地域の歴史
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水の都、柳川 | 三池炭鉱 | 昭和の干拓事業 |
有明海東部地区の歴史
水の都、柳川
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「50年に一干拓」と言われた有明海の干拓。有明海東部地区の事業地域である柳川には籠(こもり)・搦(からみ)・開(ひらき)・新開など独特の地名が残っており、盛んに干拓が行われたことを今に伝えています。堤防に囲まれたひとまとまりの水田が魚鱗のように並んで次々と海に向かって付け足されていきました。 そうして出来上がったウロコ状に広がる干拓地。そのほとんどは、極端な低湿地です。 満潮時、海面より低くなる干拓地。一度大雨が降れば平野全体が水浸しになってしまいます。人々はいたるところに溝を掘り、地面を高く盛り上げて排水を図りました。これらの柳川の町に張り巡らされた水路網はクリークと呼ばれます。クリークは、満潮時に海水により押し上げられた淡水を取水する淡水(あお)取水の際にも利用されました。つまり、クリークは単なる川ではなく貯水機能を有するいわばため池のような役割を果たしていたのです。 16世紀の終わりごろ、柳川一帯を治めた田中吉政は海岸に20kmにも及ぶ堤防を造成し、総延長470kmというこのクリーク網を整備しました。また、クリーク網全体で水制御を図るため、何千にものぼる樋管、樋門などでクリークの水量を調節し、壮大なシステムを築きました。柳川で行われたこうした徹底的な治水利水工事によって、平野全体に及ぶ水体系の基盤が築かれたのです。 |
三池炭鉱
有明海東部地区の三池工区は、現在では干拓地で盛んに農業が行われていますが、つい数年前までは、石炭の採掘が行われていました。 一時は全国の石炭の4分の1の採掘量をほこった、日本最大の炭鉱「三池炭鉱」。その歴史は、1469年、現在の大牟田市大浦町付近で「燃える石」が発見されたことがはじまりとされています。炭鉱の歴史は明治、大正、昭和と続き1997年に閉山するまで地域経済基盤として重要な役割を果たしていました。 三池炭鉱は、炭層が有明海側に傾斜した形でのびています。そのため、時代を重ねるごとに坑口が海へ海へと移り変わっていきました。当時の町を支えた四山坑・三川坑・有明坑・三池坑などは有明海海底350~450m付近の炭層を採掘していたといいます。 エネルギーとしての「石油」の台頭により石炭の需要はなくなり、三池炭鉱はついに閉山にいたります。後に残された資源は農地だけとなりました。 三池炭鉱の出炭量
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昭和の干拓事業
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有明海東部地区は、福岡県の最南部に位置する大牟田市、みやま市、柳川市にあり、筑後平野の一部にあたります。 筑後平野は、筑後川の旺盛な堆積作用と有明海の干満差によって広大な干潟が形成され、それが干拓されて造られた土地であり、中世の荘園開発や江戸時代の新田開発によって干拓が進められてきました。 第二次世界大戦が起きると、戦中・戦後の食糧不足が国家的な課題となり、より大規模な干拓を望む声が高まります。こうした時代背景から、有明海東部地区では、国や県が実施主体となり、以下の3地区で大規模な干拓事業が行われました。 |
昭代干拓は、筑後川から沖端川までの地先120haを代行干拓により干陸したものです。この地区の地質は、有明粘土と呼ばれる超軟弱地盤であり、しかも粘土層が比較的浅く中砂混じりであるため、堤防の築造には難工事が強いられました。 事業は、昭和18年、農地開発営団により着工され、戦後の昭和23年に県の代行事業となり、昭和38年6月に完成しています。 |
大和干拓は、塩塚川及び矢部川の河口に拡がる干潟地を延長 5,473mの防潮堤で囲み、331haを干陸したものです。当初は福岡県が基礎調査を進めていましたが、その後、農林省によって全体実施設計が行われ、昭和33年に着工しました。昭代工区同様、有明粘土といわれている超軟弱地盤上に堤防が築造され、昭和45年9月に完成しています。 |
三池干拓は、明治の中期頃から干拓計画がしばしば進められたものの実現には至らなかった地区です。戦後の食糧増産政策によって農林省の直轄事業となり、矢部川から堂面川までの地先541haが干陸されました。昭和27年に着工したこの事業では、昭代工区、大和工区同様、有明粘土といわれる超軟弱地盤上に堤防が築造され、昭和42年12月に完成しています。 |
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