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干拓とは

干拓とは
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干拓ってなんだろう 潟(ガタ)ってなんだろう 干拓や埋め立てでできた三大都市   
主な干拓事業 干拓の父『ヤンセン博士』
 

干拓ってなんだろう 

  「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」   オランダを流れるライン川によって上流から運ばれた大量の土砂が下流部へと堆積し、河口部に浅瀬や州できました。治水に長けたオランダの民族は、こうした浅瀬や州を干拓し、国土を海へ海へと広げていったのです。13世紀ごろに始まった干拓事業により、現在の国土の3分の1に及ぶ、約14,000km2もの土地を新たに造りあげました。この面積は、熊本県の面積の2倍程度に相当します。
   日本は、外国に比べて極端に平野が狭く、一人あたりの農地面積はわずか数アール程度。限られた土地しか持たない日本人もまた、必然的にオランダ人と同様、新しい土地を海に求めました。
   海に土地を作る方法として、埋立てと干拓があります。埋立ては神戸市でみられるように、山を崩して海を埋めるという方法です。この埋立てには規模にもよりますが、山ひとつ分の土が必要といわれています。一方、干拓はというと、海を堤防で締切るだけ。海を締切り、海水を排水することで現れた海底がそのまま陸地になります。土地の造成自体は、埋立てより手間はかかりません。しかし、干拓がどこでもできたかというとそうではありません。干拓は、よほど遠浅か、潟のできる自然条件が揃っていないと行うことができないのです。


 

潟(ガタ)ってなんだろう 

 北海道サロマ湖北海道サロマ湖    潟(ガタ(干潟))とは、河川による土砂の供給によって形成された遠浅の海岸で、満潮時は隠れ、干潮時には陸地になる所をいいます。
   時に潟は大きな湖をも形成します。左の写真は、北海道のサロマ湖ですが、湾が砂州によって外海から隔てられ、湖となっているのがわかります。
   ほかに、秋田県の八郎潟、金沢の河北湖などが潟湖として有名ですが、長い年月をかけて、川の上流から運ばれた土砂が下流に堆積し形成された潟は、こうした特殊な地形さえも形成しました。
   新潟もまた、その名のとおり、潟によって形成された土地です。その昔、土地のほとんどは海でしたが、信濃川、阿賀野川などの土砂の堆積によって新しい潟ができました。 
 

干拓や埋め立てでできた三大都市 

   今でこそ、日本三大都市として数えられる東京、名古屋、大阪ですが、江戸時代以前はこれら三大都市でさえ、その多くが海の底でした。
   東京は、昔、江戸城のあった現在の東京都千代田区千代田あたりまでが海であったといわれています。徳川家康が八丁堀、八重洲、汐止などを埋め立てて土地を造り、以後、埋立ては近年まで続き、湾岸地帯が築かれました。
   名古屋市の南区、港区も、そのほとんどが江戸時代の干拓によって造られた土地です。その広さは約5,000ha。昭和34年9月、未曾有の災害をもたらした伊勢湾台風の際、干拓地のほぼ全てが浸水し、江戸時代以前の海岸線が現れたといいます。その海岸線はちょうど現在の国道一号線にあたります。
   大阪、河内平野もまた、古墳時代までは河内湖という大きな湖で、現在の大阪市街も上町台地を除いてほとんどが海の底でした。 これらは淀川の土砂などによって次第に埋められていき、陸地化するために干拓が行われました。
   海を干拓する場合、陸地化しても数年は土地に塩分が残ります。干拓農民は塩が抜けきるまで、塩分に強い綿を植え付けました。明治以降、大阪が繊維産業の街として発展できたのも、この地域で盛んであった綿作が大きな要因であったといわれています。同様に、岡山、倉敷で紡績業が発展したのも、干拓による綿の栽培によるものです。
 

主な干拓事業 

国営干拓事業の先鞭をつけた巨椋池干拓

   明治39年に行われた宇治川の付け替え工事により、巨椋池は完全に川と分離されました。それとともに池の水位は低下しはじめ、漁獲量は減少し、マラリアが発生する事態に陥ってしまいました。こうした状況を解決するために行われたのが、巨椋池干拓です。
   実施までには、幾多の困難を伴いましたが、周辺住民の熱心な運動が実り、昭和7年、日本で初めての国営干拓事業として実施が可決され、翌、昭和8年に着工されました(完成は昭和16年)。干拓による農地の造成面積は634ha。併せて周辺の農地1,260haの改良が行なわれました。

琵琶湖  大中湖干拓

   第二次世界大戦がおこり、食料増産・農地造成が叫ばれた際、真っ先に注目されたのが、琵琶湖周辺の大中の湖や小中の湖をはじめとした琵琶湖周辺の内湖でした。内湖のほとんどは水深2m程度と浅く、干拓後に塩害の心配がない淡水湖であり、海よりも干拓しやすかったためでしょう。
   昭和17年、まず初めに着手されたのが、小中の湖の干拓でした。続いて、昭和21年には、大中の湖の干拓事業が始められます。大中の湖の干拓には、21年間もの歳月を要し、この事業によって1,145haもの新たな農地が生み出されました。
   現在では、圃場整備された1戸あたり約4haという広大な農地(約球場一つ分の大きさ)で、大型の機械を使った近代的農業が営まれています。

八郎潟干拓  琵琶湖に次ぐ第二の湖

   琵琶湖に次ぐ国内第2の湖であった八郎潟。約22,000haという途方もない湖を干拓し、近代的農村を建設するという壮大な計画が始まったのは昭和27(1952)年のことです。
   工事着工は昭和32(1957)年。汚泥が堆積した超軟弱地盤、周囲52kmに及ぶ堤防の築造など、幾多の難問が立ちはだかった八郎潟干拓事業は、干拓の父と言われるヤンセン博士の指導により、あまたの工夫や努力を積み重ねて、昭和39(1964)年に完了を迎えています。続いて、40年より「八郎潟新農村建設事業団」が設立され、新農村建設事業を開始。そして、すべての国営干拓事業が終了したのは昭和52(1977)年です。
   新しく生まれた国土は約17,000ha。神奈川県の全水田面積に匹敵する広さです。現在では約1,000世帯人口約3,300人の村へと成長しました。営農は1戸あたり15ha。日本の平均農地面積の10倍を超す大型農業が営まれています。
 

干拓の父『ヤンセン博士』

   実現不可能と思われた八郎潟干拓を成功へと導いたのは、オランダの技術者ヤンセン博士でした。
   ヤンセン博士は昭和29(1954)年に来日し、そのわずか3ヵ月後に「日本の干拓に関する所見」と題するレポートを国に提出しています。当時の農林省の記録には「この報告書は、当時各省が招いた外国技術者の報告書中、最高のもので、内容は立派であり、量は膨大であった」とあります。財政に厳しい大蔵省までが、好意ある予算的協力を惜しまなかったというほど高い評価がなされました。また、日本の技術者たちは、このヤンセン博士の報告書を見て、八郎潟干拓の成功を確信したといいます。とりわけ難題であった超軟弱地盤での築堤は、オランダが開発した「サンドベッド工法」(堤防下5m程度の汚泥を取り除き、幅130mの砂床に置き換える)で可能となりました。
   しかし、ヤンセン博士は首相への報告の中では日本の技術陣の能力を称え、「何故私が招かれたのか真意がわからない」と言ったそうです。この謙虚さが日本人を奮い立たせたのでしょう。その後着々と工事は進み、干拓は実現にいたりました。

ヤンセン博士の詳細についてはこちら→→→http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/akita_02/

お問合せ先

有明海岸保全事業所
TEL:0944-22-3961
FAX:0944-22-3974

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