶたの上まで上がるから雑菌が繁殖しないからだ。それだけではなく、床にしていた米飯まで食べられるようになった。背割りした塩鯖(写真1)をいつ用いるようになったのか判らないが、塩鯖に塩味をつけた米飯をしっかり握って詰め、形を整えて樽や桶に並べる。押しぶたと重石をして、飯が酸っぱくなった頃に食べる。紀州和歌山市の弥助寿司はアセ(アシ)の葉で巻いて葉が黄色く変色するまで漬ける。別名腐れ鮓と呼ぶ(写真2)。これを食べたタイの留学生は「トイレの味がする」と言った。言い得て妙。これが通にはたまらない。醤油の発祥地、湯浅辺りではカンナの葉で包み、酸っぱくなるかならないかの時に食べる浅(あさ)(なり)だ。

3.早鮓(酢飯で漬ける鮓)
  炊き立ての飯に直接塩と酢で味付けする無発酵の鮓。江戸時代初期にあった(『料理塩梅集』)。魚介の膾()がルーツである。そぎ切り【(こけら)という】にしたネタを浸した酢で飯を味付けしている。この酢飯を用いることにより、鮓は手軽に漬けられるようになった。各地に伝わり、郷土の鮓として大発展する(写真3)。米酢の力が大きく影響した。

(1)丸鮓(姿鮓)(写真4)
  丹波や播磨などで祭礼に漬ける。背割りにした塩鯖に握った酢飯を頭から尾っぽまで詰める。大和八木市の今井町には昭和の半ば頃まで細綱で巻いた縄巻の鯖鮓があったと、不動産屋の娘さんに聞いた。紀州田辺市に昔、鰆と山芋を用いた繩巻鮓があり、それを鯖で再現したのを友人からもらって食べたことがある。

(2)棒鮓
  塩鯖の片身を用いるが、丸鮓にする土地もある。酢〆にして2枚にそぎ、長い長方形に並べ、その上に酢飯を乗せ、固く絞った布巾で圧して整形して、専用の箱に納めて重石をする。京都が有名だが、各地でも漬ける(写真5)。

(3)バッテラ
  これは大阪生まれで、酢〆の塩鯖を3枚ぐらいにそいで、長方形の木()(ばこ)を使って圧す。

(4)包み鮓
  ひと口半大に握った酢飯の上に酢〆の塩鯖のそぎ身【(こけら)】を乗せる。奈良県吉野(塩鯖は熊野と紀北の2つのルートで入った)や五条は渋柿の葉で包む柿の葉鮓(写真6)があり、紀北の粉河でも漬ける。朴葉を用いるのは奈良県の黒滝村、南紀の竜神ではワサビの葉だ。

(5)握り早漬
  包み鮓を裸にしたのが握り早漬。塩鯖でなく鮮鯖(活〆や首折鯖)で握るすし屋は大阪にあり、焼ノリを添える美饌。

(6)筥鮓(はこずし)
  バッテラと異なり、正方の小型の木枠を用いる。丹後地方で作るが、私は網野町で食べた。缶詰の鯖を用い、甘辛いそぼろを作る。筥に7分目ほど酢飯を詰め、その上にそぼろを置いて、押し出す。錦糸玉子や紅生姜などをトッピングする華やかな鮓。

(7)磯巻(ノリ巻)
  酢〆の鯖をそいで酢飯の間に挟んで焼ノリで巻いた長方形の圧しずしである。

(8)鳥取県米子発生の焼鯖ずしもあるが、棒ずしの〆鯖の表面だけバーナーで炙った炙鯖の方がうまい。

  馴れ鮓の発生地である東南アジアのメコンデルタ地帯から中国大陸西南部の雲南省では古代のままなのに、なぜ日本で大発展し、昇華したのか。その理由は日本の森林が生み出す清らかな水に恵まれたことにある。安心して生食が出来るからだ。そして地形が変化に富み、魚種が豊富であり、しかも味は佳い。中でも鯖は安価な上に、旬になると味は重厚になる。その上、日本の気候風土にマッチした温帯ジャポニカは冷めても美味しく、粘力と弾力を失わないから、短期間の漬け込みなら泥状にならない。それ故に半馴れや浅馴れが生まれたと言える。鮓は圧しが肝心。




▲写真1 背割りした塩鯖(焼津産) ▲写真2 鯖の馴れ鮓(弥助寿司 和歌山)  ▲写真3 鯖の早鮓(弥助寿司 和歌山) 



        ▲写真4  左  江戸時代京阪の鯖の丸鮓  右 いな雀ずし
(出典:『素人庖丁』浅野高造 編、法橋玉山 画、奥村彪生所蔵)
▲写真5 棒鮓(いづ重 京都)   ▲写真6 柿の葉鮓(奈良県吉野) 


                 
                            

■  滋賀の発酵文化と鯖なれずし  ■

      堀越 昌子

            滋賀県生まれ
            滋賀大学名誉教授・農学博士
            元京都華頂大学 教授

            滋賀の食事文化研究会 会員
            食まなび館 館長(長浜市に私設)

  滋賀県には琵琶湖の淡水魚をなれずしに漬け込む発酵文化が発達している。特になれずしの中でも筆頭格のふなずしは、琵琶湖周辺部だけに留まらず、内陸部の農村地帯にまで広がっており、家々で漬け込む技術が定着している。また米どころでもあり、お酒や味噌、野菜の漬物作りも盛んである。
  滋賀県は平成10年(1998)に滋賀の食文化財5つを選択した。選択基準は食習俗の形成、すなわち広範囲で食べられているかどうかという観点から選ばれた。その5つのうち2つが「湖魚のなれずし」と「日野菜漬け」で、発酵食品である。
  滋賀の湖魚なれずし文化の特徴はその多様性にある。まず小さな魚のアユ、モロコ、オイカワ、イサザ、ドジョウから、中型のフナ、ウグイ、ワタカ、ハス、そして、大きなコイ、ナマズ、ビワマスに至るまで、なれずしに加工してしまう。魚は塩切りしてから、桶の中で米飯に挟んで重石をかけて、嫌気性の条件下で数週間、あるいは数か月、数年間発酵させて、なれずしにする(写真1)。手間と時間はかかるが、なれずしにしておけば保存が効き、魚資源を年間にわたって食べることができるので、日頃の貴重な栄養源となってきた。またなれずし類は、お腹の調子を整える民間薬としての役割も果たしてきた。祭事には神饌となり、人呼びのご馳走として、ハレの日の主役となる。
  なれずしの味と香りは、原材料(米、魚)、塩の量、ご飯量、副材、漬け方、環境温度、発酵期間によって影響を受ける。おいしさの基準は家々で異なっており、それぞれ工夫とこだわりがあるので、家独特の風味を持つようになる。 手前味噌の言葉通りで、おいしさ基準の幅の広さ、多様性には驚かされる。  
  滋賀県には縄文晩期から弥生時代の稲作遺跡が数多く発見されている。それらの中で、フナの喉骨がまとまって出土している遺跡があり、ふなずしを漬けていた形跡ではないかと云われてきた。これから滋賀のなれずし技術は、弥生時代からあったと推察でき、稲作とともに大陸から日本に伝わってきたことを裏付けるデータとも考えられる。琵琶湖周辺部では、淡水魚資源が豊かにあり、なれずし加工はその魚資源を保存して、年間に振って利用するための不可欠の技術として永く継承されてきたと考えられる。
  滋賀には、福井の若狭や敦賀から鯖街道、北國街道が通過しており、琵琶湖水運と合わせて、多くの海産物が運ばれてきた。サバ、ニシン、昆布などが流通し、お祭りや行事などのハレ食を中心に食卓に並んだ。朽木の鯖なれずしは、雪深い里の冬場の保存食として、貴重なタンパク源となってきた。長浜では、鯖寿司、鯖そうめんとともに、鯖のなれずしがオコナイや春祭りのご馳走として登場する。長浜の鯖なれずしは、発酵期間が1~2か月間と短く、塩分濃度も低くして漬けるので、発酵してきたご飯もちょうど良い加減の酸味となり、祭りのご馳走として人気がある(写真2)。ふなずしの仕込みで鍛えた発酵技術があるからこそ、海産魚のサバもなれずしにすることができる。
  滋賀では他にも珍しいなれずしがある。どじょうずし、オイカワのめずし、ビワマスのこけらずしなどで、祭事や行事に合わせて漬け込まれて、客呼びのご馳走として登場するおもしろい発酵食品が多くある。



                ▲写真1 うぐいずし                            写真2 長浜の鯖なれずし


                                
                                   

■  鯖街道が育てたハレの日のご馳走ー京の鯖寿司  ■

       佐々木 勝悟

          京都府生まれ
          いづう  八代目当主(株式会社いづう  代表取締役社長)
          京都寿友会 会長
          公益社団法人京都府物産協会 理事
          京都料理芽生会 理事
          元日本青年会議所フードサービス部会 部会長

  京都の市街は四方を山に囲まれた盆地で、海産物は貴重品であった。いっぽう福井県若狭小浜というのは、古代から海産物や塩などの豊富な食材を京都へ納めていた「御食国」の一つであり、伊勢志摩や淡路島と並んで都の食文化を支えてきた。かつては昆布などを積んで北海道を出発した北前船が立ち寄った、京に最も近い港でもある。室町初期には、象や孔雀を積んだ南蛮船が日本で初めて上陸したほど、当時の小浜は一大港湾都市だったのだ。
  豊富な物資の中でも、特にぐじ(甘鯛)や鯖がたいへんよく揚がった。これらは小浜を起点として、熊川から朽木を経て大原へ、そして京都の出町まで運ばれた。そのためいつしか朽木越えの道は「鯖街道」と呼ばれるようになったが、戦国時代には織田信長が豊臣秀吉や徳川家康を引き連れ、越前朝倉攻めに用いた出世街道ともいえる道である。
  物資は、熊川、朽木、大原、出町と中継ぎの運搬人が待ち構え、リレー形式で運んだので早く京都に着いた。「京は遠ても十八里」という言葉があるが、約70 km の距離を一晩で届けていたのである。
  鯖は傷みやすいので水揚げしたらすぐ内臓を出し、そこへ塩を詰めて背負子に並べた。鯖が下、高級で希少なぐじを上に積むことで、鯖に重しがかかってほどよく塩が回ったのである。まさに「塩梅」よく味が整ったのだ。
  こうして届いた塩鯖が京の市場に並び、町衆の口に入った。若狭の人にとって鯖は大衆魚であったが、京の町衆には「若狭からわざわざ運んで来られた貴重な海の魚」であり、祭りなどめでたいハレの日のご馳走として珍重された。ちなみにぐじは高級魚だったので、皇族や公家に届けられたのである。

  さて、寿司の歴史を遡れば、魚を飯で漬けこみ発酵させた「なれずし」から、浅い発酵で飯も食べられるようになった「なまなれずし」に変化したのは室町時代頃といわれている。この時代、魚の切り身を飯にのせて型で押し、短時間寝かした箱寿司が登場する。同時期に、本来は魚を塩漬けしたあと飯を腹に詰めて発酵させた棒寿司もあったが、その発酵時間を略し、調味した飯に魚をのせて供したのが鯖寿司の起こりと伝えられている。江戸時代に入ると酢や砂糖が大量生産できるようになり、「早ずし」という現代の形に近づいてきたのだ。
  当店はかつて、京の台所といわれる錦市場で魚屋を営んでいた。大火で店を失い、天明元年(1781年)に祇園の現在地へ移ったとき、何か看板になるものをと考えた。そして、京都ではハレの日に家庭で鯖寿司を作って近所に配っていたことから、町衆のご馳走をいつでも食べられるようにして、祇園を訪れる旦那方や芸妓舞妓さんたちに喜んでもらおうとしたのだ。市井のご馳走を料理人の技で磨き上げ、世に送り出したのがいづうの鯖姿寿司である。
  現在も鯖は、日本近海の脂が乗った真鯖を使う。米は米所である隣県・滋賀県の江州米を一年寝かせ、水分を減らして使用している。米がまだ水分を欲する状態で炊き上がるため、酢をよく吸って味なじみが良い。そして寿司を包み込む昆布は、北前船からの伝統を受け継ぐ北海道産である。鯖はアニサキスを処理するため一度冷凍をかけているが、それ以外の工程はほとんど創業以来の伝統を守っている。
  いづうの鯖姿寿司は、時間とともに昆布が染みてどんどん味が変わり、風味が増してくる。作りたては握り寿司のように魚本来の味と飯のやわらかさが味わえる。5~8時間置くと、ほどよく酢がなじんで弾力性のある食感が楽しめる。翌日まで置くと魚・飯ともに締まり、また鯖の脂が浮き出すことによって、なれずしのように豊かな旨みが堪能できる。何時間ぐらい置いたら自分好みの塩梅になるというのが、握り寿司にはない魅力であり、海のない京都ならではの魚を美味しく食べる知恵でもあるのだ。
  若狭小浜からわざわざ届いた貴重な海の魚を、めでたい日に美味しく食べようと考えて編み出された鯖寿司。ご馳走として京に根付き、京の食文化の重要な位置を占めてきた鯖寿司は、京都人のハレの日のソウルフードといえる。




▲鯖姿寿司(いづう) ▲鯖姿寿司1本2人前(いづう)  ▲いづう


          
                                             

    ~編集後記~    

  「和食文化の保護・継承」のための本寄稿集作成にあたり、佐藤洋一郎教授をはじめご執筆いただいた皆様には、ご理解とご協力を賜りましたこと、大変感謝申し上げます。
  地域や家庭で受け継がれてきた食文化を今後どのようにして未来に継承していくかは職務として携わる私たちのみならず、すべての日本人の課題と考えています。
  「幼いころに食べたあの味をもう一度食べたいけれど、どこにもない」「あそこで食べたあの料理を食べたいけれど、すでになくなっていた」という悲劇が生まれないように、自らが情報を得、自らが食文化の継承者となっていただくことをお一人お一人に考えていただきたいと思っています。
  この寄稿集をきっかけとして、多くの方に近畿地域の食文化に興味を持っていただき、和食文化の保護・継承活動につながるネットワークづくりをしたいと考えています。
※「和食文化ネットワーク近畿」では、和食文化の関係者をつなぎ、関連情報の提供等を行っています。
   多くの方のご参加をお待ちしております。(*和食文化ネットワーク会員募集へリンク


お問合せ先

経営事業・支援部 地域食品・連携課

担当者:和食・食文化担当
ダイヤルイン:075-414-9025
FAX番号:*