このページの本文へ移動

近畿農政局

メニュー

巨椋池の課題


イメージ写真(右側):「沖野忠雄博士」出典:建設省近畿地方建設局 『淀川百年史』 1974年

1.宇治川(淀川)の水運と頻発する水害

  古くから重視されてきた宇治川(淀川)筋の水運ですが、江戸時代には、旅人や物資の輸送を行なった三十石船(※米三十石相当の積載能力を持っていたため、「三十石船」の名称が付けられました。江戸時代には、京の伏見と大坂を上下し、旅客を輸送する乗合船を指すようになっていました。などが行き交い、かなりの船が宇治川を上下していました。明治維新の史跡として名高い伏見の寺田屋も、舟宿として盛況した宿だといいます。さらに、明治に入ると、伏見・大阪間には、蒸気船が就航するようになります。
  しかし一方で、徐々に土砂の堆積が進んだ宇治川は、明治の初めには、極めて浅い流れとなっており、水害が後を絶ちませんでした。巨椋池周辺では、明治4年、9年、17年、18年、22年、23年、29年、36年、40年と大規模な水害が頻発しています。淀川の水害もひどく、明治18年には、被災者27万人余りという大災害を記録し、以降も多くの水害に襲われています。大型船の水路を確保するためにも、大阪を含む淀川流域で頻発する水害を防ぐためにも、宇治川(淀川)筋の改修工事は緊急の課題となっていました。


淀川を走る蒸気船
淀川を走る蒸気船

 

 2.宇治川(淀川)の改修

  当初、大型船水路を確保するための修築工事の指揮をとったのは、オランダ人技師ファン・ドールンらです。彼らの測量と計画に基づいた淀川修築工事が、明治21年におおむね完了します。

  一方、明治18年の洪水を受けて、治水目的の大規模な改良工事が行なわれます。指揮をとったのは、内務省技師であった沖野忠雄博士。オランダ人技術者の工法をわが国の河川様式に取り入れた功績で名高い人物です。現在の南郷洗堰(瀬田川)瀬田川を浚渫し、川幅を広げ、そこに巨大な南郷洗堰(なんごうあらいぜき)を設置することで、琵琶湖の水位を安定させ、宇治川の流量を調節することが可能となります。この画期的な発想が実現されたのは、明治38年のことでした。これによって、長年、巨椋池が果たしていた遊水池としての役割は著しく減少し、宇治川、桂川、木津川の三川合流部分の付替えが可能となります。

  淀の町の北側を通って、桂川に合流していた宇治川には、新水路が作られ、三川の合流地点は、下流へと移転されました。川幅は広げられ、伏見から木津川との合流点に至る約10kmに至る両岸には、新堤が造られたほか、約5.7kmの旧堤の拡張などが行なわれました。

  明治39年、工事が完了すると、巨椋池は宇治川と切り離された独立した湖となりました。



現在の南郷洗堰(瀬田川)
現在の南郷洗堰(瀬田川)
写真提供:滋賀県


切り離された巨椋池と宇治川
切り離された巨椋池と宇治川



 3.淀川と分離された巨椋池

  明治39年、淀川と切り離された巨椋池は、長い水害の歴史に加え、新たな厄災が訪大正7年頃の巨椋池れます。

  巨椋池は、宇治川本流とは淀・一口(いもあらい)間の水路によって結ばれるだけとなったため、大雨が降ると流域内の水が排出できず一度に溢れることになりました。また、水の循環を失った巨椋池は、池周辺から流れ込む生活廃水や農業排水によって水質が悪化し、池の底には汚泥が堆積しはじめます。これが蚊の大量発生を招き、風土病ともいわれたマラリアが発生し始めました。昭和2年には、巨椋池沿岸19か村がマラリア流行指定地とされました。水質の悪化は当然、周辺の農家にも悪影響を及ぼします。さらに、宇治川と分離し、水位が低下したことで、池の魚類は減少し、漁獲量も減っていきました。

  農業者にとっても、漁業者にとっても、巨椋池での生活は立ちゆかなくなりつつありました。巨椋池から豊かな池の面影がなくなってしまったのです。

 

   大正7年頃の巨椋池
   大正7年頃の巨椋池


4.巨椋池干拓へ

  当時、農家の平均耕作面積は約1haで労働力にも余剰がありましたが、改修後の浸水田や湿田の増加によって収穫も伸び悩み、農家の経済は窮迫していきました。片や漁民も漁獲高が減少した結果、昭和初年には兼業農家が大方を占めるようになりました。こうした状況に対処する改善策として最終的に選ばれたのが、干拓という方法でした。しかし、干拓の是非をめぐる議論や漁業者への補償問題など難問は山積していました。これまで築き上げてきた伝統的な生活様式を改めるには、長い時間と一大決心を必要としたのです。

  これらの経緯や苦労は、大著「巨椋池干拓史」に詳しく記されていますが、関係者の熱心な運動の結果、食料の増産という直接的な効果とともに、農村での雇用機会の創出という失業対策の側面を持っていることが重視され、ようやく昭和7年、国内初の国営干拓事業としての実施が可決され、翌年(昭和8年)、事業の着工となりました。

   池の水を汲み出すために、宇治川の側に排水機場をつくることから始められ、排水ポンプ10台によって、池の底であった約800haは陸地になり、そのうち634haが新しい干拓田として生まれ変わり、耕作のための道路や用排水路が整備され、整然とした区画の農地となりました。あわせて、周囲の水田1260haの用排水改良も行われました。

  昭和16年、事業が完成しますが、干拓田の払い下げが全て完了するのは、昭和23年のことでした。干拓田は沿岸農漁民にも払い下げられ、周辺農家約500戸は一挙に今までの2倍の約1.6haをもつ自作農となりました。周囲の水田と合わせて、戦中戦後の食糧難の時代には、食糧事情の改善に大きな貢献を果たすとともに、農家の営農意欲が高まり、農村経済安定の基盤が築かれました。また、干拓以前には、巨椋池沿岸地域は毎年数百haに及ぶ浸水被害を受けていましたが、排水ポンプによる排水が可能となり、水害を防止することもできるようになりました。


昭和8年6月18日 巨椋池干拓起工式
昭和8年6月18日 巨椋池干拓起工式



現在の巨椋池
現在の巨椋池



国営干拓事業完了時の平面図
国営干拓事業完了時の平面図









お問合せ先

農村振興部設計課

担当者:事業調整室
代表:075-451-9161(内線2521)
ダイヤルイン:075-414-9513
FAX番号:075-417-2090